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進化するブログ『思索の蒼穹』

医学、子育て、教育、教養、経営、経済等、様々な分野を節操なくつまみぐいしながら、皆さんと共有できれば幸いです。

 

 一時期『神脳』としてテレビで紹介され、2022年の公認会計士試験合格をもって、三大難関資格の全て(司法試験・医師国家試験・公認会計士試験)を一発合格したことが話題の河野玄斗さんによる本書。

 

 

 

 

 

 私が数年前に読書を習慣化させたのは、このブログを始めた時期とも重なりますが、その頃『勉強法』、『読書法』に関する書籍を数多く読んでいました。

 

 『勉強法』に関する書籍となると、著者の多くが有名進学塾の講師あるいは東大生(現役生・OB含む)になります。

 

 ほとんど内容は似たようなもので、

 

 ○まずは細部にこだわらずに全体像を掴む。

 ○最終ゴールまでの期日・習得すべき知識・技術をもとに、逆残的にスケジュールをたてる。

 ○早めに過去問にあたり、試験内容から習得すべき重要ポイント・難易度などを把握する。

 ○どんなに優れた人間でも一度で全てを暗記することは困難で、覚えた内容も使わなければ忘れる。そのため大切なのは覚えるべきポイントを絞り、記憶が忘却される前に覚え直して記憶を強化する(多くの場合、言及されるのは『エビングハウスの忘却曲線』)

 

 などが勉強法『あるある』といえるでしょう。

 

 私が読んだ内容の似通った『勉強本』の中でも、もっとも内容がまとまっていて、読みやすいと思ったのが、

 

 

 でした。

 こちらは、受験対策中心で、英数国理社の各科目の勉強の仕方などにも言及がありました。

 

 今回は司法試験・医師国家試験・公認会計士試験の対策法も記載されてはいますが、約190ページの中の40ページ程です。受験に重点をおいた言及はほとんどなされていませんが、約150ページは河野さんの勉強に対する『イズム』とも呼べるもので、受験や一部の専門試験のみならず、多くの試験に活かせるものです。

 

 その内容の多くはずば抜けて優秀な河野さんしか実行できないようなものではなく、上記に列挙した『勉強法あるある』のようなとてもオーソドックスなものばかりです。

 

 ただし、本書と前書からは、『学問に王道なし』より『学問に王道あり』という印象を受けます。

 

 特に本書のタイトルは『速学』です。

 

 三大試験のような難しい試験でも、いたずらに勉強期間を増やすのではなく、短期間で勉強スケジュールをたてることで、モチベーションや勉強効率を最大化させている様子が伺えます。

 

 レポートの提出などでも期日が半年後のものより、5日後の方が、危機感や集中力をもって今すぐにとりかかりやすいのが通常ではないでしょうか。

 

 また、期限を短くすることで、否が応でも何をどう勉強するのかに優先順位をつけざるをえません。

 

 難関試験を楽にするような『王道』はなくとも、無駄が増えれば増えるほど『王道』からは遠く離れたものになっていきます。

 

 クイズ番組などで河野さんを拝見したとき、『この人は頭の出来が違いすぎて勉強法など参考にできなさそうだ』という印象でしたが、先述したように、その内容は非常にオーソドックスです。

 

 『一度読んだら二度と忘れない』みたいなエピソードは一切なく、『人間は誰もが忘れる』ので、いかに忘れないようにするのか(それは適切なタイミングでの反復や、興味、好奇心などです)に言及されています。

 

 本書で、河野さんはスーパーポジティブだからという記載がありますが、その勉強法はスーパーネガティブな私でも採用可能です(河野さんの勉強法を採用しているというよりも、それほど河野さんの勉強法自体はオーソドックスです。河野さんが他人と違うとすれば、記憶力や地頭の良さもあるのでしょうが、それ以上に『最大限に無駄を省き、全体像をとらえた上で、最も成功率を高められる優先順位を決定できる判断力にある』気がしてなりません。)

 

 『勉強法がわからない方』はもちろん、『難関試験を次々に突破する秘訣を知りたい方』も是非一読を。

 

 

 

 

 

 『高校デビュー』なる言葉があります。

 これは『高校入学をきっかけに、生活の一部を大きく転換させるもの』と言えるでしょう。

 

