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進化するブログ『思索の蒼穹』

医学、子育て、教育、教養、経営、経済等、様々な分野を節操なくつまみぐいしながら、皆さんと共有できれば幸いです。

 

 理系・文系関係なく、日々の生活の中で『検証』しよとする態度が必要だと考えます。

 

 意図していなくても、自分の認識の誤りが『ウソ』になってしまう場合があります。

 自分の場合、認識が間違っているか否かを別にすれば『ウソ』をついているのか、『ホント』のことをいっているのか判断が可能ですが、(無意識や、思い込み等を考慮し、厳密に考えれば必ずしもそうとは限りませんが、ややこしくなるので今はおいときます)、他人の場合は困難です。

 

 家族や親友だからといって『ウソ』をつかれない保障はどこにもありません。

 赤の他人となるとなおさらです。

 

 TVのコメントなどを見ても、矛盾ばかりで驚きます。

 

 そんな中で、可能な限り、検証できるものは検証する、データがあるものはそのデータそのものに目を通す態度が必要です。

 

 また、一つのトピックに限ってみても、その人の言動がどれくらい信頼できるかを判断できる場合があります。

 

 例えば私の場合、

 『新型コロナ感染症にマスクは無意味』と断言する人はまず信用しなくなりました。

 実際は、『新型コロナ感染症にマスクは無意味』というだけですぐに信用しないというわけではありません。

 厚労省のホームページにも記載されているし、日本のみならず米国の研究機関などでも、『新型コロナウイルスの感染に関して、マスクの着用で感染率が抑えられる』というデータが出ています。

 

 このデータを持ち出して、『このデータはここに不備があるから、このデータは信頼できない。なので新型コロナウイルスにマスクは無意味だ』という人なら信頼できるかもしれません。

 

 しかし、これまで私が知る限り『新型コロナ感染症にマスクは無意味』という人は全てが、何の根拠もなく、『新型コロナ感染症にマスクは無意味』と断言しています。マスクに意味があるというデータは完全無視です。

 

 『検証』については、適宜見直す必要があります。

 

 ウイルスというものは変異を続けるものです。それはコロナウイルスに限らず、インフルエンザ、アデノ、ノロ、ロタ、全てのウイルスにいえることです。

 

 風邪というのは、発熱、のどや鼻の痛み、咳といった、上気道に起こるウイルス性感染症が疑われるものの総称です。従来のコロナウイルス感染症もわざわざ検査などされずに、風邪として扱われていました。

 それが2020年になり、致死率、重症化率が一般の風邪や季節性インフルエンザより高くなったため、『新型コロナウイルス感染症』として扱われ、マスク着用等が徹底されてきたわけです。

 

 新型コロナも、いずれはまた『風邪』の一種としてそれほど意識されない時が来ることが予想されます。実際、2000年代前半に世界で問題となったSARSも原因はコロナウイルスでしたが、少なくとも2020年以前は、日本においてコロナウイルスはほとんど話題になることはありませんでした。

 

各治療や感染対策には、メリット・デメリットが存在します。マスク着用でいえば熱中症リスクや、子どもの表情認識への影響などです。そのため、マスク着用の是非についても、その都度検証が必要となります。

 

 重症化・致死率ともに従来の風邪や季節性インフルエンザと変わらないのであれば、マスク着用が今ほど推奨されない時期は来てしかるべきです。

 

 その際も、大切なのは、『その時にマスク着用が必要なくなったからといって、それ以前にマスク着用が不要だったわけではない』ということです。

 

 いつかマスク着用が不要になった場合に、「ほら、マスクは意味がなかったんだ!」という方々が多かれ少なかれ出現することが予想されます。

 こういう方々はまず信用できないと私は考えます。

 

 その人自体が全く信用できないということではありません。その人がいい人、悪い人とも無関係です。少なくとも、『その人はそれほどの根拠がなくても、断定的な判断を下す』と判断できると私は考えます。そのため、いい人、悪い人関係なく、「この人の言っていることは果たして正しいのか」をより一層注意してかかる必要があると考えるわけです。

 

 『ある』という場合にはその存在を示せばよいのですが、『ない』という証明は非常に困難です。

 

 『ある』というデータが示された場合、『ない』というためには無条件に『ない』と言い張るだけでなく、『ある』とされたデータがあてにならないことを証明する必要があります。

 つまり『ある』というデータに対する反証が必要となるわけです。

 

