あるがまま 精神科医 松薗りえこのブログ

あるがまま 精神科医 松薗りえこのブログ

アマラクリニック表参道 〒107-0062 東京都港区南青山3-10-38 1F Tel : 03-6438-9869

お薬をやめていきたい方・お薬以外の根本的な治療を探している方、ぜひご来院ください。お薬を使わないと通院期間も短くてすみます。
お気軽にご相談ください。

他のクリニックでたくさん薬を飲んで、数年間何もしていない20代の患者さんが、少しずつよくなっていくのを見ていると、しあわせになります。

 

 今日は夏日になる予報で、

 

 家から青山一丁目まで外苑周辺を感じながら歩いたら暑くて暑くて。

 

 まだジャケットやコート着てたりする人がいるのに驚いて、半袖の私は「いろんな身体があるんだな~」と感慨しきりでした。

 

 朝の散歩が好きです。

 

 特に緑やお花が多いこの界隈は、歩いていると内側にあるエネルギーやインスピレーションを感知しやすくなる。

 

 恐れの声か愛の声か聞き分けることが大事だとアランコーエンが言っていましたが、

 

 認知行動療法で扱う「思い込み」は恐れの声で、訓練された声だから偽物なんですね。

 

 「怖い」「悲しい」「悔しい」「腹が立つ」など不快な感情は「愛の声」からは生じないわけです。

 

 「こんなことはできっこない」とか「私にはもったいない」とか、「これを行いたいが、まだ準備ができていない」とか、

 

 「不充分だ」と勝手に言っては不安を掻き立てて行動を止める声や、

 

 他の人を「不充分だ」と言って責める声はすべて恐れの声なんですね。

 

 恐れの声ばかり聴き続けて来た私たちにとって愛の声を聴くことは難しいかもしれませんが、

 

 もし私のことを100%信頼していて、無条件の愛だけを与えようとしている人がいるとして、その人ならこのときなんて言うだろうかとみてみると、さっきのセリフは、

 

 「可能性は無限大だ」「あなたは受け取る価値がある」「あなたにはできる」というセリフに変わるのじゃないでしょうか。

 

 「愛の声」だけが本物です。

 

 宇宙のなかで自分に制限をかけているのは、「思考」すなわち「恐れの声」だけなのです。

 

 他人を責める声も、「はっ。まだこういうことで動揺するんだな。内側に入って何があるかみてみよう。自分には解決する力があるのだから。」

 

 と転換できるかもしれません。

 

 

 

 さきほど、初夏のすばらしいエネルギーが私を満たし、喜びにあふれながら歩いていたら、

 

 「いやはや、自分をほんとうに小さく見積もっていたな」と気づきました。

 

 私たちは「恐れの声」を長く聞きすぎていて、宇宙にただひとつだけ存在する正真正銘本物の声である「愛の声」を忘れてしまっている。

 

 もう一度言います。

 

 「恐れの声」は全部ニセモノで、「愛の声」だけが本物なのです。

 

 

 お酒をやめたのが令和7年11月22日。

 

 どうして覚えているかというと、連休前だったからです。

 

 「連休、お酒を飲まずに過ごしたみたらどうなるんだろう?」

 

 と思ったのがきっかけでしたが、そのまま続くとは思いませんでした。

 

 それ以前の休日の過ごし方は、

 

 ①10時になったらスーパーへ行ってつまみと酒を買う。

 ②お昼のタイミングでビールひと缶とつまみを楽しむ。

 ③その余韻でプロ野球かクライムサスペンスを観る。

 ④夜はつまみとビールひと缶、もしくは日本酒一杯。調子のいいときはもう一杯。

 ⑤寝る。

 

 翌日、

 

 ⑥朝はぼうっとして起きる。

 ⑦落ち着かない感じで支度をする。

 ⑧落ち着かない感じで仕事をする。

 

 ⑨終わったら急いで帰ってビールを飲む。

 

 友達とでかけたときの休日は、

 

 ①待ち合わせ場所に行く。

 ②お昼にビールを飲みながらごはんを食べる。

 ③そのまま別の店で飲む。

 ④夜になったら家に帰って寝る。

 

 ⑤二日酔いで目が覚める。

 ⑥二日酔いで支度をする。

 ⑦使いものにならない状態で仕事をする。

 

