進化するブログ『思索の蒼穹』 -9ページ目

進化するブログ『思索の蒼穹』

医学、子育て、教育、教養、経営、経済等、様々な分野を節操なくつまみぐいしながら、皆さんと共有できれば幸いです。

 

 よく

 「センスがあるね」

 だとか

 「全くセンスがないね」

 という言葉を耳にします。

 

 私は人生を通じて、「センスいいね」的な発言を受けた記憶がほとんどありません。

 

 そもそも『センス』とは一体なんなのでしょうか。

 

 最近はご無沙汰だった、コトバンクからの引用を久しぶりにいってみたいと思います。

 

 コトバンク上の精選版 日本国語大辞典によれば

 "〘名〙(sense)人それぞれの内面にある感覚的なもので、感じ方、理解の仕方、あるいは表現の仕方に現われ出るもの。特にちょっとした行為や微妙な事柄についていう。「センスのある服装」「音楽的センス」など。"

 とあります。

 

 個人的な印象でいえば、

 『センス』とは既に得ている知識や経験と比較して、能力的に秀でているかどうかで評価される側面が多いと感じます。

 

 初心者なのになかなかうまい

 経験や知識がないはずなのに、判断や評価が優れている

 

 そういったときに『センスがいい』と言われるというのが私の考えです。

 

 そのため、名人や達人、あるいは目上の人に「センスがいい」という言葉は使われにくいのではないかと考えます。

 

 メ○シは本当にサッカーのセンスがあるよね。

 レオナルド・ダ・○ンチは本当に絵画のセンスがあるよね。

 

 やっぱり、違和感があります。

 

 反対に『センスがない、センスが悪い』というのは

 

 知識や経験に比べて、結果が伴わないあるいは判断や評価がイマイチ

 平均と比べても、判断や評価、結果がイマイチ

 

 といった場合に使われるのではないでしょうか。

 

 自分に対する他人の評価など非常に曖昧で不確かなものですし、

 えらそうに自分を評価する人間が、必ずしも能力があって「センスがよい」とは限りません。

 

 センスや才能ばかりに頼らず、努力やトレーニングによって知識や経験を蓄えるタイプの人は、人をセンスなどで評価しない気がしてなりません。

 

 また、先述したように、センスというのは知識や経験と比較して判断されるものだと考えるため、知識や経験を増やしていけば、すでにセンス云々の領域を遥かに超えてしまうと考えます。

 

 経験を積むには時間がかかりますが、知識をつけるには他人の意見を参考にしたり、読書をするのが役に立ちます。

 

 意見を参考にできそうな適切な人を探すのはなかなか困難ですが、大抵の場合、特定の分野や問題に関してすでに関連の書籍が存在するものです。

 

 それを読むことで、自分では何年、何十年、あるいは人生をかけても気付けなかったような知識を瞬く間(もちろん読書時間はそれなりに要しますが)につけることが可能となります。

 

 これこそが私が読書が重要と考え、他の方々にも読書をおすすめしたい理由の一つです。

 

 

 

 先程少しふれましたが、「センスがいい・悪い」というのはどちらかというと立場が上、あるいは同じ相手から発されることが多いと感じます。

 

 この点において、私は指導者あるいは教育者が「センスがいい」はともかく、「センスが悪い」というセリフをなんの抵抗もなく第三者に発してしまう状況に強い抵抗を感じてしまいます。

 

 センスのある・なしに関わらず、相手のレベルの底上げを図るのが教育者であり指導者であるべきではないでしょうか。

 

 たとえば医師が、患者さんに向かって

 「あなたはなかなか病気がよくならない。病気をよくするセンスがないですね」

 なんて言葉を発したどうなることでしょうか。

 大炎上すること間違い有りません。

 というのも、患者さんの生活習慣の改善が大切なのはもちろんですが、なかなか治らない病気をなんとかよくしようというのが医師のつとめであるべきだからです。

 センス云々だけで言葉を終えてしまうのは、自分の職務をまっとうせず、全ての非を相手に押し付ける無責任な態度ととられても仕方ありません。

 

 指導者や教育者はどうでしょうか。

 

 「お前はセンスがない」なんてしれーっといいながら、ろくな指導もアドバイスもできないような人は、上記のような暴言を吐く医師と何が違うのでしょうか。

 

 そんな心無い発言をする人の言葉で、いつまでも心を痛めていてはこの世の中やってられません。

 

 そんなときは、「こいつ大した指導者じゃないな。人間としての器、ペラッペラだな」

 とむしろ相手のダメさに気づくべきです。

 

 そして誰もまともな評価、教育や指導をしてくれないのであれば、自分で師を探すしかありません。

 

 私にとって、これまでの人生で最大の師は間違いなく『本』といえます。

 それはもちろん、『本の著者の先生お一人お一人』ということになるでしょうが、誰に最も影響を受けたかわからないぐらい、様々ないいとこどりができるところも読書の素晴らしい側面の一つと考えます。

