あるがまま 精神科医 松薗りえこのブログ

あるがまま 精神科医 松薗りえこのブログ

アマラクリニック表参道 〒107-0062 東京都港区南青山3-10-38 1F Tel : 03-6438-9869

お薬をやめていきたい方・お薬以外の根本的な治療を探している方、ぜひご来院ください。お薬を使わないと通院期間も短くてすみます。
お気軽にご相談ください。

他のクリニックでたくさん薬を飲んで、数年間何もしていない20代の患者さんが、少しずつよくなっていくのを見ていると、しあわせになります。

 

 相手の何気ないひと言に傷ついたり、反応したり。

 

 誰にでもありますよね。

 

 相手に「攻撃された」と思うとき。

 

 それって本当にそうなのか、と見られるようになれば楽になります。

 

 ディーバック・チョプラ博士はあらゆる人に質問をしました。

 

 「何になりたいか」「どう生きたいか」「どうなったら嬉しいか」

 

 いろんな希望や期待を聞いていきましたが、最終的にはみんな「なぜなら、幸せになりたいから」という答えに行きついたそうです。

 

 お金を稼ぎたいのは「幸せになりたいから」、理想のパートナーを見つけたいのは「幸せになりたいから」、家が欲しいのは「幸せになりたいから」、相手に変わって欲しいのは「幸せになりたいから」

 

 みんなそこに行きつくのです。

 

 ここには、「何かを得たら幸せになれるはず」という錯覚があります。

 

 探すところを間違えているのです。

 

 問題は思考、心にあります。

 

 「攻撃みたいに受け取る」という心にあります。

 

 私たちにはふたつのあり方があって、「攻撃みたいに受け取る」あり方は、思考に基づく恐れのあり方です。

 

 今までの人生のなかで「攻撃されないように」防御してきたと思っているので、

 

 攻撃に対する恐れが非常に大きく、それゆえに「攻撃された」と思って防御態勢になるのです。

 

 もうひとつのあり方は「愛のあり方」です。

 

 もしかしたら「攻撃された」というのは錯覚かもしれない。そんなことはないかもしれない。

 

 この状況を「愛のあり方」で対処できないだろうか。

 

 心は錯覚を引き起こし、攻撃されたと言って来ますが、

 

 もしかしたら、この世には攻撃などなくて、愛しかないかもしれないとみるあり方。

 

 問題は心にしかないとしたら、何かを達成しなくても、今すぐに心のあり方を変えるだけで幸せになれるとしたら。

 

 今すぐに間髪入れずに幸せになれるとしたら。

 

 ただそれを知らなかっただけだとしたら。

 

 ボブディランの曲にこんな歌詞があります。

 

 Love is all there is, it makes the world go 'round Love and only love, it can't be denied

 「愛しかない それだけが世界を動かしている」

 

 ほんとうにそうだとしたら。

 

 錯覚し、誤解した心で苦しむよりも、今ここで愛を選択できるとしたら。

 

 

 

 今日も美しい日常を!

 

 

 こんにちは。

 

 つい反応しちゃうことってありますよね。

 

 イラっとしてつい余計なことを言ったり、言いわけまがいのことを言ったり、わざと返事しなかったり、無視したり。

 

 いろんな「反応」を私たちはとっさにしてしまいますが、

 

 よーく見てみると、「自分を守るための行動」なんです。

 

 「自分が攻撃されている」って錯覚しているんですね。

 

 「攻撃されている」と信じて、それに応じた反応をしないと大変なことが起こると錯覚しているんです。

 

 私も未だにやってしまって、その後自分が「嫌ーな」気分になります。

 

 「奇跡のコースを生きる実践書」のなかで、香咲弥須子さんは、

 

 反応したり要求したりしないこと。自分を守らなくてもいいとわかっていることが大事。

 

 と言っています。

 

 

 

 日常のなかで生きていると、これがなかなか難しいけれど。

 

 今日、ここまではいい感じできているけれど、また何かに反応したくなるかもしれない。

 

 そうしたらホーリースピリットにお願いして、

 

 「反応(要求)しようとしている私がいます。それは必要がないことだとわからせてください」

 

 と伝えて、スルーできたら、

 

 その後、どうなるか見てみる。

 

 「シーン」

 

