私がフォーカスしているせいでしょうか?

私の周りが「日本から世界を平和にする!」と様々な形で様々な方々がおっしゃっており、そのような方々とお会いする機会があります。

昨日、ある仏教徒の方とお会いする機会がありました。

彼は言われました。「釈尊の教えが世界を一つにします。」と。

私は素朴な問いました。「ではキリスト教やイスラム教の方々をどのように説得しますか?」

「それぞれを尊重します。」と彼はおっしゃる。

…これがパラドックスの始まりなのだ。と私は思うのです。

上辺だけの尊重など、人間の観点の壁は越えられない。それがこれまでの戦いの歴史を生み出してきた結果。みんなが自分の良かれを持っているのだから。

釈尊、イエス、アッラー。。。強烈な物語があり、それぞれはその物語を絶対正しいと思い生きている。

「本心は尊重などしていない…ですよね?」と私。

本当の和は、物語の一切紡がれないところまで観点を引かなければ無理でしょう。存在のイメージがあった地点ではもう、物語が生まれてしまうのだから。

しかし、私も日本から世界が変わっていくことには異論はありません。

なぜ、日本から和の世界が始まるのか?。。。その理由は明確です。仏教国だから?いや違う。

「無」に心を置く文化だからです。

武道の極みは、信じる存在を持つことではない。戦いの起こらない存在なき世界、すなわち「無」に心を置くことを人間の行き着く境地であることを知っているからです。それが無意識であったとしても。

世界を和していくには、特定の形を持ってはいけない。ドグマも、教えもあってはならない。

ただ、私たち一人一人が明確に「知る」ということ。すべての存在の出発は、イメージや物語のない「無」であったということを。

私たちはイメージで物語で争っていたのだということを本当に知ることから始まるのです。