 私の場合、『高校デビュー』はありませんでしたが、『留学デビュー』的なものを経験しました。

 

 英語での会話が当たり前、外国で生活するのも初めてならば、寮生活も初めて。

 初めてづくしでしたが、留学生活をきっかけに私の人生は大きく変わりました。

 

 日本でも中学・高校・浪人中はかなりの時間を勉強に費やしていましたが、志望校合格はいっこうにかないませんでした。何年も費やした浪人生活は無駄となり、高卒のまま社会に出、その後逃げるように留学。

 

 ところが、留学後は大学卒業半年後に医学部学士編入学を果たし、卒試・国試もおとすことなくこれています。

 

 息子に空手を教えたり、娘に勉強を教えたり。

 

 空手に関しては、これまで2年程、息子と一緒にキッズ初級コースにまじっての練習でした。

 当初、膝の調子が悪い私自身は空手の稽古を再開するつもりはなく、なかなか練習に身が入らない息子のモチベーションを上げるべく同じクラスに参加するようになりました。

 そんな息子も私の参加がなくても一人で稽古に参加できるようになったので、今年の2月から私自身は一般クラスに稽古の場を変えました。

 

 毎週土曜日1時間弱の稽古だったのが、毎週土曜日2時間弱に変わりました。

 これまでは息子のおまけ的な稽古の仕方しかしていませんでしたが、ここ最近は家でも型の練習をしたり、一つ一つの動きについてあれこれ考えたりするようになりました。

 まだ数ヶ月しかたっていませんが、過去2年とは比べ物にならないほど体は動くようになってきました(膝の調子は徐々に悪化傾向にはありますが...)

 

 息子の空手を見ていて気づくのは、攻撃している反対側の手がぶらぶらしていたり、頭の位置が上下に大きく揺れていたり。すり足(スムーズに足をするかのように移動するもの)ではなく、移動の度に床が「バンバン」と音をならすのも気になります。

 今の私なら意識して直そうとするところも、息子に伝えてもなかなか変わりません。

 そしてそれは息子のみならず、幼少期の私も同様でした。師範や先輩に言われても、『疲れる』、『しんどい』、『無理』といつまで経ってもなかなか改善できない部分でした。

 

 娘の勉強に関しても、私自分がわからない・あるいは解き方を知らないところについてはまずはテキストで勉強してから説明することが少なくありません。

 

 特に理科のばねばかりだったり、算数の〇〇算というのはかつての私自身が嫌いだったり、苦手だったところです。

 

 娘にしっかり説明したはずなのに、また数日経つと同じ問題を娘が「教えて」と持ってくることを繰り返しています。

 で、私はどうかというと、多くの場合、記憶にも残っていてテキストに再度戻らずとも説明が可能です。

 

 息子の空手にしろ、娘の勉強にしろ、かつての私が当たり前のようにできたものではありません。

 

 息子や娘に教えながら、かつての自分と対峙している感じがすることが多々あります。

 

 ○ 何事も『基本・基礎』の習得は大切

 ○ 技術や知識は反復により意識せずともできるようになるまで落とし込むことが大切(車の運転や、パソコンのブラインドタッチなどが好例です)

 

 この歳になり、これらの大切さを痛感する機会が多くなりました。特に『基本』が身につき、無意識に行えるようになれば、周囲の状況判断や追加の情報収集など、更に高度な判断や行動につなげる余裕が生まれてきます。

 

 かつての私と、今の私ではどこが違うかを検討してみると

 『目の前にある勉強や練習に対する意義や能動性』が大きく変わったのだと考えます。

 

 

 かつての私にとって、練習や勉強は

 ○親や先生から与えられるもの

 ○より難しいものをとけるようになる前段階のもの

 的な捉え方をしていました。

 

 空手の型の練習にしても、何も考えずに100回行うのと、体重移動・力の抜き差し・頭の上下動の有無・一つ一つの行為の意味などを考えて100回行うのとでは、終わった時点で得られるものは大きく変わってきます。

 

 『他人に言われてとりあえず目の前の課題を終わらせる』のと

 『一つ一つの課題に意味を見出し、丁寧に取り組む』のとでは得られる結果は大きく異なるはずです。

 

 なんてことを考えていると

 

 私の場合は『留学デビュー』だったというより、『様々な経験が複雑に絡み合って、今の自分の価値観や態度に結びついた』という結論に達しました。

 

