🕊️ 「医療とは何のためにあるのか」
──演劇情動療法の現場で見た、“感情が戻る瞬間”
本日、仙台富沢病院を訪問した。
藤井昌彦先生より、「認知症情動療法」について直接お話を伺い、実際の現場も見学させていただいた。そこには、私がこれまで見てきた認知症医療とは、かなり違う空気が流れていた。
「デライトフルエイジング」
なんて美しい言葉だろうか。
老いを、ただ“失われていくもの”としてではなく、なお感動し、なお誰かを愛し、なお笑う存在として見つめる視点。
情動を中心に置く医療。“感動する力”を守ろうとする医療。
私はフランス時代、メディカルアロマテラピーにも深く関わっていたため、重症認知症患者へのアロマ活用のお話にも、大変興味を惹かれた。
だが、今回最も印象的だったのは、「演劇情動療法」と呼ばれる取り組みの実際である。
正直に言う。かなり衝撃を受けた。しかも、非常に良い意味で。
今の日本の認知症医療は、どうしても、徘徊を止める。暴言を減らす。興奮を抑える。転倒を防ぐ。管理しやすくする。
そうした方向へ寄りやすい。
もちろん、現場の疲弊や安全管理を考えれば、それを簡単に否定することはできない。
だがその一方で、私は以前から、ある違和感を抱いていた。
「静かであること」は、本当に“良い状態”なのだろうか、と。
今回見学した演劇情動療法では、認知症患者さんたちが、三十分以上も、情動療法士・前田有作氏の語りをじっと聞いていた。
時に笑い、時に目頭を押さえながら。
さらにその後、幼い頃の記憶を語る。昔の出来事を、小咄のように話す。言葉が、自然と溢れてくるのである。
その姿は、私たちが一般に抱いている“重度認知症患者”のイメージとは、あまりにも違っていた。
驚いたのは、その患者さんたちの多くが、家族から対応困難となり、拘束状態に近い扱いを受け、BPSD(認知症の行動・心理症状)が強く、精神科病院へ来た方々だったという点である。
そして、先生のお話の中で、私が深く共感したのは、抗精神病薬やマイナートランキライザーを減薬・休薬していく中で、むしろ感情が戻り、表情が柔らかくなり、幸福そうになっていく、という現象だった。
私は医師として、薬そのものを否定するつもりはない。急性期には必要な場面もある。
しかし、「問題行動を抑えること」が、時に、その人の感動や幸福感までも弱めてしまう可能性があることを、私たち医療者は忘れてはならない。
認知症になっても、美しいと感じる心は残る。懐かしい記憶に涙する心も残る。落語のオチに反応する笑いも残る。音楽に震える魂も残る。
つまり、「人間らしさ」は、認知機能だけでは測れないのである。
藤井先生の論文では、認知症患者の“歓喜的情動指数(DEI)”という指標まで用いられていた。
極めて興味深い視点である。これからの高齢者医療は、単なる認知機能評価だけではなく、感情、幸福感、喜び、社会的つながり、美しいと感じる力。こうした“情動”をどう守るのか、という方向へ進むべきではないか。
そして私は、AI時代の医療も、本来はこちらへ向かうべきだと思っている。
認知症を「監視」するAIではなく、懐かしい記憶を呼び起こすAI。その人が最も安心する音楽を流すAI。昔の街並みを再現するAI。孤独を減らし、家族との会話を支え、感情を守るAI。
そんな、“情動を支えるAI”である。
視察の最後に、藤井先生が静かにこうおっしゃった。
「東南アジアの国々、たとえばラオスやカンボジアの人々は、相対的に私たちより貧しく、医療も十分に受けられず、平均寿命も短い。けれども、幸福度は日本より高いんです。
熱心な仏教徒であることも、関係しているのかもしれません。
日本の医療は、枝葉末節を正そうとするあまり、一番大事なことを忘れてしまっているのかもしれませんね」
そして、こう続けられた。
「国会の質疑でぜひ聞いてほしいんです。
“医療の目標とは何なのか”を」
その言葉が、ずっと胸に残っている。これは、単なる医療政策の話ではない。
日本が、老いをどう見つめる国でありたいのか。
人間を、どのように扱う国でありたいのか。
老いて忘れてもなお、涙し、笑い、誰かを愛し、美しいと感じる力を、人間の尊厳として守ろうとする国なのか。
その哲学そのものなのだと思う。



