🕊️ 測れないものを、国が守る ――文化という「値段のつかない資産」
ラジオの収録をしながら、もう一つ考えたことがあります。
それは、文化を誰が守るのか、ということです。
私たちは政治の世界にいると、どうしても「成長」「投資」「生産性」「国際競争力」という言葉に囲まれます。
もちろん、どれも大切です。
経済が弱れば、医療も福祉も教育も支えられません。
新しい産業を育てることも必要です。
AIや半導体、量子技術、バイオテクノロジーなど、次の時代の基盤技術に国が投資することにも意味があります。
けれど、最近私は、少し違うことを考えるようになりました。
国は、市場と同じことだけをしていてよいのだろうか。
民間企業は、利益を生み出すものに投資します。
それは当然です。
100の研究開発に投資して、そのうち一つが巨大な産業になる。
そういう世界もあるでしょう。けれど国家までが、すべてをその尺度で考える必要があるのでしょうか。
むしろ国にしか守れないものは、
すぐには利益を生まないもの。 生産性では測れないもの。 市場に任せておけば、静かに消えてしまうもの。
なのではないか。
そんなことを思うのです。
🍵 一杯のお茶ほど「生産性の悪い」ものはない
たとえば、茶道。
一杯のお茶を飲むために、どれほどの時間を使うのでしょう。
器を選ぶ。
花を一輪生ける。
掛物を選ぶ。
季節を読む。
湯を沸かす。
客を待つ。
生産性だけで評価したら、大変です(笑)。
もっと早くお茶を淹れる方法はいくらでもあります。
華道だってそうです。
花を最短時間で花瓶に突っ込めば、時間当たりの処理本数は増えるでしょう。
香道に至っては、「香りを聞く」。
何かを大量生産するわけでもありません。
けれど、日本人は何百年もの時間をかけて、こうした一見「役に立たない」行為を、道にまで高めました。
茶道。華道。香道。武道。
そこには技術だけではなく、身体の所作、空間、季節、自然、他者への配慮、そして生と死へのまなざしまで含まれています。
私はそこに、日本文化独特のセンシュアリティがあると思っています。
見る。聞く。触れる。香る。味わう。そして、その奥にあるものを感じる。五感を通して世界を受け取り、そこに意味を見出す。
これは数字にはなりません。
🌸 日本文化は「物を増やす文化」ではなかった
考えてみれば、日本文化には不思議なところがあります。
たくさん所有することより、少ないものの中に意味を見つける。
満開の桜だけではなく、散る桜を見る。
完璧な器だけではなく、欠けや歪みに美を見る。
何もない空間を「余白」として味わう。
一杯のお茶の中に、季節も、人間関係も、一期一会も、生と死さえ入れてしまう。
つまり、物を増やすのではなく、意味を増やす。
そういう文明だったのではないでしょうか。
🕰️ 江戸には「発酵する時間」があった
江戸時代についても、最近少し考えます。もちろん、いわゆる「鎖国」は、日本が完全に世界から遮断されていたという意味ではありません。長崎を通じてオランダや中国とつながり、朝鮮、琉球などを介した交流もありました。
だから「閉じたから文化が発展した」と単純化するつもりはありません。けれど、外から入ってきたものが、今ほど瞬時に日本社会を覆い尽くす時代ではなかった。
入ってきたものを、一度自分たちの中に取り込んで、
咀嚼する。組み替える。日本化する。そこには時間がありました。
私はそれを、文化が発酵する時間と呼びたいと思います。
浮世絵も、歌舞伎も、俳諧も、工芸も、食文化も。長い時間をかけて、日本独特のものになっていった。
ところが今は、世界中の情報が一秒で届きます。
東京も、パリも、ニューヨークも、ソウルも、同じブランド、同じ音楽、同じSNS、同じアルゴリズムに囲まれていく。
AI時代になれば、それはさらに加速するでしょう。
だから私は、今必要なのは「鎖国」ではなく、発酵する時間を取り戻すことなのではないかと思っています。
🗼 戦後、日本は「豊かさ」を少し取り違えたのかもしれない
戦後の日本は、驚異的な経済成長を遂げました。
焼け野原から立ち上がり、世界有数の経済大国になった。これは、間違いなく大きな成功です。そして、アメリカ型の大量生産、大量消費、効率性、合理性から学んだことも非常に多かった。その恩恵を、私たち自身が受けています。
だから、それを否定するつもりはありません。
ただ、その成功があまりにも大きかったからこそ、
いつの間にか、豊かさ=たくさん持つことになりすぎてはいなかったでしょうか。
GDP。所得。生産性。成長率。どれも重要です。でも、人間が幸福に生きるためのものを、すべてそこに換算することはできません。
🎨 フランス人が教えてくれたこと
フランスだって、もちろん経済を大切にします。世界的企業もラグジュアリーブランドもたくさんあります。けれど同時に、フランス人には、文化は国家が守るものだという感覚が、日本よりずっと強いように私は感じてきました。
言語。文学。映画。演劇。美術。建築。食。景観。歴史的建造物。こうしたものは、「儲かるなら残す、儲からないならなくなっても仕方がない」という市場原理だけには委ねない。
