あるがまま 精神科医 松薗りえこのブログ

あるがまま 精神科医 松薗りえこのブログ

アマラクリニック表参道 〒107-0062 東京都港区南青山3-10-38 1F Tel : 03-6438-9869

お薬をやめていきたい方・お薬以外の根本的な治療を探している方、ぜひご来院ください。お薬を使わないと通院期間も短くてすみます。
お気軽にご相談ください。

他のクリニックでたくさん薬を飲んで、数年間何もしていない20代の患者さんが、少しずつよくなっていくのを見ていると、しあわせになります。

 

 第二次の酒飲まないフェーズに入っている。

 

 禁煙も数えきれないほどやったし、これがいつまで続くかわからないけれど。

 

 都度都度気づきがあるから、よしとしようではないか。

 

 飲まない2週間目に感じたことは、お通じがすっきり出ること。

 

 この、朝のスッキリ感がすばらしくて。

 

 あとは身体のぶよぶよ感が減って来た。

 

 いろいろある。お茶やごはんが美味しく感じるとか、ふとした瞬間の景色の美しさに心を奪われるとか。

 

 第一次のフェーズは忘れもしない去年の12月22日だった。ものすごく辛い風邪をひいて。

 

 大好きな友達と行くのを楽しみにしていたフーコック島の旅行中も、なんとお酒が飲めず。

 

 体調は1カ月くらいで戻ったけれど、せっかくだから続けてみようと思い。

 

 それは去年の5月末くらいまで、約半年続けました。(途中同窓会で1日飲んだけど。。。)

 

 続いたというより、最後は続けた、という感じ。

 

 その半年の間、後半のほうはだんだん「我慢」になっていた。

 

 飲まないでみて分かったことだが、自分の人生は酒で回っていた。というより、酒の力で回っていたと錯覚していた。

 

 どういうことかというと、大学に入ってからの友人たちは皆、酒飲みで、交際したボーイフレンドもみんな酒飲みだった。

 

 結婚した人も酒飲みで。

 

 今となっては酒飲みを選んでいたふしもある。

 

 そういう人たちといっしょにいると楽なのだ。

 

 無意識のうちにある闇の部分を見なくて済むような錯覚を酒はくれる。

 

 酒飲みの友達たちにも、それをくれるような感じがしていた。

 

 その心地よさを記憶している脳のなかのある部分が、「飲めば楽になるよ」と言ってくるのだ。

 

 なので、いつの間にか我慢になり、

 

 6月の暑いある日、「いやあ、これはビールでしょ」という考えに支配され、ついプシュッと。。。

 

 本当に酒の支配力とは恐ろしいものである。

 

 飲んだときのメリットと錯覚しているイメージは強力なのである。まあタバコもそうだったけど。

 

 その後、ほどなく毎日ビール350ml1本が、ビールプラス日本酒1杯。それが日本酒2杯になり。

 

 休みの日の昼間に、スーパーでつまみを買って来てはビール。

 

 「ビールひと缶くらいだから、いいよね」ってことになっていた。

 

 近くに行きつけの飲み屋さんもできて、やっぱり楽しいと思い始め、

 

 「昔に比べると飲めなくなったし」「飲む量減っているからいいよね」

 

 脳のなかは合理化でいっぱいになっていた。

 

 まあ、いまのところ飲んでいないのはたかだか20日弱ですが。

 

 これからクリスマスもお正月も待っているし、年明けには大学時代のクラス会もある。

 

 冷蔵庫の中にはビールとシャンパンと日本酒が入っているし。どうなることか見てみようではないか。

 

 

 

 さて、無意識のなかの闇の部分って書いたけど、そこに気づきの光を当てると消えていくらしい。

 

 自分のパーソナリティは外から押し付けられた気がしたり、そうしなきゃいけないと錯覚していたから作り上げたものらしいけど、

 

 もう必要じゃなければ、さようならはすぐにできるらしい。

 

 そのパターンを見つけることが肝心である気がしていて、今それにはまっている。

 

