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進化するブログ『思索の蒼穹』

医学、子育て、教育、教養、経営、経済等、様々な分野を節操なくつまみぐいしながら、皆さんと共有できれば幸いです。

 

 生誕100年という節目でもあり、水木しげる先生に関連する商品を目にする機会が増えています。

 

 昔自分が夢中で読んでいた本を、子供たちも読んでいるのを眺めるのは感慨深いものがあります。

 

 息子が空手を始めたのをきっかけに、私も空手を再開しましたが、初心者の頃の気持ちを完全に共有するのは難しいところがあります。

 

 ところが、不思議なことに、本を読むと、初めて読んだ子供の頃の気持ちがよみがえってきたりします。

 

 歴史とともに、科学技術や人類の知識も大きく変化してきました。

 

 現在、人類は新型コロナウイルスやサル痘といった感染症の脅威に直面していますが、かつて病原菌の特定も困難で祈るしかなかった時代も存在しました。

 

 私の子どもの頃は、町の灯りもとぼしく、夜になると真っ暗闇で、虫や鳥の声が聞こえてくる生活が当たり前でした。

 更に時代をさかのぼれば、日没とともに一日の活動を終え、日の出とともに目を覚ますといったように自然のサイクルと生活がより密接にリンクしていたことでしょう。

 

 実際に妖怪が存在するかもしれませんが、

 

 誰もいないはずの所で声がする

 原因不明の流行り病

 何もいない、何もないはずの水中で、突然足をとられる

 

 そういった、『あるあるネタとも呼べる原因不明の不思議な現象を妖怪として捉え、認識可能なものとして落とし込む』という側面も存在したのではないでしょうか。

 

 現在の科学も完全ではありません。

 原因不明なこと、解決な問題などは未だ山積みです。

 

 日常に存在する様々な不可思議や、社会問題の裏にひそむ『妖怪』の存在を子供達とあれこれ話し合ってみるのも楽しそうです。

 

 非常に懐かしく、感慨深いものがあるものの、ちょっと値段が...

 

 

 

 

 

 

 ようやく8月1日分まで到達しました。

 

 

 

 

 (すでに腐れ落ちてしまっている感が無きにしもあらずですが...)

 極力くさらず前を向いて進んでいこうと思います。

 誇り高く

 そう

 誇り高く。

 

 理系男子・理系女子といった言葉を耳にします。

 日本の受験では、文系・理系の選択がなされることが一般的です。

 

 私は日本で受験生だった頃、物理が嫌で、高校一年時に早々に文系選択をしました。

 でも当時は理科・社会いずれも苦手だったので、英数国に頼る文系といった存在でした。

 

 受験がうまくいかず、浪人を重ねた後にアメリカに留学しました。

 

 アメリカ全般ではわかりませんが、少なくとも私の大学では、文系・理系の区別は日本ほどない印象でした。

 

 文理の区別のみならず、国が違うと様々な違いを認識することができます。

 

 私の大学では数学のテストでも計算機の持ち込みが可能でした。

 数学専攻の生徒も、平気で計算機を使います。それが当たり前だからです。

 

 一方、日本は試験に計算機などもちこめない場合がほとんどです。

 

 結果、私の大学の学生の多くは解と係数の関係を利用することもなければ、計算能力も平均より『文系』の私が高いほどでした。

 

 文系・理系の違いがないとはいっても、各専攻のカラーというものが存在します。

 

 私は生物学と心理学の二つの専攻を終えましたが、私の大学に限って言えば、明らかに生物学専攻の学生の方が勉強していました。

 

 生物専攻の学生の多くは、メディカルスクールや、名門の大学院進学を狙っていることも多く、成績に対する態度がよりシビアです。

 

 アメリカではGPAといって、成績によって点数が異なり、各成績の総得点を単位数で割った、平均点が最終的な成績となり、メディカルスクールやロースクール、大学院に進む際に重要となります。