 

 さて、私のようにこれまで『センスがない』と言われ続けた方々。

 

 ご唱和ください。

 

 『センスなんてくそくらえ!!!』

 

 ご唱和ありがとうございました。

 

 これからの私達の前には、無限の可能性を持った新たな世界が広がっていること間違いなしです。

 

 人が評価されるとき、実績や肩書が大きな影響を与えます。

 評価は必ずしも他人から行われるとは限らず、自己の評価が自らの可能性を大きく制限していることは少なくないと考えます。

 

 『根拠のない自信』というものを持てる人がいます。

 

 私はかつてはそういうタイプではありませんでした。

 

 何かを目指そう、やりたいと思っても

 

 『自分になんかできるもんか』

 『自分にはどだい無理な話なんだ』

 と初めからあきらめてしまうことがほとんどでした。

 

 何かを達成できたことがなかったので、無理もない話です。

 

 しかしながら、アメリカの大学を卒業し、医学部に学士編入し、医師として働く中で、次第に自分に自信を持てるようになってきました。

 

 医学部生、医師という肩書は『評価』の上でそれなりの影響力を持ちますが、肩書ばかりが私をかえたわけではありません。

 

 その過程の中には

 苦手だった暗記科目の克服

 これまでの自分とは大きく異なる分野への挑戦

 などが含まれます。

 

 仮に肩書が得られていなくても、私の自分に対する自信はそれなりに変化していたと考えます(周りの評価は大きく異なるでしょうが)。

 

 住宅ローンを抱えるようになりお金に関するあれこれを勉強するようになったこと。

 時事問題に興味をもつようになり、新聞ダイジェストを毎月読むのを習慣としたこと

 四季報の全銘柄チェックを行うこと

 売り上げがゼロながら、本屋を経営する体裁を整えたこと

 投稿数は減少しているものの、ブログの記載を続けていること

 

 地域貢献を目的として

 消防団に参加したこと

 地域の月一回の掃除に参加し続けるようになったこと

 

 など、一つ一つが自分にとっての自信となるのみならず、自己に対する固定観念を打ち壊すことにつながっています。

 

 『誰もやっていない』は自分がやらないことの理由にはなりませんし

 『これまでやったことがない、できない』からといって、『これからもできない』とは限りません。

 

 やってみたければ、やってみればいいし

 できなければ、なんとかして自分もできるようにならないだろうか

 と考えてみることが重要だと考えます。

 

 誰しも何かを始めるときは初心者ですし、プロや専門家になって結果を残す人、トップになる人も最初から『才能がある』と評価された人たちばかりではありません。

 

 周りから『才能あり』と評価されるかどうかよりも

 

 自分がやりたい、やってみたいと思うのか

 周りの評価、最終的な成果がどうであろうと、それをやり続けたい・努力を続けたいと思えるかどうか

 

 の方がはるかに重要だと考えます。

 

 

加えて、コロナ禍も今の自分に大きな影響を与えました。

 

コロナ禍を通じて抱くようになったのは『結局、誰もよく分かっていない』ということでした。

 

もちろん、『分からない』と一言でいっても、人々の間でその知識や経験、思考力や判断力、行動力には大きな差が存在します。

 

『分からないながらも妥当だと考えられる言動をとる人』もいれば

『どう考えてみても妥当とは思えない言動を繰り返す人』もいます。

 

この数年、政府のトップ、各種専門家、TVもコメンテーターを見ていて

「この人の言うことはそれなりに信用がおける」と思える人はほぼ皆無となりました。

 

私は幼少期から、自分に自信がなかったので、あまり断定的な言動はしてきませんでした。

その傾向は当ブログでの私の言葉の選び方にも表れていることにお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。

 

少なくない→多いではダメなのか!?

〇ではないでしょうか→疑問形?自信ないってこと!?

と思うのは私だけなのでしょうか→またまた自信ないの!?

 

などなどです。

 

言葉の使い方はそれほど変わらずとも、私の自己に対する肯定感や自信はかつてとかなり異なっています。それでもこういう言葉の使い方を続けるのは、

「私自身の考え方が間違っているかもしれない」

「様々な選択肢、可能性が考えられる中で、これから自分が選ぶ言動がベストかどうかは分からない」

という考えが常に頭の中に存在するからです。

 

かといって、自分の言動を選ばなければ、『あれこれ考えた結果、結局何もしない』で終わってしまいます。

常に何も言わない、何もしなければ、それは何も考えないのと同じなのかもしれません。

もちろん全く同じではありません。しかしながら、何の変化も生まないのであれば、それは『ある』といえるのでしょうか。

 

ちょっと哲学チックになりましたが、要は

『様々な可能性、選択肢を考慮した上で、現状でベストと思える言動を選択する。

しかしそれが正解、絶対とは限らないため、いつも別の選択肢・可能性を念頭に置きながら、必要に応じて軌道修正していく』

という態度を私は重視しているわけです。

 

