私たちはよく言う。

「人間は無限の可能性だ!!」と声高らかに。

しかしちょっと待て・・・と思う。

無意識深く、本当にそう思えている人はどれだけいるのだろうか?

不自由を、ネットに絡まった自分を感じるからこそ、
私たちは叫ぶのかもしれない。

「本当の自分は無限の可能性なのだ!!」と。

私たち人類はずっと、決められた観点の中で生きている。

社会のルール
権力者の言葉
暗黙のしきたり
時代の常識

科学
・・・etc.

そんなものに縛られているのが人間ではなかろうか。

しかし、人間の無意識は知っているのだ。

だからこそ言う。
「人間は無限の可能性なのだ!」

ならば思うのです。
漠然とさせておくのではなく、そうさせない『観点』を見抜くことが必要なのではないでしょうか?

私たちがこの世に生まれ落ちた瞬間から、
そう・・・空気のように存在する「当然」という観点を見抜く。

その正体を分からずして観点の外に出ることは出来ない。
無限の可能性の自分に出会うことはない。

・・・私たちはすでにセッティングされた場に生まれ落ち、投げ出されている状態なのだ。

すでにゲームは始まっており、ゲームのルールは決定されている。
そこに合わせて、そこでアドバンテージを取ろうとしている。

しかしゲームで勝つことなど難しい。
ゲームを作った者が勝つのは明らかだから。

だから若者は燃えない。
夢を持てない。野心を持てない。
無限の可能性の自分など程遠い。
どうせゲームの駒にされることが分かっているから。

そのゲームこそが見えない『観点』だ。

資本主義プレート
アメリカプレート

そのプレートの上でゲームは行われている。

しかしもう、このゲームは終わりにしなければならないと思います。
このプレート上のゲームでは人間は限界まで来てしまっているのだから。

人間をお金で縛り、個人主義で洗脳し、体に縛り、不安恐怖で縛る。

「人間をバカにするな!!」と、
「踊らされる駒じゃない!」と私は言いたい。

そろそろゲームチェンジの時なのではないでしょうか。

人間の無限の可能性を花開かせることのできないゲームを終わりにさせましょう。

一人一人の無限の可能性が花開く、そんなゲームにチェンジする!

私は、それは「観術」で可能であると確信しています。

今のような体制に従わせるための教育ではなく、
宇宙自然の仕組みを、文明のできる仕組みを、社会のできる仕組みを見抜かせてしまう教育。

それはすなわち、『観点』のできる仕組みを知る。
仕組みさえ見抜いてしまえば捕われなくなる。

人間は誰もが、「なにものにも縛られない無限の可能性の自分」を腑に落とす。

誰かがセッティングした場での奴隷的な生き方を脱皮し、
自分が場をセッティングする主人精神からゲームが始まる。

新しい人類のスタート!