 『目の前の一つ一つは、100あるいは1000超えた先にあるゴールにおいての些細な一歩』なのではなく

 『目の前の一つ一つが積み上がって、100あるいは1000になる』のです。

 

 適当につみあげたジェンガやドミノと、一つ一つ慎重につみあげたジェンガやドミノでは、できあがりが大きく異なるのと同じではないでしょうか。

 

 

 気づけばゴールデンウイークも最終日。

 私は今、自分の人生のどのあたりまで来ているのでしょうか。

 

 地域貢献できればと、消防団に所属してみたり、地域の清掃活動に参加してみたり。

以前と比べると知人も増えてきましたが、地域に貢献できているかと問われると自信を持って首を縦に触れるものではありません。

 自分の時間を削って、極力子どもたちとも時間を共有するようにはしていますが、プラスの影響を与えられているのでしょうか。

 まあ、功を焦らず、一つ一つ地道に活動を続けることにも意義はあることでしょう。

 

 さて、本日は世の中に存在するシステムの中で、私が『うーん』と思うところを素直に吐露したいと思います。

 

 当事者の方々からすれば、『喧嘩を売っている』と取られかねない話題だったりしますが、決して『喧嘩を売るつもり』はありません。

 微妙な話題のため、避けて通る方が無難なのでしょうが、公的資金が投入されていたり、心の弱みにつけこむような側面もあると感じるので、『苦言を呈したい』だけです。

 そういった活動や価値観そのものを否定するものではありません。

 

 まず一つ目が、ベンチャー企業をサポートする県や市の制度です。

 

 かつて私も半年程、私財を投じて所属してみたことがあります。ところが横の繋がりも広がらなければ、何のメリットも感じられませんでした。

 なんだか仲のいい仲間うちだけワイワイやって、新規参入しても知り合いが増えなければ、そのまま放置されている気がしてなりませんでした。

 こちらがお金を払ってようが、本を寄贈していようが、それなりに納税してようが、こちらの存在にメリットが感じられなければ向こうから歩み寄ってくる様子が感じられませんでした。

 

 数年間は活動内容やプロジェクト内容等についてのプレゼンをオンラインで追っていましたが、あまり存在価値を見出すことはできませんでした。

 別に目新しさもなければ、発展性も感じられません。それによって企業が大きくなるイメージもわかないし、雇用機会や利益を拡大できる印象は受けませんでした。

 もちろん小さなところから試行錯誤を重ねて大きくしていければいいんでしょうが、そもそものスタートの理念や目標が曖昧な上に、提供するサービスや商品に魅力を感じることができませんでした。『パーパス』などを謳ったりするものの、『これによって社会に貢献したい!』というより、『起業したい!』が第一で『起業の大義名分のためにパーパスをとってつけた』ようなものばかりでした。

 

 そもそもそれらを提供・サポートしている先輩起業家にしても、ビジネスの発展性が感じられません。

 日本の超過累進制度の元では、個人の最高税率より法人税の方が低くなります。

 加えて、給与所得で生活している人間には、経費で落とすことはできませんが、彼らになら可能です。

 

 公費を投じてビジネスをサポートするのであれば、それによってどれだけ収益をもたらせているのかも厳密に追求してもらいたいところです。給与所得で働いている人間ばかりが税金を収め、それがわけのわからない起業家の懐を潤すだけにとどまっている構造が存在している気がしてなりません。朝から晩まで、場合によっては休日まで汗水たらして働いて、起業家達は平日昼間にランチをし、オンライン会議をしている次第です。

 私はこれまで仕事のために、娘・息子の入学式・卒業式いずれも参加できたためしがありません(職場の同僚を顧みず、家族ファーストであれば多少はできたのかもしれませんが)。

 

 国も起業を活性化させたいようですが、少子化となり労働力不足も課題となる中、しょぼい起業家ばかりが増えても国は衰えるばかりです。

 

 『なんかよくわかんないけどすごそうなプロジェクト』ではなく、確実に収益を生み出す『妥当なプロジェクト』をこころがけていただきたいところです。

 

 

 

 続いては、心理やスピリチュアルな側面を過剰にビジネスや日常生活に結びつけることへの違和感です。

 

