夏が終わろうとしています。『風立ちぬ』、私たちにとってはアニメのそれよりも堀辰雄の小説がしっとり胸にせまります。その「序曲」から…



<不健康の美の表象、サナトリウム>

 

それはもう秋近い日だった。私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。

 

風立ちぬ、いざ生きめやも。

 

ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠れているお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。

 

 

<風光明媚な療養地>

 

 堀辰雄(19041953)は一高在学中の1923年関東大震災に遭遇し、自ら隅田川を泳いで九死に一生は得たが、数日間探し回った母は水死していた。その衝撃と疲労によって肋膜炎を発症し、休学療養したことから結核を終生抱えこむことになった。彼がこの年を転回点として、数学者の道から文学へと舵をきったことが、それまで私小説あるいは低回趣味にとどまっていたわが国小説界に、西欧風のロマンチシズム・フィクションの風を送りこむことになったのである。

 1925年東京帝大国文学科に入学し29年に卒業。主な転地療養先は軽井沢と富士見高原であった。193369月軽井沢に滞在した折、油絵を描く同病の少女矢野綾子(小説では節子)と出逢って恋する。349月婚約、35年春にともに富士見高原のサナトリウムに入所する。綾子の病状が重篤であったためである。12月綾子死去。『風立ちぬ』の終章「死のかげの谷」は、3612月軽井沢での追憶を記して擱筆する。

 「風立ちぬ、いざ生きめやも」はポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節

le vent se lève, il faut tenter de vivre

の堀辰雄による訳である。

意味は「風が立ち起こる。生きようか、生きようではないか」でいいが、意志の表出とともに未来の不安をもよぎっている。