トイレットペーパーの補充と婚活についての考察、目から鱗の話がある。この小話は、日本人の直感と共感性、さらにはジェンダーギャップを垣間見せるエピソードとして、ちょっとしたネタになりそうだ。

 

普段からテレビを見ない、それどころか持ってもいないわたくしが、ある朝目にしたのは「結婚相手に絶対選んではいけない3条件」という記事だった。その条件とは、「トイレットペーパーの補充を怠る人」「シャンプーを詰め替えない人」「お風呂場の泡を流さない人」。世間ではこれに「わかるわかる」と共感の嵐が巻き起こったとか。

 

だが、ここで一つ疑問が湧く。これらの生活必需品の補給等を、パートナー思いの行為として評価するのは、果たして合理的なのだろうか。社会生活において、どこかの場面で習えば誰でもできるようになる。

そもそもこの種の「共感」は、日本人特有の文化的な現象なのではないか。

 

もちろん、生活の細部にわたって配慮することは重要だが、かといって、トイレットペーパーの補充くらいでパートナーを選ぶ基準にするのは、それこそあまりにもペラペラ(表層的)だ。真に大切なのは、相手の性格や価値観、そして二人の未来における共通の目標であるだろうし、NGとして考えるならば、ギャンブルや借金、DV、浮気性など、もっと深刻な問題が婚活には存在する。

それにトイレットペーパーを使う頻度自体、女性の方が多いはず。その細かなことに目くじらを立てる必要はない。ジェンダーフリー論者のわたくしでもそう感じる。素晴らしいパートナーであれば、その程度のことは容易に超えられる。

 

かつて昭和の頃「病院のトイレを見れば、その病院の良し悪しがわかる」という話を聞いたことがある。だが施設の新旧や美醜が、直接その質に結びつくわけではない。わたくしが当時勤めていた済生会中央病院は、ハード面自体はかなり老朽化はしていたが、その医療の質(ソフト面)は高かった。設備投資と専門家の質は、必ずしも一致しないのだ。

 

これらの話から、日本人の判断基準がどれほど直感と共感に頼っているかが見えてくる。しかし、もっとロジカルに、もっと深く、人と人との関係を見つめ直す必要があると感じる。歴史上の賢者たちが見せた、全方位的な知識と洞察力に学ぶべき時が来ているのかもしれない。

 

結局のところ、トイレットペーパーの補充ひとつを取っても、それが示すのは一人の人間の全貌ではない。人間はもっと複雑で、もっと深い存在だ。そして、その深さを理解し、価値を見出すことが、本当の人間関係の質を高める鍵なのだろう。