 私自身、アメリカで4年半、心理と生物を専攻しました。学士編入制度を使って医学部編入をしたので、医学部で学んだのも4年半です。同じ期間ですが、日本の医学部より、アメリカ留学時の方が勉強しました。言語にハンデがあったのに加え、バブル崩壊後の学歴も何もないなかで、何かをつかもうと必死だったからです。純粋に1日15時間以上は勉強に費やしていました。

 生物も専攻していたので、心理一本というわけではありませんでしたが、それでも心理学の勉強にはかなりの時間を費やしました。

 四年半が終わり卒業時には『心理』というものがわかったかというと、むしろ『やっぱりよくわからない』という結論に達しました。

 様々な心理現象にそれっぽく説明をつけるのは可能です。でも、その説明が正しい証拠はどこにもありません。

 

 「あなたはいつもニコニコして友達も多いが、どこかで孤独を抱え、イライラしてもそれを外に出すまいと我慢することが多い」

 

 「あなたはいつも一人でいることが多いが、実はもっと友達を増やしたいと思っている」

 

 いくら一人一人の性格が違うといえど、多少は誰にもあてはまりやすい部分というのは存在するものです(一方で、罪悪感や感情といったものを一切抱かない方々も存在するようですが、それも一切抱かないのか、程度問題なのかは判断の難しいところです)。

 

 「雨の日が続いたら、そのうち晴れる」みたいなことが言えても、それで『心理がわかった』などといえるものでしょうか。

 

 

 

 医師になってから、緩和ケアの分野において様々な方々と時間を共有してきました。

 

 私自身、未だに『スピリチュアル』が何なのかよくわかりませんが、かといって緩和ケアの分野で不自由を感じたことは一度もありません。

 

 もちろんその方が特定の宗教や価値観をお持ちでしたらその考えを尊重しますし、それを否定することは決してありません。

 

 だからといって、その方の宗教観・価値観に合わせてこちらの宗教観や価値観までも変化させる必要を感じたことはありません。

 

 宗教や価値観を同じくせずとも、相手の方を尊重すればそれで充分なのではないでしょうか。

 

 

 

 『スピリチュアル』な側面を重視することで人生が豊かになるという考え方をお持ちの方は、そのお考えを尊重します。

 

 ただし、『スピリチュアル』な側面を考慮せずとも、人生は豊かにできるし、幸せにもなれるというのが現状での私の持論です。

 

 『スピリチュアル』な分野に傾倒し、却ってバランスを欠いて辛そうな方をみかけることがあります。

 

 『スピリチュアル』も正しいものから、誤ったものまで様々で、正しい『スピリチュアル』を実践されている方からすれば、『誤ったもの』は明らかな紛い物なのかもしれません。

 

 いずれにしても、人の弱みにつけこむような『誤ったもの』はこの世からなくなっていただきたいものです。

 

 

 場所柄か、仏教的な価値観や瞑想をテーマにした◯◯なんとかといった言葉によく遭遇します。

 

 これもピンきりなんだと思われますが、歴史があるから正しいとは限りません。

 

 また、世俗を離れたがゆえに到達できるものがあります。

 

 特に、世の中の悩みは人間関係によるところが多いのではないでしょうか。ビジネスなど人との関わりを抜きにしては成り立ちません。

 

 パワハラやいじめは、世俗から離れたところに存在するでしょうか?

 

 であれば、世俗を離れたところで成り立ったものを、ビジネスでそのままに活かせることができるのでしょうか?もちろん活かせる部分もあるでしょう。

 

 心をおちつけて冷静になる。

 

 ただ、それだけなら必ずしも◯◯でなくてもよさそうです。

 

 ビルなんとかさんや、スティーブなんとかさんがいいといったからといって正しいとは限りません。

 

 別に◯◯を否定するものでもありませんが、『◯◯』だからいい、素晴らしいみたいな風潮に危険を感じます。

 

 

 改めて申し上げておきます。

 

 私は『喧嘩をうっている』わけではなく、ただ『苦言を呈したい』だけです。

 そのような考え方や存在を否定するものではありません。

 

 まず私にはそのような考え方や存在が『本当』なのかわかりません。

 仮にそれが『本当』だとして、それを扱っている人が本当に『正しい』のかわからないという側面も存在します。

 

 わからないものは肯定も否定もしない

 

 というのが私のスタンスです。

 

