🕊️ 生き抜くということ、受け入れるということ
──ACPを考えていて、ふと思ったこと
ACP(アドバンス・ケア・プランニング)のことを考えていたとき、ふと目に止まった記事があった。死に向かう人間のあり方について、ある一つの答えを提示するような文章だった。
そこには、「最後まで戦い抜くこと」の価値が、強い言葉で語られていた。
その気持ちは、よく分かる。人は、生きたいと思う。できることがある限り、前に進みたいと思う。それは、とても自然で、尊い感情だ。
ただ、読んでいて、少しだけ引っかかるものがあった。
それは、その生き方が、あまりにも「一つの正解」として語られているように感じたことだ。
特に、緩和病棟のくだり——「諦めの死相」のように語られていた部分には、少し違和感を覚えた。それは、むしろ病態と直結する変化でもあるだろうし、同時に、本来は静かで穏やかな心境の現れなのかもしれない。死期を知った人には、どこか独特の力のようなものが宿ることがある。
少しだけ魂が浮いているような、不思議な静けさである。それを「死神」や「死相」といった言葉で片づけてしまうことに、私はためらいを覚える。
助かった人は、どうしても「自分は諦めなかったから生きた」と語りやすい。それ自体は悪くない。けれど、その裏には、助からなかった大勢の人たちがいる。
その人たちは、
執念が足りなかったのか。
希望を失ったから死んだのか。
諦めたから旅立ったのか。
そんなことは、やはり言えない。
多くの人は、
十分すぎるほど戦って、
十分すぎるほど頑張って、
それでも病に負ける。
だから、「生きる執念があれば延びる」「諦めたときに死ぬ」という言い方は、残された人にも、旅立った人にも、少し残酷だと思う。
私は、ある友人を思い出していた。
その人は、最後まで戦った。病状を家族にもほとんど伝えず、緩和ケアも拒否し、治療を続けた。何度も、「緩和ケアは“諦め”ではない。治療と並行してできるものだ」と伝えた。
それでも、その人は自分の道を選び続けた。
仕事も、最後まで続けていた。復帰を前提としていたから、引き継ぎもさせなかった。
強い人だったと思う。その精神力は、本当に見事だった。
けれど、亡くなった後、家族がぽつりとこう言った。
「知らなかった。もっと一緒の時間を作ってほしかった。もっとたくさん語り合いたかった」
この言葉は、重い。
その人は、確かに最後まで戦った。自分の意志を貫いた。しかし同時に、伝えなかったこと、残さなかった時間、引き継がれなかった仕事。そうしたものもまた、現実として残った。
「最後まで戦い続けること」が悪いわけではない。むしろ、それは一つの美しい生き方だ。だがそれを、唯一の正解のように語ることには、どうしても違和感がある。
どのように時間を使うのか。どこまで治療を続けるのか。何を最後まで大切にするのか。それは、本来、とても個人的な選択である。
生き抜く覚悟を持つ人がいていい。
最後まで治療を望む人がいていい。
奇跡を信じる人がいていい。
でも同じように、
静かに受け入れる人がいてもいい。
もう十分だ、と感じる人がいてもいい。
苦痛を減らして、家族と穏やかに過ごしたい人がいてもいい。
勝ち負けではない。
そこは本当に、それぞれの死生観でいい。
選べることそのものが大切なのだと思う。
そして願わくば、
その大事な選択は、
できれば一人で抱え込むものではなく、
大切な人と共有されていてほしい。
