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進化するブログ『思索の蒼穹』

医学、子育て、教育、教養、経営、経済等、様々な分野を節操なくつまみぐいしながら、皆さんと共有できれば幸いです。

 

  『潜在意識』といわれると少し身構えてしまいますが、入試に限らず、試験を攻略する上で重要なのは、迷いのないこと、基礎の徹底、効率化(無駄を省き、逆算的思考でゴールまでの道筋を意識する)ことでしょう。

 

 『おちたらどうしよう』、『自分なんか志望校にうかるはずがない』

 と考えてしまうと、迷いが生じ、今取り組んでいる勉強に集中ができなくなってしまいます。


 教材を選ぶ上では、浮気せず、必要最低限のものを何度も繰り返し、頭だけでなく体にまで染み込ませることが重要のようです。


 本書では、基礎的な教材に関しては、7回以上くり返し、意識せずともアウトプットできるまでたたきこむことの重要性がとかれています。

 その際も、はじめから完璧を求めるのではなく、雑に読み始め、反復を繰り返すことで、穴をなくしていくのが重要と解説されています。

 

 私も以前は理科・社会といった暗記科目に苦手意識がありましたが(今でも決して得意科目とは思えませんが)、今振り返ると、苦手・嫌いといった意識が強すぎて、正面から取り組んでこなかったことが自覚されます。

 中途半端な完璧主義なところもあったので、最初から一語一句覚えようとして挫折していたのも、本書を読めば、大きな誤りだったことがわかります。

 

 優秀な同級生などを見ても、その費やしてきた勉強時間や努力に思いをはせることなく、『優秀な人達とはものが違う』と最初からあきらめてしまっていたところがありました。

 

 基礎をしっかり固めることは、誰にでも努力できることですが、だからといって楽な方法とは限りません。

 『学問に王道なし』
 勉強は才能ではなく、適切な戦略・努力が重要だと教えらえる一冊です。

 受験のみならず、大人になってからの学びにも十分活かせると考えます。

 

 

 

 

 

 ようやく、月刊新聞ダイジェスト9月号を読み終わることができそうです。

 

 先週末に読み終わらせたかったのですが、子供達と過ごしたり、なかなか集中して読めないでいると今日までかかってしまいました。

 

 政治や経済はあいかわらず暗い話題ばかりですが、今回はそれらのトピックから離れ、一番おどろいた記事をご紹介してみます。

 

 7.17 日経新聞

 "「老化」知らぬカメの一群

 生命の宿命ではない可能性

 

  私たちは年を重ねるにつれて老いていく。それは自然の摂理で、生物の宿命ともいえる。ところが、その運命から逃れ、老化とほとんど縁のないカメの一群が見つかった。生物の新たな側面に光を当てる発見に、生き物好きの間ではカメの話題で持ちきりだ。

 

 (中略)

  

   カメとヒトとは全く違うが、新発見に対して「カメは特別」という冷めた見方は感じない。その理由に、過去に見つかった「老化しない哺乳類」の存在がある。アフリカにすむハダカデバネズミも米国の研究で死亡率が一定だといわれていると明かすのは熊本大学の三浦恭子准教授だ。

 

  (中略)

 

   カメも永遠に生き続けるわけではない。敵の攻撃やケガ、病気に見舞われたら命を落とす。老化を回避できるようになった以上、早死にしたら元も子もない。身を守る大きな甲羅を携え、飛び回らない生き方を選んだのは不足の事態を避けるために違いない。老化という予期できる死を免れたカメの世界も、生きる苦労は多いのかもしれない。"

 

 

 

 私が生物学を学んでいた頃は

 『細胞の分裂できる回数は有限だから、細胞には必ず寿命が存在する』

 といわれていました。これは『ヘイフリック限界』と呼ばれるものでしたが、2009年のノーベル医学生理学賞を受賞した『寿命をつかさどるテロメアとテロメラーゼ酵素』の発表によって、認識が大きく変わりました。

 

