ADHD、自閉症、学習障害、アスペルガー、pseudo ADHDと5つに分類される発達障害。

五感覚を有した人間は誰もが、多かれ少なかれ発達障害を持っていると言えるでしょう。

際立った五感覚の情報処理能力を持つ彼らは、本当の意味で障害と呼べるのだろうか?というか、そもそも障害とは・・・そんな話を障害者発達支援のプロフェッショナルである山村康弘さんと話していた。

彼は言う。

「生きやすいか、困難となるかは、彼らが身を置く社会によって異なる。身を置く社会とは文化と言い、経済活動、倫理観、社会常識や価値観、宗教、更には善悪の尺度さえも文化によって異なる。そして同一地域でも文化は時代性を反映している。

例えば、江戸時代にあっては障碍とされなかったある種の特性も、現代では奇異でネガティブなものと排他されるかも知れない。つまり自然科学の上での普遍性が、社会科学では問題として浮き彫りになるわけである。

ASD(自閉症スペクトラム)は時代性が産む障碍であると福祉の世界では云われるが、僕は上記のように理解しています。だから近い未来、彼ら(僕もここの仲間のつもり)の研ぎ澄まされた感覚世界や感受性の高い鋭敏な知覚がフツーとして受け入れられる社会になるのかも知れません。。。というか、もう気が付いている人たちはそこへ向かって進んでますが。」

五感覚の世界が絶対であるという定義が、ものの見事に覆される時代が来るでしょう。そしてその時代では、誰もが微妙に違う五感覚情報処理を持っていることが明らかにされる。

中でも、
視覚が発達している人は、視覚野での情報処理が際立って微細であったり。
聴覚が発達している人は、聴覚野での情報処理が際立って細やかであったり。
触覚が発達している人は、感覚野での情報処理が際立って鋭敏であったり。
味覚が発達している人は、味覚野での情報処理が際立って先鋭であったり。
嗅覚が発達している人は、嗅覚野での情報処理が際立って深淵であったりする。

それらの際立った情報処理能力を持つ人たちを現代は、「発達障害」と呼んでいるようだが、実は障害などではなく、人類を先達する能力として重宝されるようになる気がする。

来週はそのことを20年も前から予見し、今では第一人者として日本だけではなく、世界各国で芸術治療教育を行っている川手鷹彦先生とお会いする。

発達障害、、、ここに人類の方向転換の引き金が隠されているような気がしてなりません。さぁ、これから一体、どんなベールがめくられることでしょう。。。マジョリティとマイノリティの入れ替えの舞台裏を覗くような興奮を覚えます。

ということで来週、沖縄へ行ってまいります。

この投稿は一つの布石として記しておきます。ワクワク