 最近気づいたのは、「ノリの良さ」みたいなものを持ち続けていたこと。誘われたらホイホイついて行くみたいな。

 

 それがいけないわけじゃないけど、よく見てみると腹の底は行きたくないかもしれない。

 

 それに気づけば行かないしやらないことも選べるのだ。

 

 当たり前と勘違いしていたある種の深刻さや癒えていないと錯覚している悲しみや、もろもろのものにさようならする。

 

 無意識を意識化してお掃除していく。

 

 どうせなら後悔や悲しみや恐れやもろもろのことを光にあてて消していき、からっぽになって死んでいきたい。

 

 

 

 こんにちは。

 

 昨日何気なくOSHOの最後の講話「禅宣言」を読んでいて、輪廻転生の謎が解けたので書かせていただきます。

 

 私たちは人の苦しみや悲しみを背負っていると言うOSHOの話について質問がありました。それはどういうことでしょうと。

 

 それについてOSHOは、たいていの人は苦しみや悲しみを背負って生きているが、それは微妙なエネルギーとして私たちも受けている。

 

 人は悲しみ苦しみについて話すことも多いし、人からの話などにも悲しみや苦しみのエネルギーがあり、微妙にそれを背負っている。

 

 この世にあるそういったものを知らず知らず背負って生きているんですね。

 

 で、記憶というのもエネルギーのようなもので、世の中にそれらのさまざまなものが混在しているわけです。

 

 そういった何らかのエネルギーのあるものが子宮のなかに入り込んで、誰かの生になっていく。

 

 前世の記憶と思っているものはそういったエネルギーで、いろんなところから受け取ったエネルギーだったりする。

 

 なので、輪廻転生は私たちが理解しているような形ではない。

 

 私たちは「私」というものが、次の生で別の人間として生きるというイメージをもっていますが。そうじゃなく、死ぬときに解き放たれた何らかの記憶・感情などのエネルギーが誰かの生に受け継がれるのだそうです。

 

 

 

 へええ、ですよね。

 

 だから悟った魂にもう次の生はない、というのも、悟った魂は悲しみや憎しみや後悔や苦しみなどの感情や記憶を残さずに死ぬから、この世にそういったエネルギーを放出しないで死ぬから、誰かの生に引き継がれることがないのだそうです。

 

 これを読まれて賛否両論あるかもですが。私はすごくすっきりし、目からうろこでした。

 

 今を精いっぱい生きて、可能な限りマイナスのエネルギーを放出しないように。

 

 できれば死ぬときは悟った魂の最後でいたいなあと思ったのでした。

 

 

 

 小学校低学年の頃から中学年の頃だと思うけど、家の三面鏡をのぞき込んでは、「自分っていったい何だろう」と思っていた。

 

 その頃に北海道の鶴居村から釧路市に移り住んで、家に三面鏡なるものが初めて出現。

 

 それ以前はお母さんの鏡台。むかしは、木製で全身が見られるように縦長の鏡がついていて、その鏡は使わないときは布で覆っていたっけ。

 

 三面鏡をのぞき込むと左右に自分の顔がずらーっと並んで、最初は面白くて。

 

 そのうちに、この自分って呼んでいるものは何なのだろう、って思うようになった。

 

 子どもの頃のありようって、魂というか本質に近い気がする。

 

 身体動かすのが好きな子と、家にいて一日中絵を描いている子は、ありようが違う。

 

 で、本質通りに生きれば、前者は身体を動かす仕事について、後者は絵を描いたり、それがむずかしければ、家でひとりで行う仕事につく。

 

 そんなわけで、なんだかんだ言って精神科医やっているってことは、本質通りに生きているのでしょうね。

 

 あとは、乳歯が全部虫歯でみそっ歯(むかしはこう呼んだ)だった私は、甘いものが大好きで。食に関する依存症になりがちな本質もあるんだろうなと、改めて気づくのだ。

 

 ついチョコレートとか。酒だって糖質だよね。

 

 