 細胞が分裂する際には、情報をコードするDNAが複製されますが、その際にテロメアと呼ばれる部分が少しずつ短くなるため、このテロメアと呼ばれる部分がなくなると細胞はそれ以上分裂できなくなるとされていました。

 

 ところが、テロメアを新たにつぎ足すテロメラーゼの存在が報告され、生殖細胞や幹細胞、がん細胞では無限の増殖能力が存在するとされています。

 

 

 

 

 

 そんな世の中が来るかどうかはともかく、『不老の世界』というものはどういったものなのでしょうか。

 

 病気やケガ、事故などのリスクは残りますが、老化をおそれる必要はなくなるわけです。

 

 ...

 

 

 あれこれ考えていると、老化がある方が、ない場合より『平和』な気がしてきました。

 

 

 

 

 大学6年時、放射線科をまわっていた際の飲み会で、教授が

 『わしだって、放射線科に入りたくてはいったわけじゃない。やりたいことと、実際にできることが一致するとは限らない』

 的な話をされていたのを思い出します。

 

 日本での受験生の頃は完全に文系だったのに、

 アメリカ留学をきっかけに心理学を学び、

 それがきっかけで精神科に興味をもち、医学部編入を果たすも

 精神科を職業に選ぶことがはばかられ、外科の道へ。

 

 自分の能力に限界を感じ、外科のみならず医師までやめようかと思っていたところに、

 縁があって乳腺外科の道へ。

 

 以前から心身ともに疲れ果ててきていたので、今の職場を離れる時は、医師をやめるときだと覚悟してきました。

 

 とはいえ、いざ今の職場に戻るという選択肢がなくなってみると、家族もいて経済的余裕もないので、医師をやめるという選択肢もとりづらいものがあります。

 

 40代も後半に入り、今一度人生というものを見つめ直してみました。

 

 すでに資産が形成できていたなら、医師という職をすて、大学に入り直し『教育』という分野への道を目指していたことでしょう。

 

 しかしながら、現状、医師という職をすてるという選択肢はリスクが大きく、家族も路頭に迷うことになります。

 

 再就職先を検討するにあたり、外科・乳腺外科というのが自然な流れですが、それも5年後、10年後を考えると体力的にも厳しいものがあります。当直や緊急オペもなるべく避けたいところです。

 

 現在、訪問・在宅診療という道が視野に入ってきました。

 どちらかというと内科的な範疇で、幅広い疾患に対応することになります。

 

 外科医としては、知識的にも技術的にも、教授職やゴッドハンドなど目指せるものではないと、研修医の時点で諦めていたところがありました。

 

 外科医の道を選んだのは、総合診療に興味はあるものの、自分の性格や能力を考えると『広く浅く』になってしまい、『何でもみるけど、いずれも中途半端』となるのを恐れたため、専門分野を持つのがよいからと考えたからでした。

 

 内科でなく、外科だったのは、内科はいくら願っても外科的手術を経験できませんが、外科医は自らが意識すれば内科的知識や考え方を身に付けることは可能と考えたからに他なりません。

 

 在宅・訪問診療というのは、私にとってはある意味、原点回帰といってもよいのかもしれません。

 

 全くのゼロからのスタートにはなりますが、これまでの医師としてだけでなく、個人としての経験や知識も大きな意味をもつと考えるようになりました。

 

 これまで、蓄積する疲労とともに、医師に対するモチベーションも徐々に低下してきていました。休職して自分を見つめ直し、次の就職先を検討する上で、改めて医学に対するモチベーションが高まってくるのを感じています。

 

 『教育』に関する意識や関心はこれまでと一切変わっていませんが、『医療』に真剣にとりくむとなると片手間でできるものでもありません。科を変えて、これまでと方向を180度変えるとなると尚更です。

 

 『学校云々』というのは、次のターニングポイントが目前に現れるまでオアズケにしようと思います。

 

 私の寿命がどれほど残されているのか謎ですが、定年後などにでも取り組めたら御の字なのかもしれません。もし実現不可能でも、その夢も含め、私の哲学やイズムは全て子供たちに注ぎこもうと思います。

