クリストファー・ノーラン監督の手による『オッペンハイマー』を鑑賞した。近年の映画の波濤の中にあって、その秀逸さは際立っていると感得した。

この映画は“反戦の詩篇”である。オッペンハイマーはユダヤ人。ナチスとの原爆開発競争の勝利は焦眉の急であった。ただし、その先の未来展望は彼の思索の範疇を超えていた。日本語字幕なしで鑑賞したため緻密な理解に到達したとは思えないが、逆に非言語的理解のとっつきに触れることができた。3時間という長大な時間を費やしながら、終始引きずりこまれることができたのである。

 

まず、映像の美しさが目を惹く。宇宙的な映像は、量子力学的な世界観を映し出しているようである。音響と相まち卓越性を際立たせる。物理学の進展は世界を変容させる。しかも、変容を止める術はない。知的好奇心は、抑えがたいものである。

アンナ・ハーレントの「悪の凡庸さ」を思い起こさせる。根底に何か似たものを感じる。戦争に身を投じた科学者たち(チューリングもオッペンハイマーも)は、最終的には不遇を運命づけられたようである。彼らは、ある意味でスケープゴートだったのだ。

 

原爆投下後の被爆地ニッポンの惨状は、映像ではなく情報のみ表現されるが、それが適切なようで適切でないような感じを受ける。その感情は私が日本人である故であろうか。

逆にオッペンハイマーが賞賛される場面で、彼が見た妄想---歓喜しているアメリカ人女性たちの顔が溶けていく様は、パンドラの箱を開けた末路の連鎖反応の果てを示唆する。現代の大きな危惧を予言しているのではないか。

 

なによりもこの豊かな国USAに、風船爆弾や竹竿で戦おうとしたニッポン。その情報収集力の弱さに、情けなさがこみ上げる。倫理を欠いた科学者は危険であるという。それでも、戦争という異常な状況下にどのような選択が最善であったのだろう?

善悪の二元論で割り切れないのは、最大の被害者である日本でさえ、過ちを犯していたのは間違いではない。深く考えさせられる。

 

「京都はやめてほしい」という言葉からは、ヒトラーの「パリは燃えているか」という詰問の声が脳裏をよぎる。特別な文化、歴史としての美は、常に擁護される運命にあるというのか?

アインシュタインの登場と最後の場面での「言葉の謎解き」。その筋立ての秀逸さにおいて、同じ科学者でありながらアインシュタインが、今なお不動の人気を誇る理由を如実に説明できたように思えた。

被爆国ニッポンの日本人として、この映画、観るべきである。深遠な哲学的問いを久しぶりに堪能できるチャンスなのだから。