ここで大切なのが、『柔軟性』と『優柔不断』の違いです。

『優柔不断』というのは、自分の判断に対する裏付けがないため、根拠も何もないまま、クルクルと言動が変化することと考えます。『中身が何もない』といった感じでしょうか。

一方、『柔軟性』というのは、自分の判断にそれなりの論理性・根拠が存在するため、それが覆られない限りは今の言動を変化させないものの、覆った際にはその状況に応じて言動を最適化するために変容できることだと考えます。なんだかんだ言って『筋が通っている』状態といえるでしょう。

 

かつての私は優柔不断というよりも、『あれこれ考えた結果、その時点のベストとなる言動を選びきれないため何もできないタイプ』でした。

 

よく『先行き不透明で、何が正解か分からない現代社会』といった言葉を耳にします。AIなどのテクノロジーの進歩、戦争などの国際情勢、経済など、漠然と近くて遠い未来のような、なんとなく自分に関係のない言葉のような印象をもちがちですが、コロナ禍はまさにそんな状況真っただ中といってよいでしょう。

 

『これからは問題解決能力がカギだ』的な言葉が後に続きますが、『これから』でななく、『これまでも、そして今でも』大切なのです。しかもその能力を養うべきなのは今教育を受けている子供達だけではなく、今の社会を生きる私達一人一人の誰もがであるはずです。

 

政治家や専門家、テレビのコメンテーターははたからみると堂々とした態度で歯切れのいい言葉を繰り返します。

 

かつての私はそういう人達をみて、

「すごいな。あんなにはっきり言動を決めることができて。自分とは知識も能力も異なり、色々なことがわかって、何をすべきかをしっかり導きだすことができるんだな。あんな人達みたいになれたならー」

と感心するばかりでした。

 

しかしながら、今の私がそういう人達をみて思うのは、

「なんだ。断定的な言動をできるからといって、正しい判断・行動ができているとは限らないんだな。結局、判断力がなく、思慮が浅はかだからこそ、狭い視野の中で決断し、突き進んでいけるんだな。別の可能性も十分考えられるし、十分起こりえる最悪の事態に対する配慮が一切なされていない。あんな奴らに世の中のことをまかせておくわけにはいかない」

ということです。

 

さて、ここまで自分に対する固定観念を打ち壊し、自分自信に対する『線引きを消す』話をしてきました。

 

では、線引きは不要なのでしょうか。

 

私は線引きがプラスになる場合もあると考えます。

 

それは自分が達成したい目的や結果を最終ラインとして、まずは自分の立ち位置がどの辺にあり、それを達成するためにはどれくらいの距離があって、どの方向に向かって努力するのがよいかという道標になる場合です。

 

やみくもに努力をして気づいたらたまたま何かを成し遂げていたという場合はそれほど多くないと思われます。

 

研究者があるとき偶然に何かを発見したという場合はこの状況にあてはまりません。その研究者の方は、すでに『研究』している中でそれなりの知識や経験を有し、何らかの方向性が与えられているからです。

 

特定の学校に入りたいのであれば、その学校の受験対策をする方がよいですし、弁護士になりたいのであれば司法試験対策をしなければなりません。数学の点数をあげたければ数学の勉強をすべきだし、英語を習得したいのであれば英語の学習に時間をかけるべきです。

 

すでに対策法が知られているものであれば、それがどういったもので、自分はどれくらいその対策ができているのか、あるいはできていないかを調べるのがよいでしょう。

 

環境や経済、戦争といった大きな問題であっても、現在までにどれだけのことが知られていて、どういった対策がとられているのか。それを知った上で、自分ならどういうことを考え、どういう対策を行っていくのがよいかを考えるのがよいでしょう。

 

すでに知られている対策法を無視して、全て独学で行うのは非効率ですし、もったいありません。

 

自分が陥るであろう失敗や誤りは、大概誰かが既に行っている場合がほとんどです。

 

自分がそれに陥る前に、それを他人の経験から学ぶことが可能なのであれば、それを学ばない手はないでしょう。

 

私はこれまで、どちらかというと指導者に恵まれずに来ました。

そんな私の師となりえるものが『本』です。

 

本に書かれているから正しいとは限りません。

 

しかしながら、本はかなりの参考文献を集め、かなりの時間をかけて執筆されています。セミナーのように話すのと異なり、紙面に残るため、構成や流れがかなりまとまったものとなっています。執筆者のみならず、校正や編集など、かなりの人間の手が加わるため、隣人や先輩・後輩の話よりは信頼性が高い場合がほとんどです。優れた書籍であれば、本を1冊読むだけで、周囲の優れた何人もの人から何年もかけて学べること以上のものが学べてしまうかもしれません。そして大概の場合そうだと私は考えます。

 

本だからといって信じ切るのは危険ですが、周囲の意見が本より信頼できるものとも思えません。

 

もちろん本が全てではありません。今は映像もあれば、インターネットでもそれなりに信頼性の高いコンテンツが探せます。

 