 

 脱線しましたが、あの頃の疑問がはじまりで。

 

 そんな疑問符をかかえながら、いろんな体験をしたし、これからもしていくのだが、

 

 「自分って呼んでいるものって、なんなんだろう」

 

 いやこれは永遠に続くかもしれないような、壮大なテーマだなあ。

 

 

 

 先日友人が、

「悟ったっていう人に聞いたら、喜びも悲しみもなくなるらしいよ」と言っていて、

 

 以前、別の友人は、

「悟ったらこんなに美味しいもの食べても幸せって感じられないかもしれない。そう考えたら悟るの嫌だな」と言っていた。

 

 ほんとうにそうなのだろうか。

 

 体験しないとわからないんだけど。

 

 体験できないかな。

 

 OSHOの本に、「悟ろう、悟ろう、と思うことが余計悟りを遠ざけているのだ。悟りはすぐそこにある」というようなことが書いてあって、

 

 えっ、どこに?ってキョロキョロしてみたが、全くわからない。

 

 

 

 20年近く前になるかもしれないが、内観療法を受けたときのこと。

 

 7日間起きている間は半畳のスペースで、幼少期からさかのぼって近親者に対しての「お世話になったこと」「お返ししたこと」「迷惑をかけたこと」について思い返し、1時間ごとに来てくださる世話人の方にお話する、というものなのだが、

 

 最初は退屈で、早く終わらないかなとずっと思っていて。時間をつぶすのがものすごく辛くて。

 

 しかし3日目くらいから急激に意識状態に変遷をきたし、時間がものすごく早く感じるようになり、感情がほとばしり号泣し、世話人に話したくてしょうがなくなり、内観療法が楽しくて楽しくて。

 

 帰りはすべてがキラキラして見えて、飛んでいる蝶に「ちょうちょさん、こんにちは」って話しかけ、ディズニーのプリンセスにでもなったような気分で、踊るように帰ったのでした。

 

 あれが悟りの至福ってやつなのじゃないのかなと思っているのだが。

 

 どうなのでしょう。

 

 帰ってから、酒を飲みタバコを吸い、あの頃のルーティンで生活していたら1日も経たないくらいにしぼんだけど。

 

 あの感じが持続するなら最高なのだが。

 

 これからいろいろと手を変え品を変え、いろいろと体験し考察することで気づきが深まり、

 

 普段から少しでも意識状態が持ち上がり、喜びや至福の体験を垣間見れたら。。。

 

 OSHOの「悟りは難しくない」という言葉を信じて。

 

 みなさんもいっしょにどうですか??

 

 

 

 

 今日は着物で来ました。

 

 着物ってルール上は6月から単衣になるらしいのだが、もう浴衣でもいいくらいの気温(私にとっては)。

 

 今日は単衣に麻の帯。襦袢の袖も麻です。

 

 それでもカフェで温かいカフェラテ飲んだら暑くて暑くて。

 

 着替えるときもエアコン22度にして着て。

 

 

 着物って素晴らしい。

 

 背筋がしゃんとするし、勝手にうひゃうひゃする。

 

 5月1日に引っ越すことになり、昨日2件の引っ越し業者に見積もりを依頼した。

 

 あまりの違いに驚いた。

 

 大手が「できません」ということを、新興の業者は「やります」と言ってくれる。

 

 金額もものすごく違って、新興の業者に頼むことにした。

 

 わがままを聞いてくれて安いというのももちろん決め手になったが、

 

 見積もりに来てくれた方が、海〇星〇さんというすてきな名前で。

 

 わがままについての気持ちをいろいろとわかってくださり。

 

 実際の引っ越しにどう反映されるのかものすごく楽しみなのである。

 

 わがままとは、

 

 ①13時に新居に着く。②着物を着物ケースに入れる。③当日洗濯機を設置する。④梱包をしてくれる。

 

 これをすべて聞いてくれるの。すばらしいじゃありませんか!!

