江田島の旧海軍兵学校と、父の名前の話

――「名字」と「家族」をめぐる、ある小さな驚き

 

 

初夏の頃に、広島県江田島にある旧海軍兵学校(現・海上自衛隊第一術科学校)を訪ねた。ここは、かつて日本海軍の幹部候補生たちが学んだ場所であり、今もなお、その歴史と息吹を色濃く伝えている。堂々たる造りの教育参考館には、卒業生たちの名簿や写真が保管されており、家族であれば閲覧できる仕組みになっている。

 

私は、父と叔父の名前を探すために足を運んだ。父は海軍77期生。しかし、わずかな期間で終戦を迎え、その後の人生を歩んだ。一方、叔父は駆逐艦「白雲」の艦長を務め、釧路沖の太平洋に沈んでいったという。十人兄弟の末っ子だった父にとって、二十も年の離れた長兄たる叔父は、まさに尊敬すべき存在だった。その影響を受けて、父もまた海軍への道を選んだのだった。

 

 

見つからない父の名

 

叔父の名はすぐに見つかった。

ところが、父の名前だけがどこにもない。77期生の名簿を隅から隅まで目を凝らして探しても、わずかな痕跡すら見つからなかった。「おかしい」と思い、翌日も同じ場所を訪れ、再度名簿に目を通したところ、やっと一つの名前に行き当たった。

それは「岩本昭雄」。わたしの父の名前は本来「橋本昭雄」であるはずなのに、当局の公式記録には「岩本」として登録されていた。

 

理由は単純なようで、どこか示唆的でもある。

父は結婚の際、母の強い希望を受けて“婿入り”の形を選び、母の姓を名乗ったのだ。戦時中の旧海軍という組織においてさえ、それは動かしがたい事実として受け止められ、名簿にはきちんと「岩本昭雄」として記載されていた。“家名を重んじる軍人社会”という先入観を思えば、なんとも不思議な印象を受ける。

 

 

九州男児と婿入り

 

父は九州・佐賀の出身だ。男尊女卑が色濃く残るといわれる土地柄であり、わたしの幼い頃の記憶にも、女性たちが台所でせっせと準備を整え、男たちが箸をとるまで食事を始められない――そんな光景があったように思う。

しかし父は、母の姓を名乗ることを穏やかに受け入れたという。

当時としては珍しい選択であったが、父自身はことさらに気にする風でもなく、旧海軍の同期会にも「岩本昭雄」として堂々と参加し、生涯にわたり旧友たちとの縁を大切にしていた。

 

名字が変わる。それは呼び名が違うだけのことと見る向きもあるし、社会的身分や家系を象徴する行為として捉える向きもある。

父の記録が軍の公式名簿にまで「岩本」としてしっかり刻まれているのを目にしたとき、わたしはふと「名前」というものの社会的意味を思わずにいられなかった。

家を継ぐ、姓を変える――それは個人の暮らしの選択にとどまらず、制度や慣習と深く結びつく問題でもあるのだ。

 

 

夫婦同姓の伝統と、新たな価値観

 

夫婦別姓をめぐる議論は長く続いているが、わたし自身が所属する参政党は、家族の一体感や伝統の尊重を重視する立場にある。

しかし一方で、社会の現実としては通称使用や姓の変更が広がり、個々の事情に合わせて柔軟に名字を用いる流れも生まれている。父のように、あの時代に婿入りという決断をしても、軍がそれをきちんと受容したという事実は、小さなエピソードながら重みをもってわたしの胸に響く。

名前とは、家族を結ぶ象徴でありながら、同時に個人の生き方を映す鏡のようなものではないだろうか。

 

 

江田島の「同期の桜」

 

旧海軍兵学校の敷地には、「同期の桜」と呼ばれる桜の木がある。幹部候補生たちが共に学んだ証のように大切に扱われてきたという。その枝の上に、大きなきのこか椎茸のようなものがこっそり根を張っているのを見て、思わず吹き出しそうになった。

自然の成り行きなのか、それとも何かの象徴なのかは分からない。

 

ただ、ふと「同期の桜」と「名字の変遷」を重ねてみたくなった。時代が変わり、名前が変わっても、人の繋がりは続いていく。そんなことを感じながら、江田島を後にした。