すぐれた『師』がいるなら、その『師』に学ぶのも効率的でしょう。

 

ただ、本も含めて『師』も必ずしも正しいとも、全てわかっているとも限らないという視点は常にもつ必要があるというのが私の持論です。

 

そして当然、私がここで言っているあれこれが正しい、妥当という保証もどこにもないわけです、

 

 

 

 本日は確定申告のために仕事を休みました。

 職場が変わって半年たっていないので、まだ有給がつかえません。

 なので平日に休みをとるのは非常にレアです。

 

 確定申告はめんどくさかったですが、昨日から本日にかけて、久しぶりにゆっくり過ごせている感じです。

 

 確定申告するために、仕事を休むことで収入が削られるというのはなんとも皮肉なところです。

 日本は超過累進課税を採用しているので、私の収入は平均収入と比較するとそれなりですが、手取りで考えるとかなり目減りします。

 そのうえ各種の控除も受けられなければ、助成金ももらえないのでやりきれません。

 今のところは大病を患っていないのでなんとかやっていけてますが、医療費上限は収入額に応じて異なるので、病気して働けなくなったら途端に破産というシナリオも無きにしも非ずです。

 

 格差の是正ばかりがクローズアップされますが、格差がなくて皆貧しいぐらいだったら、多少格差があっても皆がそれなりに潤っている方がよいと私は考えてしまいます。

 

 ろくに仕事もできない為政者がどんなに多額の税収を集めても、それを効果的に使えなければただのムダ金です。

 それだったら税率を下げて、手元に残った資金を投資や貯蓄に回し資産を形成する。一定額の資産をもつものには年金の給付を行わない方がより効率的な政策になる気がしてなりません。

 

 『成長』があれば『分配』もあってしかるべきですが、『成長なき分配』は皆がジリ貧になるばかりなのではないでしょうか。そんな国家は民主主義でも資本主義でもないでしょう。

 

 税務署に行くと、入場制限がかかっており、整理券を受け取ると入場まで1時間弱。

 少し足をのばして図書館を訪れてみました。

 最近は読書をする余裕がないので、気になった本を手に取るだけで、貸出はしないで図書館を後にしました。

 息子がきっかけで空手の練習を再開するようになり、最近は合気道などの空手以外の武道にも興味が出てきました。

 政治や経済の本も気になりますし、建築や教育関係の書物も気になります。

 ただ、その前に、読み終えたいと考えている医療関係の本が山積みです。

 

 新聞ダイジェストをようやく2月分まで読み終えることができたので、これまでルーティンとしてきたもので現在やり残しているのは四季報チェックのみです。最近は本職でぐったりなので、前回チェックしたのがいつだったのか思い出せないほど(とはいっても発売日が12月末なので、せいぜい1~2か月程度)です。

 来月には次の集がでるので、なんとか今月中には一通りチェックしてしまいたいところです。

 

 日本の個別銘柄への株式投資の成績はさっぱりです。

 私の銘柄購入のタイミング、購入口数の判断がよくないのはもちろんなのですが、それでも株価の動きには不自然さを感じることばかりです。

 某証券会社が相場操縦に対して7億円の罰金、44億円の追徴金を課されたという報道がありましたが、こんなのはほんの氷山の一角な気がしてなりません。

 

 

 新聞ダイジェストを読んでいても、世の中は不自然なことばかりです。

 

 『異次元の少子化対策』などと言われ、各種の子育て支援策が打ち出されています。給付金額が増えれば、そのための財源が必要になります。 

 無制限の国債発行は自国の首をしめることになるため、国債以外の財源確保を検討しなければなりません。

 

 そんな中で、少子化対策のコストは国だけでなく、国民一人一人が広く負担すべきという意見が大きくなっています。

 

 

 この流れに関して、月刊新聞ダイジェスト2月号から気になった記事をいくつかピックアップしてみたいと思います。

 

 12.30産経

 

"「50歳まで未婚」女性の伸び顕著

 価値観の多様化、経済的不安・・・

 

 50歳までに一度も結婚したことのない人の割合が急速に増えている。厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が公表した最新の調査結果によると、令和2年の全国平均は男性が28.5%、女性が17.81% に達した。近年は特に女性の伸びが顕著で、少子化が加速している。"

 

 (後略)

 

 

 12.22 読売

 

 "全て私立 学習費1838万円

 幼稚園から高校 昨年度最高に

 

 幼稚園から高校まで15年間、全て私立校に通った場合の学習費が2021年度、過去最高の1838万円だったことが21日、文部科学省の調査でわかった。全て公立校の学習費も過去最高の574万円だった。文科省は、消費増税などで学習塾代や授業料が上がったためとみている。"

 

 (後略)

 

 

  

 12.7 読売

 

