「我思う、ゆえに我あり」

近代哲学の父と言われるデカルトの言葉である。昨日の令和哲学カフェではデカルトを取り上げた。

デカルトは世界を一つのシンプルな原理で説明しようと試みる。あらゆるものを懐疑し、最後に残る懐疑できないものを第一命題として思惟の基本軸に据えなければならないと考えた。そして導き出した命題が上記の「我思う、ゆえに我あり」である。

我思う、、、この言語の強烈な呪縛が現代にまで至っている。個人主義の啓蒙もここから端を発していると言えるだろう。我、すなわち「自分」という概念がデカルトの本心とは違った形で一人歩きし、人間は「身体の自分」を世界から切り離していったのだ。

しかしデカルトの言う「我」とは、決して身体の個人のことではない。「我」とは世界を認識する主体「心」であり、その主体が思う(認識する)から世界はあるのだ。すなわち、「我=心が夢見ている、それが世界だ」と言っているのだ言えよう。
デカルトは心身二元論を唱えているが、それは身体(存在)は心が夢見ている世界(幻想)であるという一元論とも読み解ける。

令和哲学は不二一元を提唱し、この世界は目を開けてみる夢であることを明確に言う。そして我々の認識が「世界は実在でない」という出発に至ったなら、人間は死の恐怖から解放され、ゆえに生存のための争いはなくなる。そのことを世に問うている。

文明を動かすのは哲学である。哲学の第一命題がしっかりと樹立されない限り我々の世界は歪み続ける。つまりこの先も人間本来が生み出す真の世界ではないことが起こる続ける。
だから令和哲学は世間に流布する。「第一命題、自分と自分の宇宙は実在しない」これを受け止める時がきています!と。