 ⑧終わったら飲めそうかどうか確認し飲めそうなら飲むが、ダメなときには這うように帰って寝る。

 

 友人とでかけたときは、出かける場所が違うだけで同じパターンなんです。

 

 あるときは映画、あるときは寿司屋、イタリアン、居酒屋。

 

 あるときは美術館や庭園であっても。みんな同じパターン。

 

 笑えますね。

 

 

 

 そしてお酒というベールを通して見る世界と、それなしで見る世界との違いに気づき始めている。

 

 楽しめる場所や物、食べ物の好みも変化した。

 

 些細なことで喜びを感じるちょっとした余裕のようなものが、まだ芽のようなものだけど感じられる。

 

 あとはめんどくささの減少がある。「思い立ったら動ける」感じ。

 

 ヘビースモーカーの友人が、「タバコ吸えないから飛行機には乗らない」と言っていて、ほとんどどこにも行かなかったけれど。

 

 それがないと生きていけないものはある意味「鎖」なんですね。

 

 アルコール依存やうつから回復した後にジムキャリーが、

 

 「アルコールやドラッグがなくても、人生は美しい」

 

 と言っていました。

 

 何年か前にこのセリフを読んで、「いやいや、飲んでいても人生は美しいでしょ」と反発していましたが、

 

 美しさに対する理解が浅かったのですね。

 

 まだ休日がものすごく長く感じたり、ふとしたときに何をしていいかわからなくなったり、落ち着かない気持ちになったり、

 

 酒盛りしている場所に行く自信がなかったりしますが、

 

 「あ、もしかしてお酒を飲む必要性がないってこういうこと?」って思えるようになったのは確か。

 

 今後もどういう変化が生じるのか見届けていきたい。

 

 

 日々診療をしていると、終わったときにぱーっと顔を輝かせてくださり、

 

 楽になった、すっきりしたと言って帰って行かれるんですね。

 

 でもまた数週間後にお逢いすると、「数日はよかったのですが。。。」とおっしゃって、辛そうに来られる方もいるのです。

 

 反対に、数週間経ってもすっきりした状態を維持して来られる方もいます。

 

 昔、内観療法を受けたときに、ものすごくすっきりして人生が喜びにあふれ、「人生って最高だ!!ブラボー!!」と。スキップしながら帰ったのを覚えていますが、

 

 日常に戻り、診療(そのときは精神病院に勤めていました)、酒、タバコ、あるいは思考や意識状態によって、一週間も経たないうちに元に戻ってしまいました。

 

 今から思うと、その低い波動が自然だと勘違いしていたんですね。

 

 日々の雑務に追われ、患者さんの状態や思い通りにならないことに対して不平不満を抱え、酒やタバコに走る、という状態が。

 

 なので、セッションやなにかですっきりした後には、自分の波動を喜びに維持しておくために、喜びが自然な状態なのだと知ることが大事なんです。

 

 そのときは、「いやー、元に戻っちゃいましたよ。ははは。」と、「それが当たり前」の意識のなかにいたので、

 

 今から考えると我ながら怖いです。

 

 

 

 私たちは低い波動にあるときでさえ、「何も失っていない」のです。それはまるで飛行機が雲のなかを飛んでいて視界が見えないときに似ています。

 

 そこから上に行くと青空が開けています。雲のなかにいるからと言って青空を失ってはいない。ただもう少し高く飛べばいいだけです。

 

 あの頃は、目の前の出来事への対処を「すべて自力でやらなければならない」、幸福と感じられないのは「何かが自分に欠けている」、社会の「何かが間違えている」からこうなっているという錯覚のなかで生きていたので、苦しかったんだろうなと今ならわかります。

 

 気づくのが難しかっただけなんですね。

 

 なぜならそうじゃない自分を想像できなかったし、知らなかったんです。

 

 むしろ苦しみや痛みが自然とまで思っていたから、雲というかスモークというかスモッグというかは、本来の自分をだまそうとして必死なんだなということが今はわかります。

 

 あの、内観療法の後の自分が本来の自分だったんです。そうとは思いもしなかったですけど。

 

 何か魔法にかけられたような気分で、何が起こったのかわかろうともしなかった。

 

 苦しみが自然というのは錯覚で喜びが自然なのです。

 

 私たちはもうすでに喜びであり善なのです。

 

 

 

 

 

 おはようございます。

 