 マスク着用群と、非着用群でどれくらい感染率の違いがあったのか。

 もしそのデータが誤りとするのであれば、その報告のどこに問題があり、どこで結論が否定されるべきなのか。これをしっかりと踏まえ反証するべきです。

 

 「マスク?そんなの意味ねーよ。ばーか」

 といった発言は、何も考えていない子どもにだってできます。

 キチンと考えていれば、子供ですらもう少しましな発言になるはずです。

 

 

 日本の経済は破綻しない

 原子力発電を運営する上で、危険はない

 この投資では、元本が保証されているので心配ない

 

 それぞれに対する懸念および、その懸念を裏付けるデータがある以上、それぞれを検証・反証することで懸念が不要であることを示す必要があります。

 

 

 「まさか騙されていたなんて」

 第三者からすると、「どうしてそんなことで騙されるんだ」と思うほど、ありえない騙され方をしている詐欺事件なども少なくありません。

 

 だます方が悪いのはもちろんなのですが、だまされる方にもう少し『検証』する態度があればなくせる被害は多くあると考えます。

 

 

 『信じる』という行為自体は悪いものではありませんが、私は『信じる』場合には注意が必要だと考えます。

 

 『信じる』場合、『検証』を全く行わず、無条件にすがりつくことが起こり得るからです。

 

 浮気、詐欺、ウソ

 

 第三者から見ると、見え透いたものでも、その方からすると何も見えていないような状況に遭遇することがあります。

 

 そんな時によく耳にするのが『私は相手を信じているから』という言葉だったりします。

 

 念を押しておきますが、私は『信じることが悪い』といっているわけではありません。

 

 『信じる』ことは、『無条件に相手を信頼する』ことをも可能にしてしまうので、相手によってはだまされたり、裏切られたりするリスクが高まりやすいというのが私の考えです。

 

 

 

 

 信頼という点に関していえば、

 『私は自分・身内に甘く、他人に厳しい人』も信頼しません。

 

 自分・身内に甘く、他人にも甘い人

 自分・身内に厳しく、他人にも厳しい人

 は、少なくともその時点で矛盾ははらんでいないので、それぞれに判断します。

 

 しかしながら

 『自分・身内に甘いのに、他人には厳しい人』を私は信頼しません。

 原則として、私はステレオタイプにならないように、一人一人、信頼できるかどうかを判断するにはするのですが、今までの人生で、『自分・身内に甘く、他人には厳しい人』で信頼できる人にお会いしたことがありません。

 

 こういう方の場合、必ず主張に矛盾が生じます。

 

 他人には「〇〇しちゃいけない」というのに、自分や身内は平気で「〇〇」していたりします。

 

 魔が差すということもあるでしょう。その場合、自分の矛盾が明るみにでた時点で、自分の矛盾および非を認め、素直に謝罪すべきです。

 

 「〇〇しちゃいけない」のであれば、自分や身内もしちゃいけないし、

 「〇〇していい」のであれば、他人もしていいはずです。

 

 自分や身内に甘くしていると、その時はよくても、中長期でみると必ず弊害が生まれてきます。

 

 まず、言動に矛盾が生じるので、確実に信頼は失っていきます。

 また、しちゃいけないことをしているので、ささいなことがいずれ大きな問題に発展していくことでしょう。

 

 組織においては、

 メンバーがリーダーのいうことを聞かなくなる

 ルールが守られなくなる

 甘めにみられる幹部や身内の態度が大きくなり、不正行為が深刻化しやすい

 

 という弊害が起こりやすいのは想像に難くありません。

 

 

 検証すべきは他人や社会だけでなく、自分自身もです。

 

 特にリーダーや親、上司といった、指導を行う立場にあるものは、『検証』する態度が必須だと考えます。

 

 

 危機意識とネガティブ思考は似て非なるものです。

 

 災害が起こったらどうしよう

 テストに落ちたらどうしよう

 職を失ったらどうしよう

 

 ネガティブ思考は、ただただ自信のなさや不安にうちひしがれ、何もできないでいることです。

 

 一方の危機意識は、実際に問題が起こる前に『危険なところが存在しないかを検討し、それにどうたいった対策をとるか』と準備をするものともいえます。

 

 十分に準備していても災害が起こることもあれば、試験に落ちることもあります。

 

 ただ、準備が不十分であれば、その危険性は一層高まります。

 

 『問題が起こらないのが不思議なほど、危険な状況が放置されている場合』すら見受けられることもあります。

 