 "「収入の壁」労働力不足招く

 ■パート賃金上昇、社会保険拡大

  パート労働者の「年収の壁」を巡り、人手不足に悩む企業から制度の見直しを求める声が強まっている。会社員の配偶者がいるパートの多くが、税金や社会保険料がかかる年収に達しないよう、働く時間を調整しているからだ。最低賃金の引き上げや社会保険の適用拡大も、働き控えに拍車をかけているとの指摘もある。

 

 この記事の中には次のような文面も見受けられます。

 

 "厚生労働省の2021年の調査によると、年収の壁を意識して働く人は配偶者のいるパート女性全体の6割程度いるとみられる。人材サービス会社ビースタイル(東京)が今年6月に行った調査でも、希望年収は「103万円以内」が38%と最も多く、7割弱が何らかの壁を踏まえて上限を設定していた。"

 

 "働く意識が低いわけではなく、同研究所の意識調査では、配偶者がいて就業調整しているパート女性の約8割が「手取りの減収がないなら現在より多く働きたい」と答えた。"

 

 

 

 結婚・出産しない男女が増えているからといって、それが全て経済的理由だとは言いません。価値観だったり、性的な多様性の結果ということもあるでしょう。

 

 しかしながら、少子化対策において、『今子育てをしている、あるいは出産ようとしている人をいかに社会全体で支えるか』以上に、『今は結婚・出産する意思がない方々で、条件さえ整えば考えを変更しうる人をいかに支えるか』の方がはるかに重要だと私には思えてなりません。

 

 経済的、社会的にとても家庭をもったり、育児をすることなどかなわない。

 経済的余裕が少しでもあれば、家庭をもって子供も欲しいのに。

 

 そんな人たちをいかに支え、出生率を増やすことができるか。

 

 逆にそんな人たちが、すでに出産・育児している方々を支えるために、一層

 『とても家庭なんて持てない、出産・育児なんてなおさらだ』

 という考えを強めてしまえば、本末転倒もいいところなのではないでしょうか。

 

 

 某首相はリスキリングに5年間で1兆円を投じる方針のようですが、不登校・引きこもりの数や、心の病で休職する教員数も過去最多となっている報道もみられます。

 

 『学びなおし』の前に、もっと基本的な『学び』の重要性を認識すべきだと感じるのは私だけなのでしょうか。

 

 少子化が進み、労働人口も減り、日本の国際力低下・円安のために海外からの労働力確保が困難になる可能性も十分に考えられます。

 

 そんな中で、スタートアップを促進させようとする流れも『浅はか』と思えてなりません。

 

 そんな中からGAFAMのような大企業が生まれてくるのを願っているのかもしれませんが、小規模の個人事業主ばかりが増え、一層労働力不足に拍車がかかる可能性を考慮しているのでしょうか。

 

 似たようなコンサルもどきや、シェアオフィスばかり増えても、GDPの底上げにつながるとは到底思えないのは私だけなのでしょうか。

 

 学祭の模擬店のノリに近い『CEO』ばかり増えそうな気がしてなりません。

 

 『○○を××円で仕入れて、□□円で売ったらやばくない?SNSでバズったらおくりびとも夢じゃないんちゃう? あれやろ、横のつながり利用して、クラファンとか助成金利用するんやろ?大事なのは何をやるかより、どう宣伝して、いかに魅力的にみせるかやろ?あかん、絶対成功するわ』

 

 なんて起業家もどきが巷に溢れかえらないことを祈るばかりです。そこに消えていく助成金は、税率が低ければ私たちが自由にできていたお金に他なりません。

 

 こんなことばかり言ってると、敵ばかり増やしてしまいそうですが、私の妄想があながち非現実的なものとも言い切れないところにこの上ない不安を覚えます。

 

 こうやって記載してみると、私が起業家の方々とうまくやっていけないのも無理はなさそうです。

 

 この後もしばらく四季報とにらめっこしながら、私なりの『これからの日本のわたり方』を模索していきたいと思います。

 

 年始を迎えたと思ったら、もう2月。

 年をとるごとに、まずます時間の経過が早く感じられます。

 

 さて、相変わらず忙しい毎日です。

 油断してるとブログをずーっと放置してしまいそうなので、今日は思い指を動かしながらアップしてみたいと思います。

 

 前の職場をやめる頃より私が意識する(いやむしろ無意識にできるようになった!?)ようになったのは

 『あえて空気を読まない』という点です。

 

 これまで私は公私共に

 「ここでこんなことをいうと角がたつ」

 「私なんかがそんなことを言える立場にない」

 などと考えて生きてきました。

 

 しかし人生を通じて考えるようになったのは

 多くの場合『空気を読む』というのは、『その集団の中での力関係を誰もがそれとなく把握して、もめごとをおこさないようにやり過ごす』ということです。

 

 そんな状況では大概、力の弱いもの、数の少ないものの意見や立場はないがしろにされます。

 時には力の強い一部のものの意見だけで全てが決まってしまっている場合すら見受けられます。

 