 私にとってわからないものが、『当然・当たり前のもの』として扱われているところに恐ろしさを感じるというのが実際のところです。

 

 

 

 

 

 1 日は誰にも等しく24時間。どんなに頑張っても1日が48時間になったりはしません。

 そして今、この時間は過ぎ去ってしまうと二度と取り戻すことはできません。

 

 最近、主に力を入れているのが

 本業、投資、空手

 の三つです。

 

 空手に関しては今年2月までは、息子と一緒に子供初級クラスだったので、自ずとペースが息子に合わせたものになっていました。

 息子はまだ声も小さく、右も左も怪しい状況だったので、昇給審査もすぐにゴーサインを出せる状況にありませんでした。そのため、私自身が覚えるべき型も一つだけでした。

 

 週1回1時間ということもあり、私自身は級が上がった時に息子に教えられるよう、2, 3個の型は練習していたものの、どちらかというと体験コースに毛が生えた程度の練習しかしていませんでした。

 

 2月以降は一般コースに入り、週に1回土曜日に二時間の稽古に参加するようになりました。

 

 一般コースでは、白帯であっても4~5個、場合によってはさらにレベルの高い型も他の色の帯の方々と一緒に練習することがあります。

 

 そのため、これまでと違って、自宅の空いた時間でも空手の自主練習をするようになりました。

 

 

 人生三度目の白帯で改めてゼロから型や移動基本の練習をしていて意識するようになったのは『軸』と『重心』です。

 

 子供の頃、後屈立ち(L字型の形で前足は前向き、後ろ足は前足の向きに対して90度で膝を曲げる立ち方)は前足の体重:後ろ足の体重が4:6だとか、2:8だとか教えられた記憶があります。

 

 しかし最近自分であれこれ試していて、前足にも後ろ足にも5:5ではないかと思うのです。

 

 前屈立ちという立ち方があります。これは肩幅程度に広げた足を前後に伸ばし、上から見たときに自分の親指がかくれる程度まで前足の膝をしっかりと曲げる立ち方です。

 

 この時、重心は骨盤あたりにあり、前後の足への体重は5:5です。後屈立ちは、この前屈立ちから後ろの足の向きを90度開きながら膝を徐々に曲げていくことで、頭の高さを変えることなく移ることが可能となります。

 

 この時、骨盤の位置は後ろ足の膝を曲げることで少し後ろに移動します。重心のかかる骨盤の位置は移動しても、前足・後ろ足にかかる体重自体は変化しないのが理想だと考えます。

 

 仮にこれが後ろ足の方に体重がかかりすぎていれば、前足で蹴りは出せても、前や後ろどちらにも動ける状態にするのは不可能です。

 

 前屈立ちであろうが、後屈立ちであろうが、いつでもあらゆる方向に移動できるように骨盤あたりに重心を置き、前足にも後ろ足にも不均等に体重をかけないようにする。

 

 

 

 なーんてことを考えていると、これは人生や投資にも通じる気がしてきました。

 

 株式投資では『損切り』というものがあります。

 例えば1万円を投資したとします。その1万円で購入した株が8000円になったとしましょう。

 しかしながら、その株価は翌日に1万円に戻るかもしれないし、6千円に下がるかもしれません。

 

 8000円になった時点で2000円の損失ですが、売らない限り2000円の損失は確定しません。

 今日は-2000円でも1週間後に株価が1万5000千円になっていて、そこで株を売れば、『利益確定』といって5000円の利益となります。

 

 一時的な2000円の損失はあってなかったようなものとなるわけです。

 

 ただしすでに2000円下がった株価はさらに下がる可能性もあるので、『うまく損切りを行う』ことも株式投資の重要な戦術の一つと言われてます(もちろん投資家によって考え方は様々ではありますが)。

 

 以前は損失が10%を超えた時点で売却する『10%ルール』を設けていましたが、次第に『もともと割安だと思った株の値段が下がっているんだから、今はもっと割安になっている。そのうち必ず株価が上がるに違いない』と『10%ルール』を破るようになってしまいました。

 

 これが最近は『投資金額に対して何%の利益・もしくは損失になったのか』よりも、『現在の保有している株の総額がいくらで、現在株価が最もあがりそうなのはどれか』を重視するようになりました。

 

 過去(すでに投資した金額)よりも現在(今最も値があがりそうな銘柄はどれなのか)を重視するようになったわけです。

 

