「もう良かよ。なかなか逝けんね。」 90歳近い彼は言う。

「子どもも育った、妻ももう逝った、もうやることはなにもない。
まだ生きなければならないのか。」

人間の一生というものを考える。

私たちは生まれ、社会を学び、社会活動をし、死んで行く。

しかしふと思う。

人間とは、
社会を学び、社会活動をするためだけに生まれてくるのだろうか?生きるのだろうか?

社会から与えられた仕事を懸命に全うした人達の最期の呟きを聞く。

「一体、自分の人生とはなんだったのだろう?これで良かったのだろうか?」

私は思うのです。

人間はもっと能動的な生き物なのではなかろうか。
もっと主体的な生き物ではなかろうか。

因果で決定されたBig dataの中で動かされる、そんな機械的な生き物が私たち人間ではない。
自由意志などとは程遠い、決められた枠の中で一生を過ごす。

しかし私たちの魂は知っている。
「本来の自分は、そんな枠を遥かに越えるほどの大自由そのものである。」ことを。

だから呟くのではないのか。
「これで良かったのだろうか?」と。

私たちは気付かない。
いや・・・直感的に枠に気付いた者がいたとしてもそこから抜け出せない。

なぜなら、人間の根本活動である認識がその枠にぴったりと張り付いているから。

人間が本当の意味で変るためには、その枠から出ること。
Big dataという脳のコンピューター立体映像から外に出ること。

出なければ、この現実画面がなんなのか?
そこで生きる人間の自分とはなにか?

さっぱり分からない。
分からないまま、今までのdetaを元にして生きる。

今のままでは人間は自由ではない。
detaに縛られていることに気付くこと。

人工知能が活躍する時代にあっという間に突入する。

人間とはなにか?
その再規定がなされるときです。

私たちは自分たちが思っている以上にすごいのです。