 うまくいかないと感じているとき、私たちは頑張りすぎているかもしれません。

 

 大抵は「こんなに頑張っているのにうまくいかない」と考えますよね。

 

 私も去年の夏あたりに、患者さんが急に減って、またちょっとしたトラブルもあったことで落ち込み、

 

 「こんなに頑張ってきたのにうまくいかない」と思って、

 

 もうやめようかな。。。

 

 と思った時期もありました。

 

 最後は、「夏の暑さのせい」と思うことにしましたが、夏を過ぎて秋が来ても多少の変動があるだけで変化の兆しもなく、

 

 お正月には母に、「小さいクリニックで始めてよかったじゃない」

 

 と慰められ、「そうだそうだ。小さいクリニックだから何とかなっているんだ」

 

 と、そんな言葉を信じてしまっていたのです。

 

 ニコラ・テスラは

 

 宇宙の秘密を知りたければエネルギー、周波数、振動の観点から考えなさい。 ある者が「神」と呼ぶものを、他の者は「物理法則」と呼ぶ。

 

 と言いました。

 

 私は精神科医ですが、昔から心理学を超えた心理学、物理学を超えた物理学に興味があって、

 

 「悟り」とか「量子物理学」についていろいろ学びました。

 

 ヒーラーさんや世界的聖者に弟子入りしたこともあります。

 

 そんな私でも、ピンチと言えるような状況に陥ったときには、「頑張って状況を乗り切ろう」という昔からのパターンに戻ってしまったのでした。

 

 そういうときに役に立つのは、もうとにかく宇宙に任せてしまうことです。

 

 そして自分の内側に入り、内側のパワーを思い出すこと。

 

 

 

 これは、外側の状況を信頼するのではなく、宇宙を全面的に信頼し、宇宙が自分に危害を加えることはないと悟ること。

 

 エネルギーや波動を元あった高いところ、喜びの周波数に戻し、

 

 「神」というか何らかの「物理法則」が勝手に働いてくれるのを許すことです。

 

 うまくいかないときこそ内側に入り、本来の自分、喜びの周波数にアクセスし、思い出し、

 

 そのままの状態でバンザイする感じ。

 

 そうしたら患者さんが増えていき、診療報酬の改定でも収入が増えることとなり、また14日で処方終了の新しい抗うつ薬ができたのですが、内服した後は心理療法を行うというアルゴリズムになっているという追い風が吹いたのです。

 

 アランコーエンさんがハッピーマネーと言っていましたが、

 

 支払うときは「ありがとう」と感謝するといいと。

 

 お金もエネルギーであり、感謝や愛の交換手段だから、受け取ることに罪悪感をもつ必要はないし、手放すときには感謝を込めてもらった愛を返すという意識でいることにしていると言っていて。

 

 それもやろう!と思っているところです。

 

 頑張らず、無理せずに、内側の豊かさにそっと意識を向けなおす。

 

 またいつかうっかりするかもしれませんが、今のところは忘れずにいようと肝に銘じているのです。

 

 

 

 昨日、やめとけばいいのにまた中日ドラゴンズの試合を観てしまい、

 

 5点差で勝っていたところを、7回裏に7点とられて大逆転負けを喫し、イライラして。

 

 これはやばい。

 

 昨日は暖かく曇りがちだけどいいお天気で、お花見を楽しまれた方も多かったと思います。

 

 そんな穏やかな休日の午後に、こんなことでイライラするなんてもったいない。

 

 ドラゴンズが悪いのではなく、私の思考が私を苦しめているのだ、これは究極の心の鍛錬だと思ったわけです。笑。

 

 奇跡のコースのレッスン5に、

 

 「私は自分の考えているような理由で動揺しているわけではありません」というのがあります。

 

 状況が心の動揺を産むのではなく、それに対する思考・考え・解釈が動揺を産んでいると言っているわけです。

 

 これは認知行動療法の考え方でもありますが、その動揺からなかなか抜け出せないこともありますよね。

 

 もうすでに過ぎ去ったことを問題として認識して不安になったり、今後どうなっていくんだろうと想像して不安になったり、

 

 過去こうだったから未来もこうだろうと決めつけて不安になったり、

 

 思考が作り出したストーリーで動揺しているわけです。

 

 本当の意味でドラゴンズ愛があるならば、穏やかに見守っていられるはずなのに、思考が作った恐ろしいストーリーをみているわけです。

 