 俗にいう『起こるべくして起こる』ものです。

 

 十分に検討を加え、十分に対策をうった後に、過剰に不安になるのは得策ではありません。

 もちろん折にふれ、改善すべき点がないかを検討することは重要です。

 

 ただし、それ以上特に改善すべき点も、とれる対応策もないのに、そのことばかりにとらわれ過ぎていては、他のことに取り掛かれません。

 

 危機意識はしっかり持ちつつ、過剰なネガティブ思考には陥らない。

 

 何事もバランスが重要です。

 

 

 

 

 

 さて、ここから、更に自論を発展させようと思います。

 私が思うに、『ネガティブ思考』を持つ方には、本来『危機意識が高い』方が多いのではないでしょうか。

 

 世の中には、突き抜けたぐらいポジティブな方が存在します。

 不安が全くないように見える反面、そういう方というのは危機意識も欠如している印象を受ける場合がほとんどです。

 

 自己肯定感の低さや、ネガティブな感情にとらわれすぎるあまり、『危機意識の高さ』を程よく保てないところに問題がある気がします。

 

 重要なのはネガティブな感情全てを否定するのではなく、そのネガティブな感情を軽減させるために何をすべき、あるいは何ができるのか。

 

 やるべきことをやったら、後はなるようにしかなりません。 

 その時にまでネガティブな感情におしつぶされているのは得策ではありません。

 もうやるべきことはやっているので、それ以上やれることはないからです。

 

 と自分に言い聞かせながら、本日もスタートです。

 

 

 

 私は2000年から2004年にかけて、アメリカの大学で心理学を学びました。

 卒後すでに20年が経過しようとしています。その後のアップデートはほぼ皆無です。

 精神的な側面に関しての記載は、あくまで私の精神状況に対する個人的見解で、医学的な裏付けがあるものではありません。

 

 そんなんだったら記載するなというご指摘を受けるかもしれませんが、私の考え方や方法が上手くハマる方もいらっしゃるかと思い、記載します。なので、合わなそうと思った瞬間に無視していただければ幸いです。

 

 私個人としては、古くなったとはいえ、過去にそれなりに学びに費やした時間や試行錯誤、そして様々な知識を集約して、『全くのでたらめ』にならないように配慮しているつもりではあります。

 

 

 

 『過ぎたるは猶及ばざるが如し』という言葉があります。

 過剰すぎるのは、足りないのと同じように、よくない

 といった意味です。

 

 不安が強すぎるのはまさにこの状況だと考えます。

 

 不安がないと困ります。

 

 持っているお金以上に、浪費をしてしまったり

 危険をかえりみず、高いところに上ったり、危険物に近づいたりという行動を繰り返したり。

 

 不安というのは、本来、感情の持ち主に『事前に危険を喚起し、注意深さを促す』ものだと考えます。

 

 とはいえ、不安が強すぎると、判断や行動できなくなるばかりか、頭痛や吐き気といった身体症状まで引き起こされることがあります。

 

 

 精神科のドクターに相談すると

 「それは辛いですよね。もっと楽にかんがえていいんですよ」

 だとか

 「お薬の助けを借りて、うまくつきあっていきましょう」

 といった言葉を掛けられるかもしれません。

 

 他の方のケースはわかりませんが、私の場合はそうでした。

 

 私の場合は

 「不器用なんですね。そんな考え方だと世の中わたっていけませんよ」

 だとか

 「もっと他人に頼った方がいいですよ」

 というお話がありました。

 

 ニコニコしながら、はいはい聞いていましたが

 内心では

 「あんたにそんなこと言われる筋合いないんだよ。これが自分の性格なんだし、不安を抱えてどうしようもない人間にそんな言葉をかける人間のアドバイスなんか心に届きやしないんだよ」

 とか思っていました。

 

 薬を飲み始めると車での通勤の妨げにもなりますし、思考活動にも影響を及ぼしそうです。不安はなくなったけど、今みたいにあれこれ考えられなくなったというのも困ります。

 

 

 精神科受診は何の役にもたたず、かといって、以前の『精神的に何の問題もない』自分にも戻れない私に対する、私自身が出した処方箋は

 

 『不安を打ち消す、別の感情あるいは経験の投入』です。

 

 他人のことはわかりませんが、私自身のことで話すと

 『私は同時に二つのことを考えることは出来ません』

 

