一念往生。

浄土真宗の教えの根本をなすと言われている言葉である。

「阿弥陀如来の本願は、臨終目前の、最も短命の人を救うことに焦点をあてられている。もし3秒かかるような救いでは、1秒しか命のない人は助からない。一念の救いこそが、弥陀の本願の最も大事な特徴なのだ」と言う。

私は数年前まで緩和ケア医をしていた。臨終の瞬間に何度も立ち合い思っていたことがあった。それが上記のことであったのだと今になってやっと分かった。

人間(ホモ・サピエンス)には知るべきこと、やるべきこと、期待すべきことがある。それは唯一つ、「自分とは何者なのかを悟り知ること」である。人間の命はただそこに注がれていることを知っ今、分かったのだ。もし3秒の命があったのなら人間は悟ることができる。いや1秒、いや0.0001秒であったとしても、最期の最期まで人間にはチャンスがある。

もし命が五感覚を満たす為にあるのなら、五感覚を満たすことができなくなった命は消化試合と化す。残りの命をただただ苦痛の中で過ごすだけの地獄となる。「なぜこんな苦しみを与えるのだ!」「こんなになってもどうして生きなければならないのだ!」そんな叫びが出るのも最もだ。

しかし違うのだ。人間の命は最期の最期まで「知る」ことができる。どんなに極限状態に陥ったとしても、どんなに悲惨残酷な状況であったとしても、一筋の光は射している。

一念、、、これ信楽開発(しんぎょうかいほつ)の時尅の極促(じこくのごくそく)を顕す」、つまり瞬間の悟りである。「自分とは何者なのか」が分かった。完全に脳を手放した瞬間に訪れる境地。そこに時間はかからない。

分かった・・・命は最期の最期までこの一念を待ってくれていたのだ。肉体の苦しみもすべてはこの一念のための愛の斥力であったのだ。。。アモール・ファティ(運命愛)