 そのため、ただ単に必修科目を履修するだけでなく、良い成績を修める重要度が日本と比べて格段にアップします。

 

常に満点をとっているような生徒では、A+ばかりで、GPAは4.0。平均的な成績であれば、Cあたりで2.5前後といったところでしょうか。

 

一概にはいえませんが、メディカルスクールなどを目指す生徒は3.5は欲しがっていた印象です。

点数でいえば常に90点以上です。

 

心理学のコースでは、それなりに準備をしていれば平均の生徒より私の勉強量も多い印象でしたが、生物学のコースは英語に不自由のない生徒が1日10時間、15時間と平気で勉強するので、ついていくのが大変でした。『英語に不自由があるのなら、アメリカ人の倍以上頑張ればいい』というのが当時の私のモットーでしたが、倍以上頑張るには時間だけみると、1日あっても足りません。

 

私の大学に限っていえば、平均的に、生物専攻の生徒の方が、心理専攻の生徒より勉強ができる印象でしたが、これは単純に『生物専攻』、『心理学専攻』の違いというより、各生徒の努力の差によるところも多いと考えます。

 

 

 

 人間には得意・不得意があります。

 

 文系・理系のどちらか一方の方が得意という場合も多いでしょう。

 しかしながら、それはイコール『理系あるいは文系に特化した脳を持っている』ということではないでしょう。

 

 水泳選手も生まれた時からスイスイ泳げる天才ばかりではありません。

 最強の格闘家でも、幼少期はいじめられっこだったというエピソードをもつ選手は少なくありません。

 

 ということを考えていると

 

 「自分は〇系なんで」という言葉に強い違和感を覚えます。

 

 『自分の専攻は〇系だったので△△が得意』というニュアンスで使われるのならいいのですが、

 どちらかというと

 『自分の専攻は〇系なので、□系は無理です』的なニュアンスを感じることばかりです。

 

 同様に、血液型の話題で「私〇型なんで」という発言にも強い違和感を感じることがよくあります。

 

 血液型というのは赤血球の表面にある抗原の種類によって決まります。

 赤血球表面の抗原だけで、そこまで性格が大きく影響されるかはなんともいえないところではありますが、細胞の構造上の違いが性格にも影響している可能性は十分考えられます。

 

 ただし、仮に血液型に性格が影響される側面がそれなりにあったとしても、

 だからといって「私〇型なんで」といわれてしまうと、

 「だから!?」と私は心の中で思ってしまいます。

 

 血液型診断だと、自分の〇型は△△といった性格・性質があるといわれている。なるほど、思い当たるふしがある。

 この程度の認識は問題ありません。そしてそれをもとに、『だから自分は□□しよう、△△に気を付けよう』という態度が重要な気がしてなりません。

 あるいは、血液型を全く気にしないかです。

 

 それを、「私〇型なんで」

 と、血液型に責任を押し付けるような言動は、『成長を放棄している態度』としか思えません。

 

 水泳選手を目指す人は

 「私泳げないんで」といって泳ぐ練習をやめてしまうでしょうか。

 

 理系に進んだ生徒のほとんどが

 「実際に理系に特化した脳」を持っている人間なのでしょうか。

 

 あれこれ言い訳を付けて『努力によって後天的に知識や能力を獲得しようとする態度が欠如』している風潮が世の中に存在する気がしてなりません。

 

 

 

 娘と息子が叩き合います。

 なかなかやめるようにいってもききません。

 

 娘は外ではお利口さんで、他人に暴力を振るうような様子はないようです。

 しかし、家の中ではいらっとすると弟を平気で叩いたりします。

 

 息子は、かつては叩かれてもじっと我慢しているか、泣き崩れるかのどちらかでした。

 今では、我慢しようする時もありますが、抑えきれないと娘に反撃するようになりました。

 

 反撃されたらされたで、娘の怒りもエスカレートし、お互いがやり返し続けるので、家中大騒ぎです。

 