 アランコーエンが言っていましたが、アポロ11号に乗った3人の心拍数を測っていたそうです。

 

 宇宙飛行の衝撃や初めての月面着陸などの困難な状況にあっても、そのうちのひとりの心拍数は正常のままだったらしいです。

 

 昨日まだイライラの冷めないうちに、ひたすら瞑想の動画を探し、

 

 自分のなかの内なる静けさに意識を向け、何とか自分を保つことができました。

 

 瞑想のやり方にいい悪いはなく、自分に合っていると思われるものならなんでもいいらしいです。

 

 今はYouTubeなどでいろいろな方法がみられるから、自分でいくつか試されて、自分に合うものを探されたらいいかと思います。

 

 自分に合うと思っていたものが変化することもありますから、そのあたりは柔軟でいいのではないでしょうか。

 

 

 

 内側には完全な癒し、安心、安全、完璧さ、光、豊かさ、喜び、美しさがあります。

 

 これは一度も失われたことがなく、いつも私たちとともにあります。

 

 そこに意識を向けることで動揺が収まることも多いものです。

 

 今朝はコーヒーを淹れているときに、過去の不快と認識した出来事がフラッシュバックしてきて、

 

 瞑想をしてもなかなか去って行かなかったので、

 

 YouTubeでアファメーションを探し、聞き流しました。

 

 「スティーブジョブスもやったパラマサンナヨガナンダの究極のアファメーション」っていうのをかけて、

 

 これはけっこうよかったです。

 

 「動揺」は不快ですが、気づきが深まったり内側の完全な癒しにアクセスするツールを手に入れるきっかけになることもあります。

 

 今日もまた動揺から抜け出し、喜びに満たされ、散りゆく桜を眺めながらクリニックに到着することができたのです。

 

 

 私たちは完璧な存在として生まれているのに、いつの間にか「何かが足りない」と思うようになった。

 

 「足りない存在」と信じているから罪悪感が生まれ、足りないものを何かで満たそうとする。

 

 こんな文章を今までの人生で散々読んできたけれど、やっと腑に落ちた感覚がある。

 

 幼稚園の頃に「案山子の絵を描く」ことになった。

 

 みんな思い思いの案山子を描いていて、私ももちろん自分が描きうる最高の案山子を描いた。

 

 でも先生に笑われたの。

 

 「案山子は一本足ですよ」って。

 

 私の描いた案山子の脚は二本あったんです。「えっ間違えているんだ」と思い慌てて、両足の隙間を塗りつぶしたのを覚えている。

 

 塗りつぶしたらめちゃくちゃ太い足になって、それも笑われたけど。

 

 小学校1年生のとき、「赤い花が5本、白い花が5本。合わせて何本でしょう?」という質問に5本って間違えて答えたために90点になったテストがあった。

 

 いわゆる勉強はできたから100点以外をとったのは久しぶりで、まあ別にその答えが5本って信じていたわけではなく、おっちょこちょいだったのでただのうっかりミスなんですね。

 

 それなのに父や母に事あるごとに「赤い花が5本、白い花が5本」とからかわれるようになった。

 

 いつしか完璧にやらないとがっかりされるとかバカにされるとか、思うようになっていったんですね。

 

 小5のときに担任が変わったら、オール5だった通信簿の社会科が4になったんですね。

 

 そうしたら、父がショックで寝込んで、お昼ご飯を取り上げられたんです。

 

 そんなわけで「はっ。ちゃんとやらなきゃがっかりされる。ごはんもなくなる。生きていくためには完璧にやらないと」と思っちゃったんです。

 

 ほかにもいろんなエピソードがあったけれど。

 

 こういうエピソードは多かれ少なかれ私たちにはあると思うんです。

 

 「自分にはどこか不足しているところがある。そのために相手の機嫌を損なうこともあるし、生きていくために困難が生じる」と思うきっかけとなるような経験が。

 

 別に父や母に対して怒りがあるわけではなくて、ふたりとも「不足」の考えを植え付けられていないとこんなことはしないわけだから、ある意味犠牲者なんです。

 

 なので、私たちができることは「外側の世界に見える不足の意識は本当ではない」と気づいて、

 

 内側に立ち返り、「おっといけない。本当ではないものを信じるところだった。内側の安全、安心、完璧さ、光、豊かさ、喜び、美しさが本当だった」と思い出すこと。

 