 

 引っ越しがものすごく楽しみなのである。

 

 まだ物件の契約もしていないのですが。。。

 

 

 クリニックに臨床心理士・公認心理士が3人いてくれて、すごく癒されている。

 

 患者さんのためにと、思い切って増やしたのだが、自分のためになっていることに昨日気づいた。

 

 なぜこれを早くしなかったのか。

 

 たぶん頭が小さくまとまっていたのだろう。

 

 「これは難しい」と判断するメカニズムってなんなのでしょう。

 

 たぶん不安や恐怖、過去のデータから判断しているのだろう。

 

 「何をどうしていきたいのか」「どう作り上げたいのか」というところから見て、思い切ってジャンプする。

 

 なかなか難しいけれど、現実は作り上げることができるのだと改めて思った。

 

 すばらしい先生たちなので、オンラインでもできますのでぜひ受けてみてください。

 

 今通っている方も、保険診療でできるから考えてみて欲しい。

 

 

 

 思えば自分もいろんなセラピーを受けた。

 

 「現実はこんなもん」と思ってそれに従って生きるのも悪くないが、「現実はこんなもん」という認識が間違えていたとしたら??

 

 間違えているのにその思い込みに従って生きて苦しんでいるとしたら?

 

 いろんなセラピーで脳の枠組みをぶっ壊してもらったおかげで、ずいぶん楽になりこの世を楽しめるようになった。

 

 今でも最初に書いたように、不安や恐怖や脳の枠組みから現実を決めつけてしまうことはあるが、

 

 それが幻であり脳のプログラムだとわかっているだけで、気分は違うのだ。

 

 さてさて、あとは歓迎会のセッティングだ~~。

 

 スポーツ観戦が好きで、プロ野球をよく観る。

 

 神宮球場が好きだがヤクルトファンになったことがない。

 

 北海道出身なので日ハムを応援しているのだが、交流戦でヤクルトと対戦するときに2年に1度神宮球場に来るから、それは行くんだけど、

 

 普段も神宮球場に応援に行きたいなあと思っていたら、去年、急に中日ドラゴンズが好きになった。

 

 去年まで3年間監督していた立浪さんの影響も大きかった。

 

 1イニングでビデオ判定の権利を使い果たしちゃったり、特大ファウルをホームランだと勘違いしてビデオ判定しようとしたら、外野の中日ファンに止められるなど、

 

 面白すぎて。

 

 立浪さんがおやめになるときはしばらくロスでした。

 

 3年間はすべて最下位なんて、なかなかできることではない。

 

 それにチュニドラと揶揄されて、面白い負け方を期待されているチームでもあった。

 

 

 

 現在も最下位だし、昨日の試合が終わるまで1イニングに2点以上とれず、スコアボードには0か1だけ。まだホームランがない唯一のチーム。。。

 

 満を持して昨日、今シーズン初の神宮球場へ行ってきました。高橋宏斗のユニフォーム着て。

 

 そうしたらなんと、1回の表に3得点。いやびっくり。

 

 その裏、山田哲人に3ラン打たれて、すぐ同点に追いつかれるあたりはチュニドラらしかったが、

 

 カリステのスーパー走塁、細川、ブライト健太のホームランで1点差で逃げ切り勝ち。

 

 信じられなくてほっぺたつねりました。

 

 やっぱり勝つとうれしい。

 

 席の周りは中日ファンの方たちばかりで、最下位でも負けていても野次は飛ばさないし、

 

 2アウト2,3塁の4番バッターに、「ショートゴロでいいぞ!」というやさしい皆さま。

 

 うれしくて温かい。ほのぼのしながら家路についたのでした。

 

 先ほど青山川上庵までごはんに行って、隣の隣にお洋服のお店ができているのを発見し、入ってみた。

 

 SIIILON(シーロン)というブランドで、たまたまデザイナーさんがいた。秋冬の受注会なので6日までお店にいるらしい。

 

 高速戦隊ターボレンジャーに出てくる妖精の名前だとか。

 

 わんこが好きでこんなお洋服作っているのですって。

 