 結果として、責任の所在が曖昧となりがちです。

 そこに直接的な指示や命令がないことがほとんどだからです。

 一時話題になった『そんた○』という言葉におきかえられそうな状況です。

 

 最近は、おかしいと思ったらそう主張するようになってきました。

 私は人気もなければ、群れることもないので、大概浮いた感じになります。

 しかしながら、自分が間違っておらず、周りがおかしいと思った場合、素直にそう意見するようになってきました。

 

 

 

 人気もなく、仲間もいない私が言っても周りには何も響かなさそうですが、

 私なりの『リーダーシップ』というものも見えてきました。

 

 リーダーの形は一つではないと思います。

 集団をまとめて、よい結果を出せれば、それは『優れたリーダーシップ』といえるでしょう。

 

 周りの意見をまとめ、みなの納得いく方針を打ち出すリーダーシップ

 周りがなんと言おうと、絶対的な決断力と実行力で結果を残すリーダーシップ

 対抗する勢力をことごとく叩き潰し、決して負けないリーダーシップ

 

 どれが正解かは結局、結果論なのかもしれません。

 

 そんな中で私の中で芽生え始めている『リーダーシップ』というのは

 『他人にはまかせてられない。他人はあてにならない。自分が望むことがあるのなら、それを自分自身で実現するしかない』という覚悟に他なりません。

 

 人は一人では生きていけません。

 

 政治、法律、経済。一人では十分な食料を確保することも、生活必需品を準備することすらできません。

 家族、近隣住民、村、市、県、国、地球、宇宙。

 

 周りの状況がおかしいと感じた時、人がとる行動は2つでしょう。

 それを受け入れるか

 それとも

 それを変えようとするか

 

 

 受け入れずに変えようとするなら、自分でその先頭に立つか、先頭にたてる人についていくかのどちらかになるでしょう。

 

 仮に今所属する集団が、『100%正しく、これ以上ないほど素晴らしい組織』だったとしても、『100%正しく、これ以上ない素晴らしい』状態を保つために強力なリーダーシップが必要となります。集団を正しく、素晴らしいものとしてまとめ続けるには膨大なエネルギーが必要です。それは平家物語の冒頭の名文にもみられるように、栄え続けた文明や国家が存在しない歴史をみても明らかでしょう。

 

 では優れたリーダーシップはどこに行けば培えるのでしょうか。

 

 『リーダーシップに関する優れた本を100冊読む』

 『一流の大学や企業に所属する』

 『優れたリーダーについて、その言動を学ぶ』

 『海外の様々な国で生活し、様々な文化について学ぶ』

 

 それらを通してリーダーシップを学べる人も当然いるでしょうが、『リーダーシップを養う上での本質』はそこにはないと私には思えてなりません。

 

 自分の身近にある貧困、いじめ(仲間外れ)、人々を苦しめる各種の障害、自然災害、病気、などなど、見てみぬふりをしている様々な問題を自分ごととして捉え、一つでも少しでも改善していきたいと意識することにあるのだと感じます。

 

 『優れたリーダーシップ』というのは、優れた経歴や経験からだけ得られる『高嶺の花』などではなく、自分の目の前にある問題をそのままにしておかないという『当事者意識』から始まるというのが私の持論です。はるか彼方に目を向けようとするよりも、まずは足元を見るといったところでしょうか。

 

 また、優れたリーダーとして知られる方々の名言として

 『世のため、人のためになることをしなさい』

 『天や神様にみられて恥ずかしくない行動をしなさい』

 といった趣旨のものを数多く目にします。

 

 これらは人々の感謝を狙った打算的なものなのでしょうか?

 ただの綺麗事なのでしょうか?

 それとも、正しいことをしていれば、天や神様が味方をしてくれるからなのでしょうか?

 

 私が思うのは

 『情けは人の為ならず』ということです。

 

 私達は誰もがいつ病気になり、いついじめの対象になり、いつ戦争の被害者になるかわかりません。

 誰かが苦しんでいる状況は、明日は我が身なのかもしれません。

 誰もが暮らしやすい世の中というのは、間違いなく自分にとっても暮らしやす世の中のはずです。

 

 そんな世の中を実現するために『優れたリーダーシップ』が必要となります。

 

 

 かつての私は、『様々な問題を解決できるのは、優れたリーダーシップを持つ他の誰かだ』と考えていました。

 

 しかしながら最近の私は、『様々な問題を解決するには、他の誰かにまかせるのではなく、自分自身が優れたリーダーシップというのを模索しなければならない』という考えをもつようになりました。

 

 先天的に優れたリーダーシップをもったカリスマを当てにするのではなく、当事者意識をもってあれこれ努力をすれば後天的にすぐれたリーダーシップを獲得できるというのが今の私の考え方です。

 

 この考え方が正しいのかどうかはよくわかりません。

 

 正解かどうかはわからない一方で、『絶対違う』といいきれるものでもないでしょう。

 

