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――令和2年度大阪教育大学外国人留学生入学試験問題多文化リテラシーコース小論文

 

 私が著した『人生に消しゴムを使わない生き方』(日本経済新聞出版社 2017 :略称「ジン消し」) が今年度の大学入試問題に使用されました。事柄の性質上著作権法の適用外となって、事前の通知も何もありません。入試事務が完了し、問題が過去問として配布される段階になって、初めて連絡が入りサプライズ!となるわけです。

もちろん、人生初体験ですから、びっくりした後は「私ごときが?」と恐縮したり、それでも嬉しくなったり。正直、感激いたしました。大阪教育大学の先生方、ありがとうございます。

 

この本はわが子をフランスの公立学校に通わせた日本人の親――それも哲学とかの人文系の知識に疎い母が、目を白黒させて驚いた体験の感想記を書いたものです。「さすがヨーロッパ文明だな」と真実思いました。最近はちょっと買い被り過ぎたなと思って、あちらでのコロナ騒動の右往左往を見ておりますが。

大阪教育大学は先生になられる方を養成するだけでなく、日本文化と異文化との融合なども教育研究されているようで頭が下がります。

 

設問を前に、私は考えこんでしまいました。はて。著者の私は果たして及第点が取れるのだろうか。このレベルで日本語を母国語としない外国人の方が読み砕いて答える目!なんですごい! それを「今どきの若いものは」とか「外国人がどこまで理解できるだろう」とか、大人は成長の止まった存在だなとしみじみ思います。大学に合格されたら、この筆者の意図はなにかとか忖度する必要もなく、自由に考えて好きなように表現できますよ。

素晴らしい未来に祝福される若者たち、まさに「後生畏る可し」。未来も捨てたもんじゃありません。

 

出題された問題は以下の通りです。

 

設問 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。

 

 フランスの小学校では国語の学習に授業時間数の半分を割く。文豪の散文に詩人の韻文、手本となる詩や文章を徹底して暗記させる。ヴィクトル・ユゴー、プレヴェール、ラ・フォンテーヌ。難解な詩であれ、暗唱すればなにかを得るに違いない。

 言葉はディベートに使われるツールのみではないのである。口で語るにせよ、文字で書くにせよ、美しく使われなければならない。教育の最大の目的として「考えていることを、正しい国語を用いて、正確に表現できる」ことがある。

 昔は日本でも古文や漢文などを、意味もよくわからず丸暗記させられたものだった。文章を声に出して読むことは子どもを強くする。自己の意思を正しく伝える言葉を使えることは人間を正直にする。美しい言葉は人生を豊かにするのである。

 

 最近のフランスでは、こうした諸外国にない伝統的な国語教育が、軽んじられてきているとも聞く。「フランスの将来はどうなるのか」危惧している父母も多いのである。

子どもの教育に一家言をもつ南仏に住む友人が嘆いていた。

「国語の担任がコピーを配り、子どもたちはそれを切り取って自分のノートに貼っておしまいってわけ。もう、信じられないわ! もうすぐノートなんかなくなって、タブレットに代わるだろうからって、その準備期間ですって。ただの手抜きじゃないの、皆で一緒に談判しに行こう相談しているのよ」と。

中学生になると、選択科目にはラテン語が登場する。日常に使われる言葉ではあるが、いわばインテリとなる基礎教養である。文法も複雑で習得には高いモチベーションを要するといわれるが、これからの子どもたちは大丈夫だろうか?

 

 翻って日本の国語教育。私が一番気になるのは、感動の強制というか、感情を特定のものに統一させようとする傾向である。

 日本の国語教材で一般的な太宰治の『走れメロス』。メロスとセリヌンティウスの友情や信義ばかりがライトモチーフとされている。それが「作品の訴えたいことはなにか」と設問され、意識的に誘導された結果だとすれば問題である。ディオニソスの暴政に憤るメロスの侠気も称揚されていいし、結婚する妹に与えた「他人に誠実たれ」の言葉が一番好きであっても不思議はない。

 

文学作品の中のそれぞれの登場人物に、読む人それぞれがどんな感情を抱こうが自由であるはずだ。その気持ちが――未熟・ブリッコ・衒学的・亜流者――なんであろうと個人は自由に思い、また自由に変わり成熟していくのである。成熟が腐敗であろうと個人の責任ではないか。

特定の「正解」に収斂させようとする。「人と違ってはいけない」「人と違う意見をあらわにするな」、日本社会でいわれる同調圧力の素地はそんなところにもあるように思われる。

 

 文学作品を教材とする場合、気持ちや感動といった情緒的ものを優先するのはおかしいのだ。この文章の何が誤解されやすいのか、あるいは表現が優れているから多様な捉え方が出来ているといった、クールな理論展開を教えるべきことである。

 国語は文学的表現法、暗喩、間接的表現などを学ぶ場である。欧米諸国が行っているディスカッションによる解決の発見や、ロールプレイングでのプレゼンテーション能力訓練はぜひとも充実させたい。

日本語は本質として受容的であって批判的ではない。個性の時代は批判精神を伸長させなくては他に伍していけない。曖昧さ決して褒められたことではない。個の意見をしっかりと、上手に表現できるような教育を望まれている。

 

 フランスの場合、共通感情に収束させようとする日本の国語教育とは、まったくの逆である。

小学生たちは臆することなく発言する。

 人はそれぞれ違うもの。違う感性、違う思考、だからこそ人格が違い、違った者が集まって社会が成り立つのである。人は違って当たり前である。様々な考え方を知り、話し合って互いに受け容れる。それで心がゆたかになる。

人間それぞれに違い、才能や能力が平等でもない。それでも、違うからこそ人間の価値があり、生命の尊厳があるのではあるまいか。

 

 スマホ全盛時代のこんにちでも、パリのメトロやカフェ、公園の木陰では分厚いペーパーバックに読み入る人の姿は、よく見かける光景である。老若男女、誰もがカミュ、ヴォルテール、ラブレなどの古典を、面倒くさがることなく好んで読んでいる。

学生たちが図書館に通うのは、受験勉強のためではなく、好きな本を物色するためである。時間というもっとも破壊的な淘汰を経て、生き残っている古典には敬意をもって対すべきだという。

パリの学生には村上春樹は人気である。わかりやすい文章、リアリズムとファンタジーが混ざり合い、ときに陰鬱な展開のテンポがいい。海外の文化に精通する登場人物達にも感情移入しやすく、フランス的ロマンチシズムの感性によく合うのだそうだ。

 

日本人は豊かなそして膨大な象形文字を大陸から頂戴し、独自の優雅な“かな文字”を生み出した。その繊細さは類を見ない。「祖国とは国語である」わたくしたちはある国に住むのではない。ある国語を操る国に住むのだ。経済が滞っても国は滅びないが、国語力の低下はそのまま思考能力の低下であり国家の危機である。

 

 日本では、最近ますます「幼い子どものころから英語を身に付けさせよう」という声が高い。「しかし、待てよ」ではある。

日本人にとって、すべての思考の基礎となるのは日本語である。幼いころから美しい日本語を、ベースにしっかり打ち込んでおかなければいけないのではないか。

 

(岩本麻奈『人生に消しゴムを使わない生き方』、日本経済新聞出版社、2017年、一部改変)

 

 

 問1 フランスの小学校と日本の小学校における国語教育の違いについて説明しなさい。

(100字以上150字以内)

 

 問2 筆者は、国語教育がどうあるべきだと考えているか、説明しなさい。

 (150字以上200字以内)

 

 問3 筆者の考えをふまえて、自身が受けた国語教育の特色を述べなさい。

 (300字以上400字以内)