 おそらく娘がいなければ、息子は暴力をふるうことはなかったと思います。

 最近は見られないようですが、一時はイラっとすると、幼稚園のお友達をたたいたり、友達の水筒をたたきつけて壊したりといった行為が見られました。

 

 私は小学校入学頃から空手を習い始めました。

 きっかけは、ジャッキーチェンにあこがれて少林拳を学びたかったものの、近くで見つからず、地元の小学校で空手の道場が開かれていたからです。

 

 空手では、『暴力を振るってはならない』と教わります。

 皆が皆、教えに従うわけではありませんが、私自身は、極力暴力を使わないように生きてきました。

 

 その理由は『暴力をふるってはいけない』という教え以上に

 

 『力に訴えていると、どうやっても歯が立たない相手にいつか必ず立ち向かわなくてはならなくなる。その際はボコボコにされるであろうこと』

 『攻撃をしたことをとがめられたくない、あるいは相手に怪我をさせてその責任を負いたくない』

 『攻撃をするということは反撃をされる可能性もあるため、自分も無傷でいられるとは限らない』

 『自分がされて嫌なことは、相手にもしない』

 と、どちらかというと、わが身の可愛さが根底にありました。

 

 ただ、己に暴力を禁じて、何事もニコニコヘラヘラしていると、人生平和に過ごせるかといわれるとそうでもありません。社会的には平和といえても、個人レベルでは地獄だったりします。

 

 学校だけでなく、職場でも殴られたり蹴られたりした経験があります。

 

 学生の頃、不良に絡まれていたいじめられっこを見て、不良に「やめてやれよ」といったことがあります。

 その不良には殴られました。

 

 その後、不良に指示された、そのいじめられっこにすら頭をはたかれたりするようになりました。

 

 最初は何か髪の毛にふれたのかな、程度でしたが、次第にエスカレートしていきました。

 

 「何かした?」と聞いても、おどおどと「い、いや」といった返事だったのが、

 次第に明らかに頭をはたかれたり、後ろから蹴られたりするようになりました。

 

 ある日、掃除の時間に、突然竹のほうきで頭を叩かれました。

 わずかでしたが、血が出ているのを見て逆上し、

 怒号をあげて、相手の胸倉をつかみ、殴る素振りをしてすごんで見せました。

 

 相手は震えて泣きだし、「ごめんなさい」と繰り返すばかり。

 

 結局職員室に呼び出され、叱責されたのは私だけ。

 周りの生徒も何も言ってくれません。

 それまでの経過も報告も考慮もされず、『普段おとなしい生徒がいきなり切れた』だけです。

 

 それ以降も、暴力を振るった記憶はありません。

 

 『いじめられる側にも問題がある』

 よく聞く言葉です。

 私の性格に癖があるのは、百も承知です。

 

 ただし、いじめられっ子にほうきで頭をたたきわられるような問題が私にあるのだとすれば教えて欲しいところです。

 

 人の性格は様々です。

 

 中には、『相手が反抗しないことに気づくと、態度がどんどん大きくなっていく人間』というものが存在します。

 こういう人間に対しては無抵抗を続けていると、ますますその態度が助長されます。

 

 私は社会人になってからも、ひどいパワハラに悩まされてきましたが、ついに耐えかねて相手に「そこまでひどい扱いを受けるのはこちらに非があるのか、おまえのパワハラなのかはっきりしろ」とすごんでみせたところ、あっさり非を認め、謝罪されました。

 

 しかも二人にです。

 

 パワハラが許容されない時代になってきています。その時代背景も手伝ってくれたとは思います。

 

 しかし、直前まで高圧的だった相手が、こちらの態度を変えてすごんでみせただけで

 目がおよんで、「すみません」の連続です。

 

 さすがに「そんなわけないでしょう。こちらにも非があったんでしょう。あれだけ非人道的な扱いをうけたんだから」と冷静になってみても

 「自分がおろかだった。本当に申し訳ない」の一点張り。

 