 もし私が最後の最後まで人気のないままだったとしたら、私のイズムはせめて息子ぐらいには多少継承してもらいたいところです。

 

 さて、この先の私の人生にはどんな未来が待っているのでしょうか。

 

 いつか私が優れたリーダーと称される日は来るのでしょうか。

 それとも、私はパッとしなくても、息子が優れたリーダーに育ってくれる日がやってくるのでしょうか。

 はたまた、私も息子もパッとしないままなのでしょうか。

 そんな時には、私のイズムの継承云々は関係なく、これをご覧になったあなたが優れたリーダーとして世の中をひっぱっていただけると幸いです。

 

 

 

 

 

 早いもので1月も後半に突入です。

 今年もバタバタしているとあっという間に終わってしまいそうです。

 

 さて、新しい職場になり3ヶ月が終わろうとしています。

 相変わらず週末は疲れ果て、2週に一度はオンコール当番(実際は3〜4件程の往診があることがほとんどなので、平日と同じくらい疲れ果てます)があるので、勉強や読書、四季報チェックが一向に進みません。

 

 何やってるんだろと思いつつ、この三ヶ月でできるようになったこともそれなりにあります。

 

 モバイルカルテの使い方にかなり慣れた。

 外出先でもモバイルを使って、各種医療機関への紹介状記載および送信することに慣れた。

 カーボン紙を利用して、コピー機を使わずに各書類の複写をすることに慣れた。

 

 などです。

 

 職場ではオンライン診療は導入されていませんが、職場に限らず、今後はリモートワークやオンラインでのやり取りもこれまでより抵抗なく行えることでしょう。

 

 医学的に学ばなければならない点は多々あるものの、業務については多少間違いがあるものの(事務の方などに指摘され、修正が必要なことがそれなりにあります)概ねこなせているといったところでしょうか。

 

 

 21日が過ぎたので、新聞ダイジェストも1ヶ月遅れだし、ブログの更新もかなり滞っていますが、それでも全く行っていないわけでもありません。

 

 もう少し生活になれてくれば、日々の効率や生産性をもう少し高めることは可能だと考えています。

 

 

 

 

 さて、そんな最近を送っていて感じるのは、

 勉強や成長は、それなりの機関や先生に高いお金を払わなくても十分達成できる

 ということです。

 

 もちろんそれにはそれなりの投資が必要です。

 モバイルに書籍。

 モバイルはクリニックで支給されたものの、使い勝手より安さを重視されるので、正直かなりのストレスです。

 

 紹介先の医療機関の先生とやりとりしている際にフリーズしたり、往診先でネットの接続を再度やり直したりしなければならないことも度々です。

 

 あまりにストレスが多いので、モバイルを自腹で購入しましたが、これは経費にも何にもなりません。

 

 書籍についても、すでに購入したものだけでも治療薬マニュアル(年が変わったのですでに2冊分)、治療薬マニュアル、各種ガイドライン、その他もろもろですでに数万円に達しています。今後さらに購入を予定していますが、これらも経費にもならなければ、病院からの支給もありません。全て自腹です。

 

 ではこれらの費用は何のために必要なのかと言うと、私の日々の仕事の生産性をより高めるためです。上司に命令されたからでも、同僚にアドバイスされたからでもありません。

 これらに費用をかけることで、日々の業務の生産性があがり、かなりのストレス軽減になります。

 

 

 

 

 子どもたちの勉強をみることもありますが、私自身の現在の勉強や成長を、学校教育における視点からながめてみようと思います。

 

 幼稚園・保育園、小学校、中学、高校、大学、大学院、その他各種資格試験

 

 義務教育以降、あるいは義務教育の期間でも私立に入るとなると入試をパスすることが必要です。

 

 時間は有限なので、試験をパスするために必要な能力を、試験の日までに養わなければなりません。

 

 何がどこでどう役立つかはわからないので、私自身は『無駄なことなどない』という立場ではあるものの、『試験に受かる』という点では、『試験とは関係ない無駄なこと』に時間をかけてしまうと、試験に必要なことに時間をかけられなくなってしまいます。結果的に試験をパスすることができなくなります。

 

 有名進学塾や進学校に通うのにはそれなりにメリットがあります。

 

 情報戦で優位にたてる

 優秀な講師陣に指導してもらえる

 学歴などがあがり箔がつく

 人脈が広がる

 整った施設で、他にない経験や研究を行うことができる

 

 メリットは多々ありますが、全ての塾や学校が一律というわけではありません。

 問題解決能力を養うことが得意な施設もあれば、受験問題を解くことに特化した施設もあることでしょう。

 

 かつての私のように、ただなんとなく「いい学校に入って、いい企業に入れば(あるいはいい資格をとれれば)、多分いい人生が送れるだろう」という考えだけだと、『なんだかんだいって頑張ってきたけど、思っていた人生と違う』結果に陥ってしまうかもしれません。

 

 私は小学校5年から塾に通い始め、小学校はそれほどでもありませんでしたが、中学・高校とかなりの時間を受験勉強に費やしました。

 