 

 お洋服にたがわずかわいらしくて素敵な女性でした。

 

 クリニックのある通りは静かで人通りが少ない。

 

 そのお店の建物は事務所に使われていることが多くて静まり返っていたのだが、華やかなアパレルのお店ができて嬉しい。

 

 何着か試着させてもらいながら、いろいろとお話した。

 

 ご近所のよしみだし、開店祝いだし、というのを言い訳にコート買いました。

 

 すごくかわいいの。秋にできあがる予定らしいが楽しみだな。

 

 

 

 以前、フィーフィーエファーファーというお店が表参道にあって、今は新橋に移転しているけれど、

 

 社員の女の子やデザイナーさんと話すのがすごく楽しくて、仕事の合間に出かけていた。

 

 

 そんな気楽に行けるお店が近くになくなって残念だったが、

 

 「またいつでも遊びに来て下さい」

 

 と言われたのをいいことに、社交辞令もあるかもだけど、また遊びに行く気満々なのでした。

 

 

 今朝は外堀公園沿いのお気に入りのカフェで窓際の特等席に腰掛け、冷たい雨が降っていても美しいままの桜を見ていた。

 

 先週は半袖を着ていたのに、今日は最高気温10度にも満たない冷たい日である。

 

 好きなことは得意になるはずだ。

 

 得意になるまでは得意であるフリをする。

 

 これが案外役に立つ。

 

 芭蕉だってきっと、詠んで詠んで達人になったにちがいない。

 

 

 

 花冷えも爛漫までの道しるべ

 

 みなさん、暖かくしてお過ごしください。

 

 明日が過ぎれば春の陽気が続くかな。

 

 

 今朝は遠回りして千鳥ヶ淵をのんびり歩いてきた。

 

 皇居岸の桜はまだ全開ではなさそうに見えたので、もしかしたらあと一週間くらい楽しめるかも。

 

 早起きをして、朝いろんなところを散策しながら出勤するのはこの時期最高の贅沢だ。

 

 昨日、日ハムの新庄監督のインタビュー記事を読んだら、「メロンパン食べて考えます」というセリフがあって、無性にメロンパンが食べたくなり、通りがかりのお店でひとつずつ2個買った。

 

 1個は10時のおやつで消えたが、もうひとつを3時のおやつか夜食で食べるのが楽しみである。

 

 落ち込んでいるときとそうじゃないときの違いについて、つかんでいる人がいる。

 

 何かに夢中になっているときは落ち込んでいないが、家でごろごろしているとか一人でいるととたんに自分が出てきて落ち込むと言う。

 

 本当にそう。経験からわかる。

 

 

 

 この世にアクティビティがたくさんあるのは、「夢中になって自分を意識しなくなる」ことが気分を楽にするという暗黙の了解があるからだ。

 

 抗うつ剤も「あんまり考えなくする」には役に立つ。セロトニンが増えるととらわれにくくなる。「まあいいか」と思いやすくなる。

 

 でも「考えが自分を苦しめている」のなら、考えに乗っ取られていると気づき、「今にいる(マインドフルネス)」ことができれば楽になるのだがこれがなかなか難しいのかもしれない。

 

 「マインドフルネス」を味方にすれば、「落ち込まなくてもいいことを考えて落ち込んでいる」と気づきやすくなる。

 

 今ここには不足はないはずなのだが、脳みそは不足を見つける天才だ。

 

 今ここには不足がないと本当の意味で理解すれば、問題と思っていることを放置できる。

 

 放置しても大丈夫なのは、この世が脳の持つ限局された思考よりももっともっと大きいものだからだ。

 

 目の前のできごとに白黒つける脳の限局された思考よりも、もっと高次元の力が働いていると本当の意味で理解すれば、ものごとをあるがままに放置できるのだ。

 

 放置しても大丈夫。

 

 「なるようになる」という言葉は、「脳よりもっと高次元の意図がちゃんと働いているから心配いらないよ」という意味なのである。