 思い出すことが難しいときには、ホーリースピリットに助けてもらう、というのが奇跡のコースの考え方なんです。

 

 

 

 両親が自分の何かでがっかりしたかに見えたのは、両親の問題であった。と悟ること。

 

 両親がただ単に不足を見てがっかりしていただけで、不足などと言うものは本来なかったわけです。

 

 描いた案山子の足が2本であっても、テストが90点であっても、社会科が4であっても、

 

 私の真の完璧さが損なわれるわけではなかったのです。

 

 真の完璧さとは本来の私、内側とつながったスピリットである私のことです。

 

 すべての人は生まれながらに完璧であると知っているならば、完璧であることを証明する必要もないし、足りないという錯覚からそれを補うための行動をする必要もないわけで。

 

 そして、人の機嫌は自分が悪いせいではなく相手の問題であるならば、

 

 人の機嫌をとるために必死になる必要もない。

 

 シンプルですよね。

 

 もし今はピンとこない方がいらっしゃったとしても、気になさらないでください。

 

 必ず「はっ」と我に返ることができます。

 

 我に返るということは、真の完璧さ、真の自己、内側とつながったスピリットである私に帰ること。

 

 そうすれば自分の真のパワーに気づき、喜びにあふれたフロー状態となり、ものごとは勝手にうまくいきます。

 

 

 

 

 3月頭からマンションの外装工事が始まって、周囲が足場で固められている。

 

 そしてあの、不快な網が張り巡らされている。

 

 春の日差しを好む私には苦行のように思われていた。

 

 あの3月の日差しが強まっていく感じを朝の早い時間から体験できないのは損した気分だったのである。

 

 その上ペンキ塗りが始まって、ペンキの臭いは嫌いではないけれど、四六時中臭うのもどうかと思っていた。

 

 家にはサンタマリアノヴェッラのポプリのタボレットを、ドアノブのあちこちにぶら下げていて、ポプリの葉っぱのものを陶器の容れ物に入れて、あちこちに置いてあるのだが、

 

 時間の経過とともに臭わなくなっていたので、新しくしようと思ったんだけど、

 

 「ペンキ塗りが終わった後のほうがよくないか?」という思考が出て来たのであった。

 

 香りがどうせ打ち消されるし、安くない買い物だし、「勿体ない」と思ったの。

 

 昨日、他に買うものがあったから新宿御苑を通って伊勢丹に向かっていたときにはっとして、

 

 「これは不足からくる考えだ」

 

 と気づいたの。

 

 自分を喜ばすことを引き延ばすことなどないのだと。

 

 喜びのためのお金が「勿体ない」というのは、「今そんな余裕はない」と言っているようなもので、

 

 そこにはある種の恐れがある。

 

 宇宙は不足の意識があると目の前に不足を映し出すのだ。

 

 宇宙は私の喜びを喜んでいるし、私が喜びにあるなら喜んで豊かさを差し出してくれる。

 

 これ、本当にそうです。

 

 今後もこの例をたくさん書いていくけど、「足りない」と信じていると目の前に「足りない」が出てくるんです。

 

 「豊かだ」と思っていると豊かさがどんどん差し出されるの。

 

 

 

 先生は医者だからそんなこと言うんでしょうと言っているあなた。

 

 私は医者だけど、2024年の秋にそのとき住んでいた六本木の家の家賃が10万円上がるという突然の通知を受け、

 

 ビビッて引っ越しましたが、

 

 引っ越し先は景色はよかったんだけど電車の音がうるさくて、結局今のところに2025年5月に引っ越しました。

 

 引っ越し代などもろもろ考えたら10万円高くてもまだ住んでいられたし、笑

 

 なぜか今の家に住み始めてから患者さんの数が減って、売り上げが数十万円減ったんです。

 

 「家のせい」と思っていたけれど、実は自分の「欠乏意識」のせいだったんです。

 

 売り上げが減るとまた、「お給料払えなかったらどうしよう」とか欠乏意識による不安にさいなまれ、

 

 ますますお金を使うことに抵抗が出てきて。。。

 

 このような循環になっていると最近やっと気づいたの。

 

 ただ単純に「豊かさ」に意識を合わせる。宇宙という揺るぎない存在は豊かで喜びに満ちていて美しいと思い出す。

 