 特に何もなく、淡々と日常は過ぎる。

 

 違うのは、さっきは「攻撃された」思いのなかにいたけれど、「平和のなかにいる」と感じられる。

 

 さあ、今日も練習だ~~。

 

 先週の金、土、日と食事量を普段の半分にしてみたら、身体が元に戻ってきた。

 

 半分の量ってことは、1回半の量なので、朝抜いて昼は普通に食べて夜は半分っていうのがやりやすかった。

 

 朝抜くのでお昼には無性にお腹が空くが、「はっ、これずっと経験していなかった」と気づく。

 

 そうです。お腹が空く前に食べていたのですね。

 

 思い返せば部活やっていた中高時代なんかは、この「無性にお腹が空く」っていうときばかりだったから、

 

 懐かしさを感じますね~。

 

 そんなわけで、今のところは順調に戻ってきております。まあ食べ過ぎでしたね。

 

 さて、このブログで何回もホーリースピリットについて書いているのですが、

 

 これは「奇跡のコース」に出てくる存在で、「奇跡のコース」はもうかれこれ8年ほど前にある患者さんから全章PDFでプレゼントされたんです。

 

 日本語を訳された方の承諾を得てのことで、無償でプレゼントいただいた。

 

 その患者さんは、「ひと通りやりましたが、どうもよくわかりませんでしたから、もうひと通りやろうかと思っています」

 

 とおっしゃりながら、その2年後くらいに亡くなりました。

 

 私もそのときひと通りやりましたが、よくわからなくて塩漬けになっていて。

 

 3年前にまたひと通りやりましたが、よくわからず塩漬けになって、

 

 今回またやり始めたら面白くて、3回目にしてやっとはまりました。

 

 YouTubeで香咲弥須子さんの声の365回のレッスン動画があるのですが、それを毎朝起きはじめに毎日聞いて、今日のレッスンについて教えてもらっています。

 

 ホーリースピリットは私たちと神をつなぐ橋渡しと書かれていますし、内なる英知と考えると分かりやすいかもしれず、

 

 私たちは思考や感情やその他自分のアイデンティティと信じているものを自分と認識して生きています(エゴ)が、

 

 その自分という認識と思考の判断や感情で苦しいときに助けてくれる存在です。

 

 精神科医を30年以上やっていると、私たちは自分と信じている思考や感情で苦しんでいるというのがよくわかります。

 

 そんなときにそこから抜け出せるよう助けてくれる存在なんです。

 

 「奇跡のコース」では「エゴはない」、と言っています。

 

 苦しいときには、ないものをあると錯覚しているのですが、そこから抜け出すよう導いてくれる存在です。

 

 「ああ苦しい。こんなに苦しいのは自分がまた錯覚に陥っているからにちがいない。ホーリースピリットに助けてもらおう。」

 

 っていうふうに使うんです。

 

 「ホーリースピリット、助けてください」とお願いすると必ず助けてくれます。

 

 すごいですね。本当に、万能なんです。

 

 どっちに行くか、何を食べるか、何を話すか、誰と逢うか、今目の前の人の話にどう返答するか。

 

 みんな教えてくれます。

 

 そんなふうにお任せモードで生きると非常に楽ちんです。

 

 

 

 「あるがままメソッド」では「起こるがままにまかせよう」ということを書きましたが、「放っておく」よりもっとすごいです。

 

 いろいろ教えてくれる英知が常についているわけですから。

 

 まだ情報の受け取り方を難しく感じるときもあるけれど。

 

 瞬時にさとりがくる場合もあるらしいので、いつ来るかわくわくです。

 

 どんな情報を見るかはとても大事じゃないかと思っています。

 

 目で見た情報で恐怖や不安ベースの考えを持つことはよくあります。

 

 私も、クライムサスペンスをよく観ていたときには、シリアルキラーの影におびえていて、

 

 「誰かが殺しに来たらどうしよう」っていう気持ちを少なからず持っていたんですね。

 

 じゃあ観なきゃいいじゃんって言われましたが、「いや、好きだし」って思っていたんですが、今から思うと恐怖映画依存症だったんですね。

 

 「ぎゃ~~っ」って怖がることが快感だったんです。

 