 しかも一人ではなく、二人。

 

 世の中そんなものです。

 

 いつもニコニコヘラヘラばかりではなく、反抗すべきときは適切に反抗することも大切です。

 

 私の場合は、いつも耐えるに耐えかねてから反抗するので、かなり周囲に波風がたちます。

 ただ、波風をたてないと、ひどいいじめやパワハラが続きます。

 

 まさに「お前ひとりが我慢してたら、世の中上手く回るんだよ」状態です。

 

 そんな世の中は間違っていると思いますし、その「お前」は「次のあなた」かもしれないのです。

 

 

 とはいえ、暴力はいけません。

 昭和の頃には、「言ってきかなければ叩くしかない」という考え方もありました。

 私も母に叩かれた記憶があります。

 

 私は子供たちを叩いたことは一度もありません。

 

 ひょっとしたら叩けば子供たちは大人しくなるかもしれません。

 でも、それは子どもたちに、「世の中には必要な暴力もある」というメッセージとして伝わることでしょう。

 もしくは、叩かれるのが怖くなくなれば、子供たちを止める手立ては何一つなくなってしまうことでしょう。

 

 「たたいちゃいけない!」といって叩くことほど矛盾をはらんだ行為はありません。

 

 

 『他人に暴力を振るうことが、いかに自分にとってマイナスになるか』を諭しながら、子供たちの暴力行為がなくなるまで、ガミガミいうしかありません。

 

 何か他にいい手はないんでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『餅は餅屋』という言葉があります。

 ある物事は、その道のプロに任せる方がいいという意味です。

 

 芸能界での投資詐欺疑惑が問題になっています。

 

 投資もよく、『素人には難しいのでプロに任せるのが一番』というのを耳にします。

 私自身、投資を始めて自分であれこれ勉強するようになって思うのは、

 『プロも含めて他人は当てにならない』ということです。

 

 プロがあてにならないのは、新型コロナに対する一連の分科会メンバーの言動をみていても感じます。

 

 プロがあてにならないのは投資や新型コロナに限ったことではありません。

 

 教育や就職、起業に関しても同様です。

 

 もちろん、頼りになるプロも存在することでしょう。

 しかしながら、『プロだから任せて安心』とは限りません。

 もっといえば、『本当にプロかどうか怪しい』場合すら存在します。

 

 一流大学に入るには、SA〇IX→鉄〇会が王道のようです。

 あまりに王道すぎて、この道を通れなかったら一流大学に入るのが難しそうな印象までもちそうです。

 

 周りも小学校受験、中学校受験などをしていると、なんとなく焦ります。

 

 「うちもしなくて大丈夫なのか?」と。

 

 私は受験の王道からは程遠い過程をたどってきましたが、それでも中学に通った進学塾、高校ではそれなりに時間を費やし、勉強一筋といった感じでした。

 

 その結果は、何浪しても志望の大学に入れず、結局高卒で社会にでることになったのです。

 

 まあ、その後紆余曲折はありましたが、そんな自分の過去を振り返って思うのは

 

 「今やってることを続けていて大丈夫なのか?」

 「周りがやっているのは正しいのか?」

 「指導者が言っていることは正しいのか?」

 という視点を持つことが重要だということです。

 

 指導者が言っていることが間違っている場合もあるでしょう。

 または、指導者が言っていることは正しくても、自分にはその方法が合わない場合もあります。

 勉強や練習に時間を使ってはいるけど、ただ時間を使っているばかりで、効果的ではない場合もあるでしょう。

 みんながやってるから正しいとも限りません。

 

 車で最短コースをとると30分かかるA駅を目指すとします。

 道を間違えて、反対方向に30分車を飛ばしても、駅は遠ざかるばかりです。

 車にのれば30分だけど、あなたは車をもっておらず、バス停も遠かったとします。

 金額はかかりますが、電話でタクシーを呼べば楽に駅まで到達できるでしょう。

 