 結果は

 何年も浪人しても志望校に入れない

 今更、中途半端な大学に入りたくない

 でもこの先浪人生活を続けても志望校に入れそうもない

 

 というどうしようもない流れのまま、高卒で社会に出るという流れになってしまいました。

 

 その後は海外留学やら、医学部学士編入やらを経験し、『自ら目標を定め、その目標を達成するには何が必要で、それを効率よく行うためには何をどのような順序で、どのように行うかという視点が大切』という結論に至りました。

 

 学歴が同じで使える、使えないが問題となる場合、この視点を持っているかどうかが大きな鍵になるような気がしてなりません。

 

 それは学歴があっても、なくても同様です。

 

 自分の現状の中で、何を問題として抽出し、それに対してどのようにアプローチするかで生産性や自分の能力が変化します。

 

 わずかな変化であってもそれが1週間、1ヶ月、1年、5年、10年と経てば大きな変化につながります。

 

 

 

 

 少子化が問題となる中、各大学は生徒集めに必死で、推薦枠で入学を決める生徒の割合が増えているようです。

 

 一方で小学校低学年、場合によってはもっと小さな時期から塾などに通い、勉強に多大な時間をかけている子どもたちも少なからず存在します。

 

 私自身、子供たちの勉強を見ていて気付かされるところが数多くあります。

 

 たとえば算数です。

 

 先述したように、私は小学校5年から塾に通いはじめましたが、中途半端なコースで塾内のトップクラスには属していませんでした。勉強に費やした時間もそれほど多くなく、トップのエリートと自分は『ものが違う』と考えていました。

 

 今、子供たちの勉強を見ていて、かつて私が『応用問題』ととらえ、試験会場でああでもない、こうでもないと必死に考えていた問題の多くが、参考書や問題集の中でパターン化され『○○算』と名付けられていることに度々驚かされます。

 

 私はひどい点数にショックを受けるばかりで、一度経験した模試などを潰す努力を怠ってきました。

 

 実際に重要なのは、『各試験でいい点をとる』ことではなく、『試験などを経て、最終的に理解して解けるようになる』ことです。私の娘にもみられますが、『ひどい点』に打ちのめされ、『見直す気がしなくなる』のです。 

 悪い点数をとったことは事実です。それを嘆いたところで点数は変わりません。大切なのは、何の役にも立たない『嘆きや後悔』ではなく、『次に同じような問題が出た時にしっかり解ける』という成長です。

 

 小学校で結果がでなくても、中学や高校、大学

 大学で結果がでなくとも、人生を通じて『できること、やれること』が増えることが大切です。

 

 

 『学び直し、リスキリング』という名目で、政府や上司から促されても、本人が『学びたい、成長したい』という気持ちがなければ効果はあがりません。

 

 そもそも『学び直し、リスキリング』という前に『基本すらままならない場合』がほとんどなのではないでしょうか。『学び直し』でもなんでもなく、ただの『学び』です。

 

 他人はともかく、少なくとも私の場合はそうです。

 

 ゴールを達成するために何が必要か、それを達成するために最短ルートは何か。

 それを把握する情報は非常に重要です。

 過去問があれば、それらは確実に潰すべきです。というのも、過去問があって他のみんながやっていれば、『自分だけが解けないのに、他のみんなが解ける』という状況が起こり得るからです。

 

 みんなが何をどれだけやっているか。その把握は非常に大切です。

 

 世の中や人生において『みんなやっているから正しい』とは限りません。

 しかし試験においては、『みんなやっていることはとりあえずやっておく』態度がなければ上記の理由で失敗する可能性が高まります。

 

 一方で、『どうすればいいか誰もわからない社会』を生き抜くためには『与えられた課題を黙々とこなす勉強法』は役にたたないのは火を見るより明らかです。

 

 勉強がなぜ大切かというと『解決すべき問題を抽出、分析し、それを解決するための行動を実際に起こす。そしてその実行および結果を踏まえ、試行錯誤しながら現状の改善を目指せる』からではないでしょうか。自分が解決すべきと考える問題は、大概誰かが同様に問題視しています。そしてすでにかなりのことが調べられていて、研究、考察されている場合がほとんどです。ゼロからスタートするより、それらを可能な限り参考にし、そこから更なる一歩を踏み出すのです。

 

 もちろん、『何故勉強するのか』という理由は人それぞれでしょう。

 

 楽しいから勉強する。

 できないことができるようになる。

 試験で自分の成長を視覚化できる。

 

 『問題解決のために勉強すべき』というのは一つの見解でしかありませんが、私の子供たちにはその視点は強く持っていてほしいと思います。

 

 そして、能力や知識を伸ばすためには『遠くにある有名進学塾、一流大学、著明な指導者』は必ずしも必要なく、近所の本屋で購入できる優れた書籍や教材のみでも人は大きく成長できるというのが私の持論です。