 大抵私たちは目の前にないことにおびえているんですね。私たちの大半は「恐怖依存症」みたいなところがあるから、「まず怖がっておけば安心」って錯覚しているんです。

 

 例えば、

 

 「このまま引きこもりが続いたら、親が死んだ後どうやって生きて行けばいいか」とか。

 

 「経済がこういう状態だったら、将来はどうなるんだろう」と先の恐怖や恐れを訴えたり。

 

 あるいは、「あのときあの人があんなことしたのは許せない」とか、「いじめられたときのことが忘れられない」など、過去に対する悲嘆や怒り。

 

 生きているとこの世がそんなふうに見えるので、不安や恐怖はわからないでもないです。もちろん私もそうでしたし、今も油断するとその見方や判断に陥ります。

 

 私の実家も姉が病気で、妹はよく「お母さんが死んだら、お姉ちゃんどうなるんだろう」と心配していましたが、姉は母より先に亡くなりました。

 

 私たちの観点は前提が間違えていて、見えているものは限られているし、もうすでに見て判断している時点で過去なんですね。

 

 過去の情報を混ぜて判断するという五感の限界があるので、もう判断は過去なんです。

 

 未来は、その判断から推測したものだから正確ではありえないんです。

 

 で、見て信じたものが観点を作るので、そんなストーリーを本気にして生きてしまう。

 

 

 

 未だかつて私の元にシリアルキラーは来ておりません。

 

 そして今、自分の観点を信じずに、奇跡のコースに従ってホーリースピリットに任せてみようと本気で思っています。

 

 ものの見方や判断がもうすでに間違えているのなら、自力で頑張っても仕方がないとあきらめました。

 

 あきらめたときに何もないのではなく、ホーリースピリットが導いてくれるならその通りにしようと。

 

 自分のものの見方や判断って本当に恐怖ベースだったので、必死で何かを避けるのに精いっぱいな人生でしたが、

 

 その荷を下ろして、全面的に降伏し、

 

 今ここでどんなお導きがあるのだろうと、わくわくしているところです。

 

 苦しいときのことを訴える人が多いので、よくある意見を書いてみますが、

 

 「不安なとき」「お金や将来の心配をしているとき」「病気の心配をしているとき」「人に不快なことを言われたりされたとき」  

 「自分に自信がないとき」「物事がうまくいかないとき」「人間関係がうまくいっていないとき」

 

 落ち込んで不安になり、また落ち込む。

 

 でもこれ、もし「前提が間違えている」としたらどうでしょう。

 

 前提というのは、「人間は個人個人目標を達成しなきゃならない」「自立してお金を稼がなきゃならない」「人は自分の思い通りの言動をとらなきゃならない」「うまくいっているとは○○の状態」「自分に自信を持たなきゃいけない」などです。

 

 「経営者として責任がある」とか「よき母よき妻でなければならない」とかそういうことすべてひっくるめてです。

 

 奇跡のコースでは、私たちはが別々の身体を持ち別々の存在としてこの世にいる、ということそのものが幻想であると言っています。

 

 これは量子物理学や形而上学でも、またその他あらゆる悟った存在も言っていることで、

 

 「この世にはひとつの心しかない」「ワンネス」「非二元論」「不二」などと表現されています。

 

 もし私たちが「別々の身体を持ち、目標のために自力で必死で生きていく」というものが人生と錯覚していたらどうでしょう。

 

 この前提が間違えていると、必死で頑張って何かを手にしたとしても何かまた満足できなかったりうまくいかない事態が生じ、苦しみから逃れることが難しい。

 

 でももし、こんな前提は全くのナンセンスで世の中はそんなふうになっていないとしたら。

 

 こういう話を診察室ですると、「じゃあ何を基準に生きていけばいいのですか?」と途方に暮れられる。

 

 奇跡のコースでは、そのために「ホーリースピリット」がいると言っています。

 

 すべてをホーリースピリットにゆだねてお任せするだけでいい。ホーリースピリットがあなたの取り巻く状況をすべて判断してくれて、あなたにとって一番いいように導いてくれる。

 

 と言っています。

 

 すごいですね。こんなこと誰も教えてくれませんでしたよね。

 

 苦しんでいるのは前提が間違えているのであって、努力が足りないわけでも、何かが足りないわけでもない。

 

 ホーリースピリットに道を譲り、導いてもらうだけで人生がらくちんモードになる。

 

