「この体が人間だ。」
そう定義したのなら、緩和ケア医というのは辛すぎるものでしょう。
よく同僚の医師に言われたものです。
「なぜ緩和ケアなどという負け戦をやる?医師は治してなんぼだろう。」と。
私はそこで尋ねるのです。
「私たちは治しているの?」
私がまだ医師になって1年も経たない頃、膵臓がんの権威の先生に尋ねました。
「先生、次に生まれてくるとしたらまた医者をしますか?」
先生はこう答えました。
「医者をするよ。でもな、消化器外科にはならないな。次は心臓外科医になる。」
そして続けました。
「だってなぁ、治してあげたいじゃないか・・・」
切っても切っても完治しきれない癌を、
「どうにかしてあげたい!」の一念で対峙した先生の言葉でした。
その言葉の重みを私も感じるようになるのに時間はかかりませんでした。
現代医学の進歩は素晴らしいものが多々あります。
しかし、私は思うのです。
現代医学は全体を見ず、一部のみをみている。
現代医学だけではない。
現代というものがすべて政治経済教育・・・全体を見ていない。
現代を生きる私たちの生きづらさの根本原因はここにある。
そして、一部のみに留まる原因は、
この五感覚ではかれる世界がすべてだと思い込んでいるところにあるのです。
五感覚がどれほど当てにならないものなのか。
条件状況によって変化する。
主観が入る。
思い込みが入る。
五感覚での測定を絶対とする科学、その上に成り立つ学問、そして私たちの思考。
危ういのです。
本当にみなければならないものは五感覚でははかれない。
私たちの認識が五感覚に留まっているのなら、本当の姿などみえてこない。
「この体が人間だ。」と思い込む。
私は思うのです。
死という瞬間まで生命活動をしていた肉体、それ自体は人間の本質ではない。
体が本質ではなく、生命活動そのものが人間の本質である。
それは・・・
この宇宙のありとあらゆるものを存在させている活動(動き)そのものと同じもの。
私たち存在は「動き」によって存在たらしめている。
それをアインシュタインは「第5の力」と呼んだ。
そして娘リーゼルに宛てた手紙には、それを「愛」と呼んだ。
そう定義したのなら、緩和ケア医というのは辛すぎるものでしょう。
よく同僚の医師に言われたものです。
「なぜ緩和ケアなどという負け戦をやる?医師は治してなんぼだろう。」と。
私はそこで尋ねるのです。
「私たちは治しているの?」
私がまだ医師になって1年も経たない頃、膵臓がんの権威の先生に尋ねました。
「先生、次に生まれてくるとしたらまた医者をしますか?」
先生はこう答えました。
「医者をするよ。でもな、消化器外科にはならないな。次は心臓外科医になる。」
そして続けました。
「だってなぁ、治してあげたいじゃないか・・・」
切っても切っても完治しきれない癌を、
「どうにかしてあげたい!」の一念で対峙した先生の言葉でした。
その言葉の重みを私も感じるようになるのに時間はかかりませんでした。
現代医学の進歩は素晴らしいものが多々あります。
しかし、私は思うのです。
現代医学は全体を見ず、一部のみをみている。
現代医学だけではない。
現代というものがすべて政治経済教育・・・全体を見ていない。
現代を生きる私たちの生きづらさの根本原因はここにある。
そして、一部のみに留まる原因は、
この五感覚ではかれる世界がすべてだと思い込んでいるところにあるのです。
五感覚がどれほど当てにならないものなのか。
条件状況によって変化する。
主観が入る。
思い込みが入る。
五感覚での測定を絶対とする科学、その上に成り立つ学問、そして私たちの思考。
危ういのです。
本当にみなければならないものは五感覚でははかれない。
私たちの認識が五感覚に留まっているのなら、本当の姿などみえてこない。
「この体が人間だ。」と思い込む。
私は思うのです。
死という瞬間まで生命活動をしていた肉体、それ自体は人間の本質ではない。
体が本質ではなく、生命活動そのものが人間の本質である。
それは・・・
この宇宙のありとあらゆるものを存在させている活動(動き)そのものと同じもの。
私たち存在は「動き」によって存在たらしめている。
それをアインシュタインは「第5の力」と呼んだ。
そして娘リーゼルに宛てた手紙には、それを「愛」と呼んだ。