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 「物言えば唇寒し秋の風」は芭蕉の言葉で、
余計なことを言うとかえって災いを招くという意味だそうです。余計なこととは「人の短をいふ事なかれ 己が長をいふ事なかれ」と。これは編者の中村春庵が勝手に師の句の前書きにつけたもの。句の解釈は「語る言の葉の先から、唇が風に吹かれて冷たくなっていく、あぁ秋も深まってきたものである」で美しい。編者の前書きはまったく余計なこと。

 さて、世界は新型コロナウィルスが猖獗(しょうけつ)を極めております。情勢の変化があまりに急激で広範囲なために、なにをどう考えていいのかよくわからなくなるほどです。2月下旬のメディアは「感染国日本への旅行を比較的冷静に計画中のイギリス人」と伝え、3月上旬も「フランスの過剰に恐れず重症者を守る政策」を紹介していました。その後いろいろありましてあっという間、今はオセロのコマが反転しているのはご承知の通り。風向きがいつまた変わるのかわからない、その時は「物言えば唇寒しコロナ風」でしょうか。

 

 2つほど気がついたことがあります。「イタリア・イラン・スペイン・韓国・フランスにドイツ。こういった国々での感染者の爆発的な増加と、一方で日本での経過はそうでなかったことの対比。その社会的要因はなんだったと思われますか?

 PCR検査を行った分母数の違い、食堂で最初におしぼりが出す衛生観念やマスクの習慣癖、国民皆保険制度からハグやキスの日常習慣。いろいろ指摘されていますが、私はミサの習慣だと思います。

 ミサとは宗教集会のこと。週1回皆が集まるミサの有り無しは大変なもの。(神も仏もイワシのアタマも信じる)多神教の日本と(古代ユダヤ教を源流とするキリスト教やイスラム教など)一神教の違いは、嗜好と義務みたいなものです。ミサは密閉空間で説教や合唱を行いますし、キリストの血と肉に見立てたワインとパンを共飲共食します。それこそウィルスたちの大聖餐会ですね――宗教的ノンシャランが日本人を救うのかも?

 

 ヨーロッパが揺れています。激震です。数多の哲人を輩出した哲学の大国の人々は何を恐れてパニくっているのでしょうか。彼らは異口同音に語る、「未知なるがゆえに怖い」と。

 「えっ、なんですって?」――あなた方は、既知なる病原菌が未知のものよりも遥かに多いと思っているのですか? 何千年かの人類の医学の歴史はそこまで発展して当然ではないかとでも信じているのですか?

 アレキサンダー・フレミングによるペニシリンの発見は1928年。まだ100年も経っていません。現代日本の公衆衛生学なるものは、戦争に負けて占領されてGHQから教わったもの。西洋近代医学の発展もたかだかこの200年くらいの話ですし、医学界では「ホラーだった」と称される精神外科のロボトミー手術は60年前だったのです。

 

 ほとんど失敗であった膨大な試行錯誤に挑み続けた研究者たちの飽くなき探求心の結果というより、むしろ*セレンディピティ(serendipity)的な発見などの結果が現代医学といって過言ではありません―

 まだ治せない病気の方が圧倒的であり、DNA解析などで遺伝情報は詳細にわかってきた言いつつなお生命の起源さえわかっていません。ヒトは死後どうなるか――誰が知る?

さらにわからないもの――自分の“こころ”。見えていそうに思っているのは微かな欠片、心のほとんどである深層心理はカオスの大海に沈んでいます。どっかの宇宙船がエベレスト山頂の埃粒を掬い取って地球の大地を究明したと言うようなものでしょう。

 

わかっていることが多いと思うことは人間の奢りです。COVID19は図らずも人類に対して挑んでいるのかもしれません。医療科学に対してではなく、人類の叡智総体に対して。


ソクラテスは、自らが無知であることを知ると「無知の知」を誇り、孔子も「これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らざるとなす、これ知るなり」と透徹した知以外の半端な知を排しました。私たちは、未だに何を知らないかを知らないままに無明の闇を歩いているのかもしれません。

「未知なるものの未知」を愧じる(はじる)ことから始めるべき時に来ているように思うのです。


*セレンディピティーふとした偶然によるひらめきが思わぬ幸運を掴み取る能力。