 今最も値が上がりそうな銘柄が決まれば、その銘柄の株を購入するために資金が必要になります。そのためには利益が出ていようが、損失が出ていようが、他の銘柄を売ればよいと考えるようになりました。

 

 まだ投資戦略を変えたばかりなので今後のことはなんとも言えませんが、少なくとも現時点では明らかに今までより身軽かつ柔軟に株の取り引きが行えるようになりました。

 

 

 

 過去や後ろ足よりも、現在や重心に重きを置いているのは空手や投資だけではありません。

 

 人生観もしかりです。私は過去にひどいいじめやパワハラを経験してきました。自分に問題がある、自分に非があると考えてきたので必死に耐えてきましたが、相手がいじめやパワハラを認めた時点で却って怒りを抑えきれなくなりました。そこまでされる筋合いはなかったと。

 

 では同じことをやり返してやろうか。これは社会的に認められません。社会的に認められないことを自分はされてきたと考えると、ループにはまってさらに怒り狂ってしまいそうでしたが、それをしてしまうと自分がこれから受けるであろう『罰』の大きさを次第に意識するようになりました。

 

 では裁判でも起こして、とことんまで戦ってやろうか。

 

 これは今でも頭の片隅から消し去れてはいませんが、もしそうしてしまうと必要になる多大な労力や時間を犠牲にすることが果たして自分にとってプラスかどうかということを意識するようになりました。

 

 経済や投資でいうところの『機会損失』です。そうすることで本来別のことに使えていたはずの労力や時間を、いたずらに浪費してしまうかもしれないと考えるようになりました。

 

 

 職業柄、これまで悪性腫瘍等で終末期を迎えている方々と過ごしてきた時間は決して少なくありません。

 

 これ以上の治療は望めず、残された時間も限られたものとなってきている。

 

 私は自分が同じ立場だったらどう考えるだろう。そう自問自答しながらこれまで

 

 「治療は望めず徐々にお体は衰弱していくことでしょう。今とれている食事もとれなくなり、今動かせているお体も動かなくなってくるかもしれません。しかしながら、今この時点で食事もとれれば、動くこともできる。こうして私とお話できているし、ご家族ともお話ができる。

 これまでできていて、今できなくなったことを挙げ始めるときりがないかもしれません。

 でも、今できることも挙げ始めればきりがないはずです。

 旅行したいところがあればしていただきたいし、食べたいものがあれば食べていただきたい。

 何もせず昼寝をするのもいいし、好きな音楽を聴いたり、映画をみるのもいいでしょう。

 明日できなくなるかもしれないことを恐れ、嘆き、今日できることをできないままで過ごしてしまうのは本末転倒です。

 痛みや息苦しさ。つらい症状が出てきたら、私ができる限りのサポートをします。明日のことは明日にまかせて、今日という日を大切にされてください」

 

 といったお話をしてきました。

 

 未来の目標を見据えて逆算的に現在を過ごす。

 過去の失敗や経験を現在に活かす。

 

 未来も過去も大切なことは間違いありません。

 しかしながら一方で、過去や未来に比重が傾きすぎると、現在がないがしろにされがちです。

 

 前にも後ろにも動きやすいバランスを保ちながらも、最も中心となるのが重心です。

 

 『現在=重心として大切にしたい』

 

 それがここ最近の私の人生哲学です。

 

 

 

 

 

 最近TVや、私の情報源として多用しているヤ○ーニュースでも『chat G○T』の文字を見かける機会が増えてきました。

 

 私自身はこのサービスを使用したことはありません。なので、使ったことないアナログ人間の遠吠えに過ぎないのかもしれません。

 ただし、私としては単純にそうとは思えないので、ここで素直な心情を吐露させていただきたいと思います。

 

 最近、各界の著名人やトレンドリーダーの方々もやたらと『chatG○T』の素晴らしさや画期的である点を強調している印象を受けます。

 

 それだけすごいサービスなのかもしれませんが、私が感じる違和感は、以前にクラブ○ウスなる音声SNSが流行した時に感じたものと酷似しています。

 

 実際のサービスの素晴らしさ以上に、すでに使用している人達が『自分達はすでに使い慣れていて、こんなに素晴らしいサービス』と過剰に騒ぎ立てている印象です。

 