 これは何年引きこもっていたとか、何年うつだったとか全く関係なく、今ここから始められます。

 

 これは信じてくださいと言っているわけではなく、今までさんざん間違えた前提で間違えた場所に足りないと錯覚していたものを探そうと必死になってきたのなら、

 

 別の方法を試してみてもいいのではないでしょうか、というお誘いです。

 

 やってみると「一体全体何を苦しんできたんだろう?」とばかばかしく思うかもしれないですし、それでも苦しいときにはまた間違えた前提に迷い込んでいるだけだから、気づいて方向転換するだけでいいのです。

 

 あなたも私も本来はひとつで、すでに光や喜びや平安をシェアしている。

 

 物理的な目には今たったひとりだと見えていても、それはありえない。

 

 私がついていますよ~。

 

 今日はワンネスをいっしょに喜びませんか?

 

 

 

 

 パニック障害を例にとると、苦手な場面で発作が起きるというイメージが恐怖を産んで、

 

 苦手な場面に行けなくなるんですね。

 

 そのイメージを書き換えることができたら治るのですが。

 

 例えば満員電車のなかで気楽に音楽でも聴きながら乗っている自分をイメージしたり、

 

 発作が起きても落ち着いて対応している自分をイメージしたり、

 

 周りを見渡して、満員電車なんて気にも留めていない人を見て、自分のなかにその人の気持ちを取り込むとか。

 

 うまく乗りこなしている自分をイメージすることは、飛行機や新幹線などの乗り物恐怖やスピーチ恐怖など、他の恐怖症にも使えます。

 

 これは、人生全般に使えることなんですね。

 

 例えば、ダイエットの場合もイメージを使う。

 

 「すでに痩せている」というふうにわざと錯覚するんです。

 

 どんなことでも苦しみ、苦痛、痛み、不快感、嫌悪感、罪悪感、欠落感などを使うと当たり前ですが辛くなります。

 

 例えばダイエットの時に「太っている自分」を意識しすぎると苦しみになる。あと、食事量を減らすときにも苦行みたいなイメージを持つと苦しみです。

 

 「ああ、デブデブ。こんなに太るなんて馬鹿!!」って一昨日は考えていた私もここはひとつ気を取り直して。

 

 否定的な自己イメージとそれがずっと続くと考えるととたんに苦悩になるので、

 

 「いや、明日には今日よりお腹が引っ込んでいるし、今食べないでいることでこの太腿の脂肪が消費されていく~(イメージ)」

 

 なんていうふうに、使っています。

 

 昨日高校時代の友人に会って、「人生で今がいちばん体重重い」って話をして、「そうそう、私も」ってなって。

 

 5月にまた逢うときにはデニムを履けている!!

 

 って誓いあって。

 

 

 

 その友達のすごいところは、TikTok使ってお金稼いでいるのですが、「ものすごくディスられているの、見る?」とか言って、書き込みを全然気にも留めていないんですね。

 

 ほんとうに尊敬する。

 

 私たちにはイメージの力が備わっている。苦しみに使うこともできるし喜びに使うこともできる。

 

 だから、普段観るものや聴くものも、自分に苦しみのイメージをもたらすものは使わない方がいいですね。

 

 「人生をどう見るか」に負のイメージをもたせるものはできるだけ取り入れない。

 

 それを気にも留めなくなれば別ですけど。

 

 目の前にはどんな可能性も開けているのだから。

 

 今朝はジョエルロブションの4枚切り食パン(北海道小麦キタノカオリのほう。これ倒れそうなくらい美味しい)にたっぷりバター縫ってメープルシロップもこれまたたっぷり垂らして食べるのは控えたけれど、

 

 ジャンシャルルロシューのすみれ味のチョコレート一粒を浅煎りコーヒーと味わって味わって。

 

 は~。幸せ。

 

 で、外苑周辺を朝のお散歩。もう痩せていることとお腹と太腿の脂肪が消化される~~のをイメージしながら。

 

 食パンは痩せてからのお楽しみ。

 

 起こったことや今目の前にあることが私たちを苦しめているのではなく、それに対するイメージ、思考が私たちを苦しめている。

 

 昨日は絶妙のタイミングであきれるほどポジティブな友人に逢えたなと、感謝、感謝です。

 

