私は幼い頃、短気でイライラしやすい性格でした。
といっても怒って誰かを攻撃したり、ものを壊すでもなし。
ただ癇癪を起こしてすぐイライラする。
小学校に上がる頃から空手を始めた自分にとって、力では決して敵わない存在がゴロゴロしていました。イライラばかりしていると反感をかい、必ず対立してしまう。
そうなれば喧嘩にもなるだろうし、場合によっては自分も相手もひどく傷ついてしまうかもしれない。
いつの間にか、イライラをひたすらに抑圧し、ニコニコヘラヘラするようになりました。
それが私の処世術だったわけです。
人見知りをする上に、自己肯定感も低かった自分は、誰かから頼み事をされると多少無理をしてでも安請け合いするようにもなりました。
そうすることで『自分が人のためになっている』、『自分には価値がある』と思いたかったのでしょう。
『いつもニコニコヘラヘラし、他人からの頼み事を安請け合いしていると、幸せになれるか?』
他の方の場合はわかりませんが、少なくとも私の場合はそうではありませんでした。
良くも悪くも『人間は環境に慣れてしまう生き物』です。
安請け合いばかりしていると、
『こいつは頼めばなんでもやってくれる』
『こいつは断らない』
といつの間にか雑用ばかり押し付けられるようになったりします。
元々他人に頼むことに抵抗感のない人、それに加えて頼めることに慣れた人にとっては、
『こちらが貴重な時間を割いて○○してくれている』とは考えず、
『〇〇してくれて当然』と考えるようになりがちです。
初めは『〇〇してもらってすみません』と言われていたのが、
気づけば、こちらがやらないと『え、やってないの?』なんて言われる始末。
たいていの方々は『そんな馬鹿な』と思われるかもしれませんが、安請け合いをしてしまう方々からすると『あるある』なのではないでしょうか。
ここ数年、あまりにも様々な場面で理不尽な状況に置かれることが多く、心身ともに限界を迎えてしまいました。
限界をむかえたため、安請け合いをやめ、理不尽な要求をしてくる人たちに『No』というようになりました。
私の場合、『Noといえないわけ』ではなく、処世術として『Noといわない』できたつもりです。しかし世の中には『Noといえる、いえない』で相手を判断している人間が存在します。そういう人間は、『相手がNoといえない、歯向かわない』と判断すると、どこまでも理不尽な要求をしてきがちです。
そして、そういう人間は得てして歯向かわれることを想定していません。
そういう人間は、強い相手に文句が言えず、弱い人間を選んで攻撃しているような場合がほとんどなのでしょう。
こちらは限界まで追い込まれているので、ひどい剣幕で相手にその理不尽さを追求します。
すると、相手はビクビクオドオドして却ってこちらが弱いものいじめしているような嫌な気持ちになってしまいます。
理不尽な要求をしてくる人間に、Noといい、歯向かうことで、最近は随分と状況が好転してきました。
ただ、それによって寧ろ、ここ最近の私は理不尽な態度をとってくる相手に対して過剰に反応しすぎる嫌いがあります。
声をあらげてくる人間には、それ以上に声をあらげ相手を圧倒する。
睨みつけてくる人間に対しては、目をそらさず睨み返す。
こんな状況では、避けるべき争いすら全て真っ向から立ち向かうことになってしまいます。
また、こちらとしては向こうがそう来るので仕方がないと思っていても、周囲の人からすればえらい剣幕でどなりちらす人間の方が社会的に問題ありと判断されるかもしれません。
得てして、そういうサイレントマジョリティが加害者(本人達は無関係を装っていても、ひどいいじめやパワハラを暗黙の了解とし、場合によっては無意識のうちにその加害者になっている場合すらあります)的な側面を担っている場合も少なくありません。
そうであれば、極限まで追い詰められながら、なんの助けにもならない(むしろ加害者的な側面すらもつ)周囲の人達の評価などどうでもよく、むしろそういう人たちまで責めたくなる気持ちで満たされてしまいそうになります。
本日も空手の練習がありました。
肩に力が入り、攻撃する気が満々だと、体が固くなり反応も動きもおそくなります。
また、攻撃に気持ちが集中しすぎているので、相手の攻撃を受け流すことができません。
自然体でかまえ、攻撃にも守備にも気持ちを傾けすぎない。
調子が良いときほど、頭で考えるよりも先に、自然に相手の攻撃を受け流したり、攻撃にあわせてカウンターをいれることが可能となります。
Noと言わず安請け合いしすぎてきたこれまでの人生。
理不尽な相手に過剰なまでに反応し、『攻撃的である』という印象すら与えかねない最近の私
双方を統合し、自然体でかまえ、NoというべきときはNoといい、理不尽な要求には過剰に反応することなく対応する。
力に力で対抗するような態度ではなく、しなやかに受け流すように接する。
かつての私の処世術は明らかにうまいものではありませんでした。
容易ではありませんが、自然体であらゆる物事にニュートラルで対処できるようになれば、間違いなくこれまでよりもはるかに優れた処世術を身につけることになるでしょう。