人が評価されるとき、実績や肩書が大きな影響を与えます。
評価は必ずしも他人から行われるとは限らず、自己の評価が自らの可能性を大きく制限していることは少なくないと考えます。
『根拠のない自信』というものを持てる人がいます。
私はかつてはそういうタイプではありませんでした。
何かを目指そう、やりたいと思っても
『自分になんかできるもんか』
『自分にはどだい無理な話なんだ』
と初めからあきらめてしまうことがほとんどでした。
何かを達成できたことがなかったので、無理もない話です。
しかしながら、アメリカの大学を卒業し、医学部に学士編入し、医師として働く中で、次第に自分に自信を持てるようになってきました。
医学部生、医師という肩書は『評価』の上でそれなりの影響力を持ちますが、肩書ばかりが私をかえたわけではありません。
その過程の中には
苦手だった暗記科目の克服
これまでの自分とは大きく異なる分野への挑戦
などが含まれます。
仮に肩書が得られていなくても、私の自分に対する自信はそれなりに変化していたと考えます(周りの評価は大きく異なるでしょうが)。
住宅ローンを抱えるようになりお金に関するあれこれを勉強するようになったこと。
時事問題に興味をもつようになり、新聞ダイジェストを毎月読むのを習慣としたこと
四季報の全銘柄チェックを行うこと
売り上げがゼロながら、本屋を経営する体裁を整えたこと
投稿数は減少しているものの、ブログの記載を続けていること
地域貢献を目的として
消防団に参加したこと
地域の月一回の掃除に参加し続けるようになったこと
など、一つ一つが自分にとっての自信となるのみならず、自己に対する固定観念を打ち壊すことにつながっています。
『誰もやっていない』は自分がやらないことの理由にはなりませんし
『これまでやったことがない、できない』からといって、『これからもできない』とは限りません。
やってみたければ、やってみればいいし
できなければ、なんとかして自分もできるようにならないだろうか
と考えてみることが重要だと考えます。
誰しも何かを始めるときは初心者ですし、プロや専門家になって結果を残す人、トップになる人も最初から『才能がある』と評価された人たちばかりではありません。
周りから『才能あり』と評価されるかどうかよりも
自分がやりたい、やってみたいと思うのか
周りの評価、最終的な成果がどうであろうと、それをやり続けたい・努力を続けたいと思えるかどうか
の方がはるかに重要だと考えます。
加えて、コロナ禍も今の自分に大きな影響を与えました。
コロナ禍を通じて抱くようになったのは『結局、誰もよく分かっていない』ということでした。
もちろん、『分からない』と一言でいっても、人々の間でその知識や経験、思考力や判断力、行動力には大きな差が存在します。
『分からないながらも妥当だと考えられる言動をとる人』もいれば
『どう考えてみても妥当とは思えない言動を繰り返す人』もいます。
この数年、政府のトップ、各種専門家、TVもコメンテーターを見ていて
「この人の言うことはそれなりに信用がおける」と思える人はほぼ皆無となりました。
私は幼少期から、自分に自信がなかったので、あまり断定的な言動はしてきませんでした。
その傾向は当ブログでの私の言葉の選び方にも表れていることにお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。
少なくない→多いではダメなのか!?
〇ではないでしょうか→疑問形?自信ないってこと!?
と思うのは私だけなのでしょうか→またまた自信ないの!?
などなどです。
言葉の使い方はそれほど変わらずとも、私の自己に対する肯定感や自信はかつてとかなり異なっています。それでもこういう言葉の使い方を続けるのは、
「私自身の考え方が間違っているかもしれない」
「様々な選択肢、可能性が考えられる中で、これから自分が選ぶ言動がベストかどうかは分からない」
という考えが常に頭の中に存在するからです。
かといって、自分の言動を選ばなければ、『あれこれ考えた結果、結局何もしない』で終わってしまいます。
常に何も言わない、何もしなければ、それは何も考えないのと同じなのかもしれません。
もちろん全く同じではありません。しかしながら、何の変化も生まないのであれば、それは『ある』といえるのでしょうか。
ちょっと哲学チックになりましたが、要は
『様々な可能性、選択肢を考慮した上で、現状でベストと思える言動を選択する。
しかしそれが正解、絶対とは限らないため、いつも別の選択肢・可能性を念頭に置きながら、必要に応じて軌道修正していく』
という態度を私は重視しているわけです。
ここで大切なのが、『柔軟性』と『優柔不断』の違いです。
『優柔不断』というのは、自分の判断に対する裏付けがないため、根拠も何もないまま、クルクルと言動が変化することと考えます。『中身が何もない』といった感じでしょうか。