 新宿に温泉がある。

 

 花園神社の裏に新宿ゴールデン街というレトロな飲み屋街があるのだが、そのあたりにテルマー湯という温浴施設があって、

 

 毎朝伊豆から温泉持ってきているんですって。

 

 天井がルーバーになっている露天の温泉はとても気持ちいいんです。

 

 平日は人が少ないところもいい。

 

 そんなわけで昨日もテルマー湯までてくてく歩いて、大浴場で憩っていましたが、鏡に映る裸が以前と違うんです。

 

 「えっ、むくんでる?」って最初思ったけど、なんかお腹周りや腿の付け根辺りが明らかに以前と違う。

 

 先週はむくんでいると思って、むくみに効くお茶を調べて「黒豆茶」飲んだりしていましたが。

 

 「これ、もしかして太ってる?」って一週間かけてやっと気づいたのでした。

 

 去年前半の禁酒のときに禁酒した人のエッセーなどを読みまくっていて、大抵の人は「痩せる」と言っていた。

 

 「お酒をやめたら痩せる」って勝手に思っていて、盲点になっていたんです。

 

 むしろお酒飲んでいたときのほうが、お酒飲んだから食べ過ぎないようにしようと気をつけていた。

 

 そういえば今年に入ってからリカバリーウエアの上下を買い、それがものすごく楽だから、2セット買って、

 

 それで仕事に行きそのまま寝て、朝お洗濯して別のもうひとセットを着る。というのを繰り返していて、

 

 そのうちスウェットのあまりの楽さに慣れてしまって、暖かくなってからもスウェットで仕事に行っていて、

 

 年末に友達とごはんに行ったとき以来、デニムを履いていなかったのでした。

 

 家に帰ってデニムを履いてみたら、怖い怖い。

 

 きっつきつだし、一本はボタンも止まらないの。

 

 いつの間にこんなに太ったんだ?

 

 しかも全く気づかないなんて。

 

 年末は平気だったし、4か月でこんなに太る?

 

 

 

 食べたいものを食べたいだけ食べることが自分を甘やかすことと錯覚しておりまして、

 

 見たくないものは見ないようにしていたのですね。

 

 愕然としましたが、もう起こったものはしょうがない。

 

 今日から態度を戒めて、

 

 5月のお誕生日あたりには、デニム履けるようにしようと決心した次第です。

 

 

 先週の日曜日まで20年前の洗濯機を使っていました。

 

 結婚祝いに親兄弟がお金を出し合って買ってくれたもので、当時はドラム式の出始めで最新のものでした。

 

 でも、夫の大事にしていたハーレーダビットソンのTシャツを乾燥したら、ちびTになって。

 

 まあそれ以前に乾燥には6時間くらいかかって。それでも乾きにムラがあったりもして、いつの間にかほとんど乾燥は使わず、洗濯だけになっていたのでした。

 

 縦型の洗濯機でよかったじゃん、って感じですが。

 

 その洗濯も、少量で洗うと脱水ができなかったり、フリースとかニットとか濡れると重くなるものを入れて洗うとバランスがとれず脱水ができない。「重いものが入っていませんか?」のエラーになる。

 

 ときには声援を送り、ときにはなだめすかしながら、何とか使ってきたわけですが、

 

 今年に入ってから「たぶん最近の洗濯機はこんなことないんだろうな」「新しいのそろそろ買おうかな~」と思っていた矢先、

 

 洗濯の終わりに毎回「ポンプがいかれています」のエラーメッセージを出すようになり、

 

 「はっ、これはチャンス」とビッグカメラに向かいました。

 

 今の洗濯機はすごいですね。洗濯と脱水合わせても100分切るものもあるくらいで。

 

 売り場のお姉さんやメーカーのおじさまといろいろ相談した結果、シャープのコンパクトな省エネのやつにしたのでした。

 

 日曜日に到着してみてびっくりです。

 

 コンパクトだから100分は切らないけれど、洗濯乾燥が2時間半で完璧に終わる。

 

 朝スイッチを入れると「朝からお洗濯お疲れさまです」と言って来て、洗濯乾燥が終わったら「ふかふかにしておきましたよ」って言うの。なんてかわいいのでしょう。

 

