61日、コロナウィルスの国内ワクチン接種者が1千万人に到達したことが発表されました。そのニュースが流れた日、私も医療従事者として1回目のワクチン接種を受けました。誰かがNo.10,000,000th personだった記念の日をともにしたのです。初回、虫刺されほどの痛みもなく終了。翌日だけ接種部位周辺に筋肉痛が出て、その後は内出血が一週間と少し残っておしまい。コロナ族と我が細胞とのファーストコンタクトはあっけなく終わりました。

 

 それぞれが様々の思慮の果てに接種を受け入れたことは、わが身ながら諒解できます。同様に、それを回避した決断を択られた人々もいます。人には人の事情があります。彼らの思いも、ないがしろされるものではありません。

 けれど、全国民が、世界の人間のすべてがワクチン接種を迫られるなんて、そんな事態を想像することすらできませんでしたよね。凄まじい! 地球の未来は明るいか暗いか、どっちに向かって回転しているのでしょうか。医療の大きな転換点にある今こそ、考えてみたいと思いました。

 

 若い医学生だったころ、獣医学科の学生から「人間の医者と獣医の違いは、対象の違いではなく対処の方法の違いですよね。対象を徹底して個と観るか、類として捉えるかの違いじゃないでしょうか」と聞きました。未曾有のパンデミックに遭遇して、個だけではなく類としての人の命を考えるのは何だろうと思ったのです。

 使い古された言葉に「衛生」があります。衛生とは「生を衛(まも)る」、転じて健康の増進を意味し、特に清潔を保つことを意味します。衛生は明治の初め長与専斎が、ドイツ語Hygiene(ヒュギエイアorヒギーネ:健康法、衛生学)を訳したものです。語の意味に国家や都市の社会基盤整備の概念も含まれていたため、養生を使わずに、あえて『荘子』庚桑楚篇 の中からとったと語っています。

 Hygieneはギリシア神アポロンの子、医術の祖といわれるアスクレピオスの娘Hygiea(ヒュギエイア,ヒギーネ,サルースorハイジア)からきたもの。いずれも蛇がからみついた「アスクレピオスの杖」と「ヒュギエイアの杯」は医と薬のシンボルマークとなっています。




 ヒュギエイアの思想に対する信仰といわれるものがあるみたいで、フランス生まれのアメリカの細菌学者(ロックフェラー大学)であり、人道主義者であったルネ・デュポス(19011982)は「理性に従って生活するかぎり、人間は元気に過ごせる」と語っています。

 長与専斎が抽出した『荘子』庚桑楚篇では 、老子が弟子との問答のなかで「衛生之経(みち)」を説いていて、それは生命を安らかに守っていく方法だというのです。

 では、『荘子』庚桑楚篇第二十三(岩波文庫現代語訳)のエッセンスを。

 衛生のみちとは、純粋なひとつのものを内に守って、それを失わないことである。

 

 占いや亀卜といったものに頼ることなく、自ら吉凶を判断することである。

 

 自分に適した居場所にあって、静かに落ち着いていることである。

 

 自らの能力で働き、かつやめることである。

 

 他者になにかを求めるのではなく、内省することが大切である。

 

 ものにこだわることなく、自由にふるまうことである。

 

 気遣いをやめてまっすぐに暮らしていくことである。

 

 赤子の心を失わないことである。

人々の生を安んずるためにこそ、まず自らを安心立命の境地に置けというのでしょうか。————これはなかなか容易なことではありませんね。