 サービスがどうこう以上に、『このサービスをすでに使いまくってる俺・私ってすごいでしょ!?』的な押し付けがひどい感じがしてなりません。

 

 エーアイ、エーアイ言われていますが、実際のAIというのは人工知能であり、人間の知能と同程度の状況を指し示すものだと思われます。現在巷で使われている『エーアイ』という言葉は、実際は『AI』そのものではなく、『AI』を確立する過程の中で用いられている『AI技術』を指すものと思われます。

 

 なんだか、『エーアイ』という言葉を使えば、手放しで『すげー』、『やべー』ように聞こえてしまいます。場合によっては人間の知能よりも優れたもののようにすら言及されている印象すらありますが、実際は必ずしもそうとは限りません。

 

 開発者のプログラム上のアルゴリズムにしたがって、『エーアイ』が検索頻度の多いもの、検索上位にひっかかるものなどをとりまとめ、それっぽい答えを導き出しているに過ぎません。

 

 そのニュースソースがどこから来たかも不明瞭ならば、その答えが正解かどうかも不確かなわけです。

 

 つまり現時点で『chatG○T』が導き出す解答は、正解とは限らず、『それっぽくまとめられた回答』に過ぎません。

 

 それが正しいかどうかを判断する力は絶対的に必要なはずです。

 

 『Ok、グー○ル』や『ア○クサ』なども似たような存在でしょう。

 

 言語構成能力などで機能が格段にアップしたのかもしれませんが、急に『chatG○T』の出現によってホワイトカラーの何割もが仕事を失うとは到底思えません。

 

 失うとすれば、むしろそれだけ判断力や柔軟な思考能力を不要とする仕事、情報が正しいかどうかすらどうでもよい仕事がいかに多いかということの証明と言ってもよいのかもしれません。

 

 まあ、『chatG○T』の信頼性は一旦おいときましょう。仮に、『chatG○T』が100%正解を答えてくれるとしましょう。

 

 では、なんでも知っていて、優れた文章をすぐさま準備し、どんな相談にもすぐに答えを出してくれるマネージャーや秘書がいれば、社○や、政○家は不要ということになるでしょうか?

 

 まあ、不要という答えになってしまえば、ここから話を続けることはできないんですが、まあ、要、不要どちらか。

 

 その答えは、あなた次第です。

 

 といったところにしておきましょう。

 

 しかもその優れたマネージャーあるいは秘書はオフラインやバッテリー切れではアクセス不可能になってしまうわけです。

 

 

 

 あと、これを教育で使うかどうかという点にも言及されているようですが、

 

 その回答に信頼度が乏しい現状では、教育そのものにおいてはまだ利用すべきではないでしょう。

 ましてや、『chatG○T』が文章を作ってくれるので、文を書かなくてよくなるという考えは危険きわまりないでしょう。

 

 とはいっても、『教育において利用しない』というのと、『教育においてそれがどういったものかを教え、どういった利用をするのがよいかを検討する』ことは両立可能であり、そうすべきでしょう。

 使える技術は、メリット・デメリット両面を理解した上で、効果的に使うべきですが、頼れる技術があるから、自分は一切できなくていいというものでもありません。

 

 外食があるから、料理しなくていい。

 

 自動運転があるから、車が運転できなくていい。

 

 経済的理由で外食できなくなる場合もあれば、食事を作ってくれる人が誰もいない状況におちいるやもしれません。

 

 自動運転が完璧で安全ならまだしも、安全性や技術に不安が残る場合、いざという時に自動運転を解除し、自分で運転を行える方がより安心・安全なのではないでしょうか。

 

 『chatG○T』は強力なツールであることは間違いないのでしょうが、使う・使わない以上に、使うとすればどのように使うのがよいのかという点の方が遥かに重要だと考えます。

 

 教育の場で使うとすれば、教育者の能力にも大きく左右されることでしょう。何歳から使えばよいかということ以上に、相手の年齢に応じてどのように有効活用できるか、メリット・デメリット双方をいかにバランスよく伝えることができるか。

 

 酒は飲んでも飲まれるな。

 

 エーアイは使っても、使われるな

 

 といったところでしょうか。

 

 さて『chatG○T』は『クラブ○ウス』とは異なるのか否か。

 

 半年後、1年後はどうなっていることでしょう。