 内側はその存在と常につながっていると思い出す。忘れていただけなんです。

 

 ラジオのチューニングを合わせるように「豊かさ」に照準を合わせ、「豊かさ」から行動する。

 

 あのまま六本木にずっと住んでいても何も問題なかったし、喜んで支払っていたらその分売り上げが上がっていたかもしれない。

 

 とはいえ、この一連の出来事にも大いなる学びがあったので、一見「なんで?」とショックを受けることには必ず恵みがあり、気づきがあると知れた。なので、不快な出来事はアドヴァンテージなんです。

 

 そしてまた、はっとしたのは、マンションの外装工事だ。

 

 「不快なこと」と文句を言っていたが、「自分の内側に入る」いい機会を与えてくれるものであると思えた。

 

 外に外にばかり意識が向きすぎないことで、かえって瞑想を深めることができるのじゃないかな。

 

 そんなわけで昨日、ポプリの香りを部屋中に満たしたら、今朝もすばらしい目覚めで、お家のどこにでも香りが満ちている喜びのなかにいた。

 

 今朝、起きたとき、いつも感じていた5時の明るさではなかったので、「はっ、寝坊したか」と思ったが、

 

 時計は5時のままで。

 

 急に30分くらい時計が進んだくらい明るく感じた。

 

 内側に喜びがあるときには、宇宙の豊かさとチューニングが合っている。

 

 さあ今日もみなさん、いっしょに豊かさを堪能しようではありませんか。

 

 夜中に起きたら、いろいろなアイディアがとめどなくあふれてきてワクワクして眠れなくなった。

 

 それでもめちゃくちゃ元気で、

 

 生命力プラスのものばかり取り入れた朝を過ごし、四ツ谷の上智大学の土手を通って行こうと駅に向かった途中のセブンイレブンで、

 

 ビカクシダ(コウモリラン)が1100円で売られていて、興奮して眺めていたら通りがかりのおばちゃんが、

 

 「花が咲くのかしらねえ」と話しかけてきたので、

 

 「さあ、どうでしょうね」と応えた。

 

 マダガスカルを旅してからコウモリランが大好きで、表参道にある専門店で買ったものが家にあるけど、

 

 ちょっと悩んで、私の「内なる英知(奇跡のコースではホーリースピリットと呼んでいる)」に尋ねたら、「買いなさい」と言う。

 

 買ってそのまま通勤するか悩んだが、「家に戻って置いてきたら?」と言う。

 

 いつもの私なら「あ~お散歩する時間が足りなくなる~」「帰りに買えばいいじゃん」と思ってやらなかったと思われる一連の行動をとった後、

 

 「いやいや、時間はたっぷりあるでしょう」と言ってもらった。

 

 いつも50分前にはクリニックに着いているのだから、もっともな意見である。

 

 再出発した後、四ツ谷に向かう新宿通りを歩いていたら、コーヒーの焙煎の香りがした。

 

 月曜日にも通りかかったはずなのに気づかなかったのは、そのときより時間が遅かったからで。

 

 そのお店は8時30分オープンで、コウモリランを家に置いて来なければ閉まっていたと思われる。

 

 コーヒー豆のメニューを見ると、なんとエチオピアのゲイシャジャスミンが売っているではないか!!

 

 これは去年市ヶ谷に住んでいた頃、青海コーヒーというお店で売っていて大好きだったんだけど、

 

 引っ越してから買いに行ったら「もう置いていない」と言われたもので、

 

 私にとって浅煎りコーヒーの女王のような存在なのです。

 

 しかもお手頃に手に入り、「ずっと探していたんです」といい感じのお店の人に言ったら、

 

 「毎年10月に大量に仕入れています。しばらくはこの値段で、今のところなくなる予定はないですよ」

 

 わお、ブラボー!!

 

 

 

 不快感を打ち消すために飲むお酒があった。

 

 その不快感の正体は、「何かが不足している」とか「不足しているために湧き上がってくる罪悪感」だ。

 

 「何かが不足している」と信じているから外側にあるもので埋め合わせをしようと試みる。

 

 もし「何かが不足している」という思いはただの幻想で錯覚で、幼い頃かいつかわからないけれどいつの間にか植え付けられた思い込みだとしたら?