 さてA駅にたどりつきました。次はそこから電車に乗ってB駅に向かいます。

 ところがここで気づきました。A駅からB駅に向かうにはC駅で乗り換える必要があります。

 実はこのC駅は、自宅から車でA駅に行くのと同じくらいの時間でたどりつけるとします。

 

 この場合、A駅に向かわずにC駅に向かうのが正解です。

 

 事前に路線図を確認しておけばこんなことは起こりませんでした。

 では何故あなたはC駅に向かわずにA駅に向かったのでしょうか。

 

 それは、『みんなそうしているから』です。

 

 こんな単純なミスは人生では起こりにくいですが、例えてみればこんな感じになるミスは案外少なくない印象です。

 

 よくよく考えてみればA駅に行く必要はないのに、もう何年も何十年もA駅から通っている。

 

 職場でも「どうしてこれが必要なんですか?」と聞いてみたら、案外誰も答えられなかったりします。

 「どうしてもなにも、そういう決まりなんだよ!」怒鳴って見せても、いつ誰がどういう理由でそういう決まりを作ったかが誰も答えられなかったりします。

 

 まだ理由があればいいのですが、実はただの慣習だったり、誰かの間違いだったりするケースすら考えられます。

 

 最近、起業や経営者を指導する塾のようなものも増えてきました。

 

 そういうところに通ったことはありませんが、起業支援のプログラムに数万つぎ込んだのに、何のメリットも得られなかった経験からこう思います。

 

 『果たして、その起業家の先輩方は、本当にビジネスのプロなのか?』

 『果たして、そこで行われているカリキュラムは妥当なものなのか?』

 と。

 

 一流大学を卒業して、数年有名企業で働き、20代前半で経営者になった方々を目の前にすると、輝いて見えることでしょう。

 しかし、その輝きは本物なのでしょうか。よく見ると、うまい具合に照明器具が隠されているかもしれません。

 20年、30年経過した時に、さらに輝きは増しているのでしょうか?それともすっかりくすんでしまっているのでしょうか。

 なるほど、会社の作り方、事業計画書の書き方、補助金や資金の獲得の仕方には長けているかもしれません。

 ゼロから始めるより、そのノウハウを活用した方が効果的かもしれません。

 だからといって、いつまで経ってもコンサル料を支払ってアドバイスを得続ける必要があるとは限りません。

 

 若くして起業家としての視点を学ぶのもいいかもしれません。

 ただ、私個人としては、雇用される側を経験しないまま、起業家になるのが妥当だとは思えません。

 単純に利益を重視するのであれば、コストを極力カットして、生産性を高めるのがベストです。

 賃金をなるべく抑え、利益が出れば経営者の給与だけを上げていくのがよいのでしょうか。

 

 『いつまで経っても人に使われているのは嫌だ。

 そんな人間はバカだ。俺は使われる側から使う側にまわるんだ。』

 的な態度が言動に漏れ出ている人も見受けられます。

 

 そしてそういう人が起業家支援や、起業家の人材育成に携わっていたりもします。

 

 こんな態度で、永続きのする組織など形成できるのでしょうか。

 

 

 

 今やっていることの先に、あなたの希望している将来へのビジョンが見えてくるでしょうか。

 あなたが信頼している指導者は、その希望している将来への道筋の上に立っているでしょうか。

 

 何事も道案内はあるに越したことはありません。

 ただし、その道案内が適切なものかの検討は重要です。

 

 地方の観光地を訪れ、誰かがいたずらで標識の矢印を反対に向けてしまっているかもしれません。

 標識が作られた時点で間違っている場合すら考えられます。

 

 投資関連の番組では次の言葉が必ず続きます。

 「くれぐれも投資は自己責任でお願いします」

 と。

 

 「人生に対する責任も自分にしか負えません」