 そして、本当にふかふかなんです。スウェットとか縮むんじゃないかと心配していたものも、全然縮まなくて、シワにもならないの。白いシャツもシワにならなくてしかもきれいになってびっくりしました。

 

 休みの日も洗濯終わるまで待って、浴室乾燥機に吊るして、4時間もしくはトレーナーなど厚手のものが入っていたら6時間かけて乾燥していたのですが、

 

 本当にウソみたいです。

 

 下着もそのままいっしょに乾燥してますが、全然型崩れしないし、何なら前のほうが吊るして干す分ヘンテコになっていた感じです。

 

 帰りの時間に終わるのをセットして、帰ったら取り出すのがものすごく楽しみなんです。

 

 いや、洗濯のストレスがないなんて、すばらしすぎます。

 

 

 

 ちなみに掃除機も随分前の使っていて、途中でなぜかスイッチが切れるの。充電が切れたわけではないのに。

 

 それで、またスイッチを入れ直すと動き出すんですが、これがずっと続くなら新しいの買おうよ~。って思いながらも未練がましく使い続けていましたが、

 

 思い切って掃除機も新しいものにしました。

 

 ダイソンのあの面白い形したやつ。

 

 やっぱり今の掃除機はすごくて、ベッドの下から床の端っこから、冷蔵庫と壁の間の床や、棚と壁の隙間や、スイスイなんです。

 

 お部屋がピカピカだと気分が全然違います。

 

 いや~。魔法、魔法。ビッグカメラは魔法の国。

 

 目の前で繰り広げられる魔法の世界に感動し、与えてもらったココロの余裕の大きさに大大、大感謝なのでした。

 

 

 

 これは私の話ですが、小学生に上がった頃はすでに、「大人が喜ぶ反応」をするようになっていました。

 

 こう言ったら喜ぶだろう。先生はきっとこういう答えを求めているに違いない。親はこうして欲しいに違いない。

 

 生きるのに必死だから仕方がありません。

 

 何かの拍子にごはんが取り上げられるし、北海道の寒い夜に外に出て立っているよう言われるし、せっかくやった宿題を外に放り投げられるし、間違いを犯さないようにしなければなりません。

 

 成績優秀、部活も真面目にやる、逆らわない、人づきあいのよい、

 

 いわゆるいい子はこうやって作られるのです。

 

 けれども思春期のある時期、「もうや~めた」と思いました。自分らしさの反逆です。

 

 だから、ツッパリとか反逆児ができるんですね。反逆のかたちは人それぞれですが、高校卒業と同時にお酒とたばこをやり始め、麻雀、バイク、男関係、学校行かないなど、まあ私のやることはたかだか知れていますけど、「真逆に振れる」ことがおきました。

 

 結局のところ、思考(エゴ)っていうのはこのような「真逆に振れる反逆」程度のことしか考えつきません。

 

 とはいえ、そのなかでそれなりに楽しめたし、それなりにいっしょに楽しんでくれる人もたくさんいたし、

 

 何の後悔もないのですが、

 

 「これが自分だ」「大人になったからもう我慢しなくていいんだ」「解放だ」「自由だ」と思っていたけれど、それも本当の自分ではなかったのです。

 

 私は大学の友人たちの助けを借りながら何とか卒業し、精神科医になりました。

 

 たぶん、自分を癒すためのプロセスとして宇宙が与えてくれた最良の場所なのでしょう。本当の意味でそう確信できるようになったのは最近になってですが。

 

 そうして「真逆に振れる反逆」も真の意味で私を開放してはくれないことに気づき始めます。

 

 タバコやお酒は一瞬の喜びしか与えてくれず、体調を悪くする副作用(反作用)や鎖につなぎとめられるような依存作用があります。

 

 その他のものもすべてこの副作用(反作用)と依存作用が付きまとうのです。

 

 この、「外側の世界の喜びと錯覚させるもののすべてには必ず副作用(反作用)と依存作用がある。」

 

 と真の意味で気づくことができたなら、

 

 「はっ、外側にある何かで満たそうとしていた」

 「外側にある何かが私を満たすことはできない」

 「そもそも、何かが足りないと錯覚していたから満たそうとしていたのではないだろうか」

 

 「もしかしたら足りないものなど何もないかもしれない」

 