 

 「外側にある何か」が自分の気持ちを上げたり下げたりしているとしたら、それは依存である。

 

 「外側にある何か」がなくても「内なる英知」は自分が完璧で豊かで何の不足もないとわかっている。

 

 依存は「外側にある何か」に内なるパワーを明け渡し、気分の上げ下げを託してしまうことだ。

 

 人間関係でも物質でもなんでも、何かが自分の気分の上げ下げをしているような気がしたら依存の合図で、

 

 「内なる英知(ホーリースピリット)」にゆだねて助けてもらう。

 

 そうして我に返り従っていく道は、とてつもない喜びに満ちている。

 

 自分が完璧で豊かで何の不足もなく、目の前には黄金の道が開けているとイメージしようというアランコーエンの言葉が、やっと腑に落ちた今日この頃なのである。

 

 

 

 お酒を飲まなくなってから冬の寒さとも相まって出歩かなくなり、

 

 クリニックと自宅の往復の生活。

 

 かといって寂しいわけではなく、これでも満足して楽しく生きられるんだなと思った。

 

 やっていたことといえば、「奇跡のコース」のワークをもう一度やり始めていて、その傍ら、

 

 連続殺人犯(シリアルキラー)が出てくるドラマや映画を観たり、

 

 中日ドラゴンズのキャンプ中継やオープン戦を観たり。

 

 で、アサヒのドライゼロをたまにプシュッとやって。

 

 まあ我ながらけっこう楽しく日々を過ごしていたのであった。

 

 そんななか、アランコーエンさんの動画を奇跡のコースつながりで観始めて。

 

 はっと我に返りました。

 

 昔からFBIのプロファイラーものが好きで、ついつい観ちゃう。

 

 若い頃は慈恵医大の犯罪心理学の研究会に参加したりしたし、

 

 でも、これって依存症なのではないかと。サイコスリラー依存症。

 

 観ることで不安や恐怖、緊迫感をもらえて、それを欲している自分に気づいたのです。

 

 あとは中日ドラゴンズ。

 

 開幕悪夢の3連敗をしたときに、はっと我に返りました。

 

 負ければイライラするんだけど、負けが込むほど勝ったときの喜びが大きいの。

 

 ある種の判官びいきだと勝手に解釈していたけど、弱いチームを応援する利点はそこにあって、

 

 射幸心をあおるのですね。

 

 これやばい、本当にやめようと思った矢先、アランコーエンさんの動画に出会って。

 

 生命力を高めることが波動を高めることであるっておっしゃっていて、

 

 ひとつの方法として、ノートを半分割して、マイナスとプラスに分けて、

 

 生命力を高めるものはプラスの欄に、低めるものはマイナスの欄に書いてみようって言っていた。

 

 今現在サイコスリラーやシリアルキラーはどうひいき目にみてもマイナスの欄に入れざるを得ない。

 

 私の生命力を高めているとはとても思えない。夜中にトイレに行くのが怖くなるし。

 

 中日ドラゴンズも。だって負けるとイライラするし。

 

 だから悪夢の三連敗してくれて、目を覚ましてくれて感謝、感謝と考えることにした。

 

 

 

 そして一日の始まりである朝に、生命力を高めるもの、心地のいいものを自分に入れる。

 

 もちろん、サイコスリラーやひいきの野球チームがプラスになる人がいるかもしれないけれど。

 

 私の場合は度が過ぎてしまう。

 

 私のプラスは早起き、朝風呂、コスメデコルテのシャンプー、浅煎りのコーヒー、シェイクしたミルク、トーストにバターとメープルシロップをたっぷりつけて食べること、チョコレート少々、

 

 朝の掃除洗濯、散歩、サングラス、日差し、サンタマリアノヴェッラのポプリの香り、着心地のいい服、不動産サイトを見ること、ドライゼロ、リスペクト、感謝などなど

 

 マイナスはネットのニュース、きれいじゃない床や窓、日の当たらない部屋、目の前の視界が遮られること、それに、残念だけどサイコスリラーやシリアルキラーもの、中日ドラゴンズ。

 

 さようなら、依存物質よ。きみたちが悪いわけでは全くないのだ。

 

 今日も早起きして浅煎りコーヒーを飲み、半蔵門まで歩き、雨がちで人が少ない千鳥ヶ淵を散歩しながら、

 

 奇跡のコースに書かれているように、光や喜び平安は自分のなかに常にとどまっていて、外の世界でいかなることが生じようとも揺るがされることはないのだと言い聞かせ、

 