なぜなら、それは国のアイデンテティに関するからです。それらがなくなれば、フランスという国そのものが、フランスでなくなってしまうからです。
📜 国語がなくなれば、国は何を失うのか
今日の収録では、フランスの国語教育についても話しました。
フランスでは、母国語を非常に重視します。けれど私は、それは単なる愛国心の問題ではないと思っています。
言葉は、思考するための道具だからです。
語彙がなければ、世界を細かく切り分けることができない。
自分の考えを文章にできなければ、他者と議論することもできない。そして、自分たちの文学や歴史を、自分たちの言葉で次の世代に渡せなくなったとき、その国は何をもって「同じ国」であり続けるのでしょう。
そんなことを考えていたところ、ちょうど興味深い記事を目にしました。
ノーベル化学賞を受賞した白川英樹先生が、「なぜ日本人のノーベル賞受賞者が多いのか」という問いについて、日本語で高度な学問を学べることの意味に触れていました。
日本では、物理学も化学も医学も、大学のかなり高度なところまで日本語で学ぶことができます。
これは、考えてみれば当たり前のことではありません。
江戸から明治にかけて、先人たちは欧米の学問を必死に読み解き、新しい概念に日本語を与えてきました。
「科学」「哲学」「社会」「自由」「権利」――。
外国から入ってきた知を、ただ外国語のまま借りるのではなく、自分たちの言葉で考えられるものにした。
その膨大な知的蓄積の上に、私たちは立っています。
もちろん、外国語は大切です。
外国語は、世界へ開かれた「窓」です。
けれど、窓から入ってきた世界を理解し、組み立て直し、自分の思想にするためには、思考の土台となる言葉が必要です。
母国語とは、単なるコミュニケーションの手段ではありません。 思考するためのOSでもあるのだと思います。
経済は衰退しても、また立て直せるかもしれない。
けれど、言葉と文化を失った国を、もう一度つくり直すことは、とても難しい。国語が衰えれば、単語がいくつか消えるだけではありません。
その言葉でしか表現できなかった感情。
世界の切り取り方。
美意識。
記憶。
そして、何百年、何千年と受け継がれてきた人々の思考まで、少しずつ失われていきます。
だから私は、国語を守ることは、単に「美しい日本語を守る」という話ではないと思っています。
自分たちの頭で考え続けられる社会を守ること。
それが、国語を守るということなのではないでしょうか。
そしてAIが、瞬時に文章を書き、翻訳し、答えまで出してくれる時代だからこそ、このことは以前より重要になっているように思います。
AIが言葉をつくってくれる時代に、 私たちは自分の言葉で考えることを手放してはいけない。
国語を守ることは、文化を守ることであり、思考を守ることであり、もしかすると、人間が自分で考える自由を守ることなのかもしれません。
💰 国にしかできない投資がある
政治の世界に入ってみて、ますます思います。何でも「費用対効果」で測ろうとする。もちろん私はEBPMを重視しています。
数字は大切です。
むしろ、測れるものは徹底的に測るべきだと思っています。
でも同時に、測れないものまで、存在しないことにしてはいけない。これは非常に大切です。
市場が投資できるものには、市場が投資すればいい。
成功すれば巨大な利益が出る技術には、世界中から資本が集まります。
では、誰が古い能舞台を守るのでしょう。
誰が地方に残る祭りを次の世代へ渡すのでしょう。
誰が職人の技を残すのでしょう。
誰が子どもたちに、本物の音楽や演劇や美術に触れる機会をつくるのでしょう。
誰が、国語を徹底的に教えるのでしょう。
私は、そこにこそ国家の役割があると思います。
市場が拾わない価値を拾うこと。
次の四半期ではなく、100年後を考えること。
それが国家にしかできない仕事の一つではないでしょうか。
🌺 生産性の反対側にあるもの
政治では「生産性を上げる」という言葉をよく聞きます。
もちろん必要です。でも私は最近、その反対側にも目を向けたいと思うようになりました。
子どもとゆっくり話す。
老人の昔話を聞く。
本を読む。
音楽を聴く。
花を見る。
誰かを弔う。
一杯のお茶を丁寧に淹れる。
どれも、生産性という尺度では非常に効率が悪い。
けれど、人生を人生らしくしているものは、案外そういう時間ばかりです。文化は、余裕ができてから楽しむ贅沢品ではありません。人間が、
何を美しいと思うのか。
何を恥ずかしいと思うのか。
何を守りたいと思うのか。
何のために生きるのか。
その基準を、何世代にもわたってつくってきたものです。
だから文化は、社会の飾りではない。
文化は、その社会のOSなのだと思います。
経済は、国を豊かにする。
科学は、国を強くする。
けれど、文化は、その国が何者であるかを決める。
だからこそ、国が守る。
市場で値段がつかないからこそ、守る。
生産性が悪いからこそ、残す。
そんな政治があってもよいのではないでしょうか。
一杯のお茶に、百年後の日本を見る。
政治とは、本来そのくらい長い時間を考える仕事なのだと、私は思っています。