 「足りないというのはこの世界で生きてきたなかで刷り込まれた錯覚なのではないか」

 

 と見られるようになったのです。

 

 これは、楽しみを取り上げられることではありません。

 

 昔、世界的聖者の元でいっしょに修行していた友人が、

 

 「実は悟りたくないんだよね。楽しいものを楽しめなくなるから」と、ビールをグビグビ飲みながら言っていましたが、

 

 奇跡のコースでは○○をやるな。○○はやれ、というような行動への規範がないのですね。

 

 別にビール飲みながらでも目覚めることができるかもしれませんよ。

 

 イエスはワイン飲んでいたらしいですし。

 

 何かが失われるとしたら「これは私にとってすでに喜びではなくなっている」という理解のもとに自然に失われるので、

 

 楽しみを取り上げられるわけではないのです。

 

 

 

 さて、そうして「すでに喜びではなくなっている」ものが自然に失われて失われて、

 

 残るものは何なのだろう。

 

 残るものは、自分の内側に入ること。内側にある無限の喜びに気づくこと。

 

 よくわからないですよね。

 

 私にもよくわかりません。笑。

 

 とはいえ、以前とは違う喜びを感じ始めている。

 

 仕事中に感じる喜びが以前とは全然違う。

 

 空を見上げたり、お散歩したりしているときや、お風呂に入ったり、ごはん食べているときなどの日常のなかの、ふとした瞬間に感じる喜びが違う。

 

 何か不足だからやるというより喜びから行動する。

 

 何かを証明するためにやるのではなく、単純な喜びからやる。

 

 これが本当の喜びかと聞かれたら、まだよくわかりませんが、

 

 シンプルにワクワクと気持ちのいいことが増えているので、このまま様子をみようかと思います。

 

 

 

 いつも楽しめていたものが楽しめない。

 

 例えば、ネットフリックスを観てもYouTubeを観ても、何も頭に入らない。

 

 やる気が出ない。本も読めないし、ネットの情報も見られない。

 

 そんなときはぼーっとして過ごしますよね。

 

 そんな一日に罪悪感を持つ方は多いですが、以前は私もそうでした。

 

 有意義に過ごせていない、という罪悪感。そして夕方近くになると「一日をまた無駄に過ごしてしまった」と考えてゆううつ感が増すのです。

 

 でも待ってください。頭が飽和状態だから情報が入らないとも言えますが、情報を入れることが有意義な過ごし方とは限らないのです。

 

 元気に動き回って活動することだけが有意義ではない。「有意義な過ごし方」という信念の枠組みを変えるのです。

 

 ブッダはあらゆる学びを取り入れてさんざん動き回ったあげく、へとへとに疲れ、菩提樹の下で動けなくなりそのまま何もせずにぼーっと過ごすことで悟りを得ました。

 

 私たちは悟りを目指しているわけではありませんが(私は目指していますが笑)、

 

 そのぼーっと過ごすことが「瞑想」であり、役に立っているのです。

 

 

 

 今日は、朝から情報をシャットダウンしています。

 

 テレビもつけず、YouTubeもかけないし、ネットも検索しない。

 

 「神の声」を、聴く日と決めていて、それに従って過ごす。着る服もごはんを買いに行く場所も、今何をすればいいかも教えてもらってそれに従う。

 

 そうするとインスピレーションが降りてきます。

 

 ほんとうは、「アマラ、すなわちれっこ(子供のころからのあだ名)よ。これは神の声なのじゃ。」とか、

 

 「今、風呂に入るのじゃ。」なんて、

 

 「くもじい」のような声ではっきりわかりやすく聞こえて欲しいのですが、そんなふうに聞こえたことは一回もありません。

 

 でもまあ、考えての結論ではなく、「ふと降りてくる示唆みたいなもの」ならときどき感じます。

 

 それで充分なのです。

 

 奇跡のコースではそれを、ホーリースピリットからの情報としています。

 

 「ぼーっとする能力」はすごいことで、一種の瞑想です。

 

 思考をフル回転せずに、勝手に降りてくるインスピレーションを受け取ってみる。

 

 何もしないでぼーっと過ごすことは、すばらしい瞑想であり、

 

「今日は瞑想して過ごした」と満足して一日を終えるのににふさわしいものなのです。