 二つのことを考える場合、順序を決めて一つずつ考えます。

 一方が終わると、もう一方といった具合に。

 二つのことを同時に分析できる能力は私にはありません。

 

 両方を一度に処理しようとすると、結局どっちつかずで何も考えていない状況になります。

 あるいは、優勢な一方が頭の中を支配するかのどちらかです。

 

 

 これに目をつけ、私は不安が強い時には、本を読んだり、別のことを考えるようにしています。

 不安が強い時に、その状況に身を任せるのは私の場合はうまくいきません。

 パニック発作のようなより大きな波に呑み込まれることがほとんどです。

 本を読み始めても、集中できないことも少なくありません。でも、集中できないことを悩む必要はありません。たとえ本の内容が入って来なくても、不安を紛らわせることができれば、役目は十分に果たされているともいえます。そのうち本に集中できるようになれば、不安は自然と消えてなくなります。

 

 自分の身を自分の拳でうちつけ、『気合』を入れるのを試みる場合もありましたが、内出血まみれの体を着替えの際に子供たちにみられ、説明にこまりました。

 

 

 あと、しっかりと眠れることも大切です。

 脳は必ずREM(Rapid Eye Movement)睡眠(脳は活発に動きながら、身体は完全に弛緩した睡眠状態。金縛りはこのREM睡眠で説明がつくという論文を見たことがあります)。を必要とするといわれています(これも20年前の知識なんで、今違ってたらすみません)。

 

 通常、睡眠のサイクルは90分程度で、1サイクル目、2サイクル目と繰り返す上で、90分サイクルは次第に短くなっていくといわれています。

 

 記憶を整理したり、脳の正常な機能を果たす上で、REM睡眠は必須と学びました。

 通常、このREM睡眠は90分サイクルの終わりの方で起こるといわれています。ところが、長時間徹夜などで睡眠を障害されると、睡眠の最初にREM睡眠が起こるようです。

 

 それほど、睡眠とくにREM睡眠は脳の正常な機能に重要とされています。

 

 

 不安な上に、睡眠の質すら障害されることは、脳の正常な機能にとって二重の負担だと考えます。不安症状に対して処方される薬は、睡眠薬としての効能をもつものが少なくありませんが、良質の睡眠をとれるだけでも、不安症状に対する効果はかなりあると私は考えます。

 

 

 なので、私は不安になる時ほど、「不安以外のことを考え、身体を動かす」ようにしています。現在の私にとって、『空手の型の練習を行う』のがこの状況にぴったりです。

 身体も疲れるので、以前より圧倒的にぐっすり眠れることが多くなりました。

 

 別に空手でなくても、ジョギングでもヨガでも、水泳でもなんでもいいと思います。

 もうすっかり聞かなくなりましたが、ビリーズブートキャンプなんか最適ではないでしょうか。

 

 全部やらなくても5分、10分でぐったりです。

 

 

 というのが、私の独断と偏見による私自身への『処方箋』です。

 最初にお断りしたように、一般的におススメできるものではありません。

 

 精神的な症状が強い場合には、きちんとした医療機関に相談するのが第一です。

 

 しかしながら、自分にあう病院あるいはドクターが見つからない。

 病院なんかには絶対かかりたくない

 

 という方がいらっしゃれば、上記のことも少し参考にしてみてください。

 

 でも

 

 合わない場合は、即中止!

 

 でお願いします。

 

 

 人間を点数化するのはあまりいいことではないでしょう。

 

 点数化にはいくつかのメリットがあります。

 

 数値化することで、現状の達成度を可視化することができる。

 目標値に到達するためには、何をどうすればよいかの対策をたてやすくなる

 などです。

 

 しかし一方で弊害も生じやすいものです。

 

 点数化によって人の優劣がつけられてしまう。

 目標値に達成できていないことが、『低能』や『無能』といったレッテルにつながってしまう。

 などです。

 

 メリットだけが際立つのであれば、ヒトの点数化は必ずしも悪いものとは思いませんが、世の中ではデメリットの側面が際立ちやすい印象です。

 

 具体的に数値化されなくても、無意識のうちに人間に優劣をつけ、その序列で態度を変える人があまりに多い印象を私個人は持っています。

 

 

 

 なので、子供たちを点数化することはなく、ヒトに優劣をつけるような言動を子供たちが行った場合にはそれはダメだと諭すようにしてきました。

 

 娘も息子も、妻には「ママ大好きだよ」と日常的に口にするのですが、「パパ大好きだよ」とはなかなかいってくれません。

 