一方、『柔軟性』というのは、自分の判断にそれなりの論理性・根拠が存在するため、それが覆られない限りは今の言動を変化させないものの、覆った際にはその状況に応じて言動を最適化するために変容できることだと考えます。なんだかんだ言って『筋が通っている』状態といえるでしょう。
かつての私は優柔不断というよりも、『あれこれ考えた結果、その時点のベストとなる言動を選びきれないため何もできないタイプ』でした。
よく『先行き不透明で、何が正解か分からない現代社会』といった言葉を耳にします。AIなどのテクノロジーの進歩、戦争などの国際情勢、経済など、漠然と近くて遠い未来のような、なんとなく自分に関係のない言葉のような印象をもちがちですが、コロナ禍はまさにそんな状況真っただ中といってよいでしょう。
『これからは問題解決能力がカギだ』的な言葉が後に続きますが、『これから』でななく、『これまでも、そして今でも』大切なのです。しかもその能力を養うべきなのは今教育を受けている子供達だけではなく、今の社会を生きる私達一人一人の誰もがであるはずです。
政治家や専門家、テレビのコメンテーターははたからみると堂々とした態度で歯切れのいい言葉を繰り返します。
かつての私はそういう人達をみて、
「すごいな。あんなにはっきり言動を決めることができて。自分とは知識も能力も異なり、色々なことがわかって、何をすべきかをしっかり導きだすことができるんだな。あんな人達みたいになれたならー」
と感心するばかりでした。
しかしながら、今の私がそういう人達をみて思うのは、
「なんだ。断定的な言動をできるからといって、正しい判断・行動ができているとは限らないんだな。結局、判断力がなく、思慮が浅はかだからこそ、狭い視野の中で決断し、突き進んでいけるんだな。別の可能性も十分考えられるし、十分起こりえる最悪の事態に対する配慮が一切なされていない。あんな奴らに世の中のことをまかせておくわけにはいかない」
ということです。
さて、ここまで自分に対する固定観念を打ち壊し、自分自信に対する『線引きを消す』話をしてきました。
では、線引きは不要なのでしょうか。
私は線引きがプラスになる場合もあると考えます。
それは自分が達成したい目的や結果を最終ラインとして、まずは自分の立ち位置がどの辺にあり、それを達成するためにはどれくらいの距離があって、どの方向に向かって努力するのがよいかという道標になる場合です。
やみくもに努力をして気づいたらたまたま何かを成し遂げていたという場合はそれほど多くないと思われます。
研究者があるとき偶然に何かを発見したという場合はこの状況にあてはまりません。その研究者の方は、すでに『研究』している中でそれなりの知識や経験を有し、何らかの方向性が与えられているからです。
特定の学校に入りたいのであれば、その学校の受験対策をする方がよいですし、弁護士になりたいのであれば司法試験対策をしなければなりません。数学の点数をあげたければ数学の勉強をすべきだし、英語を習得したいのであれば英語の学習に時間をかけるべきです。
すでに対策法が知られているものであれば、それがどういったもので、自分はどれくらいその対策ができているのか、あるいはできていないかを調べるのがよいでしょう。
環境や経済、戦争といった大きな問題であっても、現在までにどれだけのことが知られていて、どういった対策がとられているのか。それを知った上で、自分ならどういうことを考え、どういう対策を行っていくのがよいかを考えるのがよいでしょう。
すでに知られている対策法を無視して、全て独学で行うのは非効率ですし、もったいありません。
自分が陥るであろう失敗や誤りは、大概誰かが既に行っている場合がほとんどです。
自分がそれに陥る前に、それを他人の経験から学ぶことが可能なのであれば、それを学ばない手はないでしょう。
私はこれまで、どちらかというと指導者に恵まれずに来ました。
そんな私の師となりえるものが『本』です。
本に書かれているから正しいとは限りません。
しかしながら、本はかなりの参考文献を集め、かなりの時間をかけて執筆されています。セミナーのように話すのと異なり、紙面に残るため、構成や流れがかなりまとまったものとなっています。執筆者のみならず、校正や編集など、かなりの人間の手が加わるため、隣人や先輩・後輩の話よりは信頼性が高い場合がほとんどです。優れた書籍であれば、本を1冊読むだけで、周囲の優れた何人もの人から何年もかけて学べること以上のものが学べてしまうかもしれません。そして大概の場合そうだと私は考えます。
本だからといって信じ切るのは危険ですが、周囲の意見が本より信頼できるものとも思えません。
もちろん本が全てではありません。今は映像もあれば、インターネットでもそれなりに信頼性の高いコンテンツが探せます。
すぐれた『師』がいるなら、その『師』に学ぶのも効率的でしょう。
ただ、本も含めて『師』も必ずしも正しいとも、全てわかっているとも限らないという視点は常にもつ必要があるというのが私の持論です。
そして当然、私がここで言っているあれこれが正しい、妥当という保証もどこにもないわけです、