 もしかしてそういう境地がしっかりものにできたら、シリアルキラーやドラゴンズと別の付き合い方ができるかもしれないなーと思ったけど、

 

 お酒といっしょで、また同じことの繰り返しになると肝に銘じたのであった。

 

 

 第二次の酒飲まないフェーズに入っている。

 

 禁煙も数えきれないほどやったし、これがいつまで続くかわからないけれど。

 

 都度都度気づきがあるから、よしとしようではないか。

 

 飲まない2週間目に感じたことは、お通じがすっきり出ること。

 

 この、朝のスッキリ感がすばらしくて。

 

 あとは身体のぶよぶよ感が減って来た。

 

 いろいろある。お茶やごはんが美味しく感じるとか、ふとした瞬間の景色の美しさに心を奪われるとか。

 

 第一次のフェーズは忘れもしない去年の12月22日だった。ものすごく辛い風邪をひいて。

 

 大好きな友達と行くのを楽しみにしていたフーコック島の旅行中も、なんとお酒が飲めず。

 

 体調は1カ月くらいで戻ったけれど、せっかくだから続けてみようと思い。

 

 それは去年の5月末くらいまで、約半年続けました。(途中同窓会で1日飲んだけど。。。)

 

 続いたというより、最後は続けた、という感じ。

 

 その半年の間、後半のほうはだんだん「我慢」になっていた。

 

 飲まないでみて分かったことだが、自分の人生は酒で回っていた。というより、酒の力で回っていたと錯覚していた。

 

 どういうことかというと、大学に入ってからの友人たちは皆、酒飲みで、交際したボーイフレンドもみんな酒飲みだった。

 

 結婚した人も酒飲みで。

 

 今となっては酒飲みを選んでいたふしもある。

 

 そういう人たちといっしょにいると楽なのだ。

 

 無意識のうちにある闇の部分を見なくて済むような錯覚を酒はくれる。

 

 酒飲みの友達たちにも、それをくれるような感じがしていた。

 

 その心地よさを記憶している脳のなかのある部分が、「飲めば楽になるよ」と言ってくるのだ。

 

 なので、いつの間にか我慢になり、

 

 6月の暑いある日、「いやあ、これはビールでしょ」という考えに支配され、ついプシュッと。。。

 

 本当に酒の支配力とは恐ろしいものである。

 

 飲んだときのメリットと錯覚しているイメージは強力なのである。まあタバコもそうだったけど。

 

 その後、ほどなく毎日ビール350ml1本が、ビールプラス日本酒1杯。それが日本酒2杯になり。

 

 休みの日の昼間に、スーパーでつまみを買って来てはビール。

 

 「ビールひと缶くらいだから、いいよね」ってことになっていた。

 

 近くに行きつけの飲み屋さんもできて、やっぱり楽しいと思い始め、

 

 「昔に比べると飲めなくなったし」「飲む量減っているからいいよね」

 

 脳のなかは合理化でいっぱいになっていた。

 

 まあ、いまのところ飲んでいないのはたかだか20日弱ですが。

 

 これからクリスマスもお正月も待っているし、年明けには大学時代のクラス会もある。

 

 冷蔵庫の中にはビールとシャンパンと日本酒が入っているし。どうなることか見てみようではないか。

 

 

 

 さて、無意識のなかの闇の部分って書いたけど、そこに気づきの光を当てると消えていくらしい。

 

 自分のパーソナリティは外から押し付けられた気がしたり、そうしなきゃいけないと錯覚していたから作り上げたものらしいけど、

 

 もう必要じゃなければ、さようならはすぐにできるらしい。

 

 そのパターンを見つけることが肝心である気がしていて、今それにはまっている。

 

 最近気づいたのは、「ノリの良さ」みたいなものを持ち続けていたこと。誘われたらホイホイついて行くみたいな。

 

 それがいけないわけじゃないけど、よく見てみると腹の底は行きたくないかもしれない。

 

 それに気づけば行かないしやらないことも選べるのだ。

 

 当たり前と勘違いしていたある種の深刻さや癒えていないと錯覚している悲しみや、もろもろのものにさようならする。

 

 無意識を意識化してお掃除していく。

 

 どうせなら後悔や悲しみや恐れやもろもろのことを光にあてて消していき、からっぽになって死んでいきたい。