 たまに言ってくれたり、「パパ大好き」と書いたメッセージカードなどをくれたりするので、嫌われていないとはおもいつつ、こちらのタイミングで「パパ大好き」と言ってもらいたい時があります。

 

 恋愛もそうですが、いくら好きな気持ちがあっても、「好きって言って」などと強要していると、好きな気持ちも覚めてしまいがちでしょう。

 

 なので、『満点』という答えを期待して「パパ何点?」と言ってしまうことがありました。

 

 先日、息子にその質問をしていたら、少し離れたところに座っていた娘から

 「お父さん、そういう質問どうかと思うよ」

 と指摘を受けました。

 

 やりとりを見ていた妻は大爆笑。

 

 私は苦笑しながら

 「○○(娘の名前)の言う通りだね。人を点数化するのはよくないね。でもママのことはいつも大好きっていうのにパパのことは言ってくれないから、100点て言ってほしくてね」

 と言うと

 

 「そんなこと言ってたら、100点でも0点だね」と娘。

 

 ぐうの音も出ませんでした。

 

 

 当ブログに足を運んでいただいた方、いいねをつけていただいた方、いつもありがとうございます。

 少しでも数字があれば、ブログを書いている意義が感じられるようでとてもはげみになります。

 

 当ブログでは、Pickを利用しているので、経由してアマゾンで購入していただいた場合にはポイントが加算されます。ありがたいことに、時折ポイントをいただけることがありますが、わずかなものです。

 

 書店『思索の蒼穹』としてもこれまでの売上は0のままです。

 

 ブログにしろ、書店にしろ、収益に関してはあまり期待していません。

 

 世の中に対して私が思うことを記載することで、少しでも私の考えがどなたかに伝わればというのが当ブログの主な目的です。

 

 私が自分自身で『こうあるべき』、『こうしよう』と思う所を記載しているのですが、第三者の方からしてみれば堅苦しく、説教じみているであろうことも自覚しています。

 

 想いがあふれて、自然とタイプが進む場合はまだいいのですが、今日は何を書こうかと悩むような場合は、『書くことも思いつかないのに、無理に書こうとすることに何の意味があるんだ』と心が折れそうなこともしばしばです。

 おそらく1日でもそういうことを許容してしまえば、ブログの亢進そのものへのモチベーションが低下しそうで、無理矢理でも、基本的には1日1回の更新を心がけています。

 

 実際、以前はn〇te、シミルボ〇なんかにも定期的にアップをしていましたが、最近はアップどころかページをチェックする頻度すら激減しています。

 

 なので、当ブログに関しては『仮に読んでいただける方が一人もいなくても、いつか子供たちが物の心付いた時に読んでもらえたら』という気持ちでアップしています。

 

 とはいえ、訪問していただける方、いいねの数が多い方が各記事を書いた甲斐を感じられるのは事実です。

 

 『いつか子供たちが...』というのは、モチベーションを保つためのなぐさめ的な感があることも否めません。

 

 

 さて、そんな胸中でいたところ、ヤフ〇のサイトから、ブログで5億円稼いだという方の記事へと飛ぶ機会がありました。

 

 その中で"記事数が100を超えるも、最初の3年間は収益ゼロ"、"5年目にして月収10万円を達成する。"

 という記載をみかけました。

 

 当ブログは3年が経過し、アップした記事数も1000を越えました。収益は今後もずーっとゼロのままでもかまいませんが、さすがに5年、10年経過しても、フォロワー数やアクセス数が今のままというのは寂しいものがあります。

 

 何年も人気が出なくても、必ずしも『ブログ自体に価値がない』というわけではないと思えるような気がして(かといって、『当ブログに価値がある』という保証もないことは私自身百も承知です)とてもはげみになりました。

 

 妻や母からは、私のブログを読みもしないのに、『もっと文を短くして、読みやすさに配慮しないと誰も読まないよ』と指摘を受けます。

 

 確かに、読みやすさに関してはもう少し配慮できる点はあるでしょう。

 ただし内容に関しては、読み手にあわせるよりも私の書きたいことを最優先して、今後もアップを細々と続けていこうと思います。

 

 

 

 

 ちなみに、ハッシュタグに『いいね』をいれようとしたら、『いいね歓迎』やら、『いいね募集』やら、『いいね大歓迎』というものが目につきました。

 

 この際、全部入れてしまえ!