 それをそのまま引き継いでくれてもいいですし、一切を否定して自分の哲学やイズムを持ってもらっても構いません。

 

 『教育』に興味を抱いたのは、『ルールやモラル』のもつ意味や重要性が適切に認識されていないと感じ、『正直者がバカを見る社会』に危機感を覚えたからです。

 『学び』の楽しさ、大切さよりも、受験対策の知識の詰め込みばかりが重視される点にも強い違和感を覚えます。

 集められる情報を取捨選択し、全てを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考え、自分なりに判断する。

 私の言うことの一語一句にそのまま従って欲しいのではなく、自分のみならず他人も含めた集団の最適解を探ろうとする人達を一人でも増やせたらというのが、私が『教育』に興味をもった原点です。

 多くの人間が首をかしげるような政策や計画が、その反対を押し切って当然のように進められる世の中はどう考えても正常とは思えません。

 

 『教育』という大風呂敷を掲げても、誰一人影響を与えられないかもしれないのみならず家族ともども路頭に迷うような現状では、まずは自分の子供たちをしっかりと育て上げるのを第一とすべきでしょう。

 

 少なくとも子供達には、かつての私のように『何がしたいかわからない、何をしていいかわからない。だから何もできない』ということのないように育ってもらえればと思います。

 

 『何がしたいか、何をすればいいのか』はすぐに答えが出るものではありません。

 一度は答えだと思っていても、それが違っていたと感じることもあるでしょう。

 

 『何がしたいか』は自分次第です。他人のアドバイスがきっかけになることはあっても、他人に分かるものではありません。

 

 また、『何をすればいいのか』、分かっている場合もあれば、分からない場合もあります。

 一見正しいと思われているものが、間違っている場合もあります。

 他人の意見や本などで得られる知識を参考にはすべきですが、それが正解だと信じ切るのは危険です。  

 

 何がしたいか分からない場合、黙って待っていてもそれが分かることは通常ありません。場合によっては人生の最後まで分からないこともあるかもしれません。それでも自ら探しに行こうとする態度が必要と考えます。

 探す必要などないという考え方も存在するでしょう。しかしながら、この点に関しては、親のエゴといわれても、私は子供たちには探してもらいたいと思います。

 

 また、『何をすればいいのか』についても、他人のアドバイスや本で得た知識も参考にしつつあれこれ試行錯誤してもらえたらと思います。かつての私は本など読みませんでしたが、自分が悩んでいることは、すでにどこかの偉人や誰かしらがとっくに素晴らしい答えを出していたという場合は少なくありません。この数年で本を読むようになり、自分の知りたい分野に関しては、まずは関連する本を数冊読んでみるのがよいと考えるようになりました。

 

 『今は何もしない』というのが正解の場合もあるかもしれません。

 台風がじきに去ることが分かっていて、今急いで外出する必要がないのであれば、しばらく何もせずに台風が過ぎるのを待つのがベストでしょう。暴風の中を、傘をさして飛び出すのはリスクが大きすぎます。

 何もしない場合でも、なんとなくでずっと判断・選択できないわけではなく、『今は何もしない!』というのをしっかり選択してもらえたらと思います。

 『今は何もしない!』と選択するということは、『その状況が変わった場合にはこうしよう!』という選択肢がいくつか頭の中で想定されていることに他ならないと考えます。

 

 今回の私の状況であれば

 

 今の職場での勤務を続ける

 医師をやめて他の職を探す

 しばらく職から離れ、しっかりと休養をとる

 同じ職種で、他の施設で働く

 

 などといった選択肢も考えられました。

 

 私はあれこれ考えた上で、科を変えて今の職業を続けるという選択肢をとるつもりです。

 

 

 休職し、平日も出勤しない私をみて、

 「どうして、お父さん、お仕事いかないの?」

 と子どもたちに聞かれました。

 

 「疲れちゃったから、今のお仕事、もう続けるの難しそうなんだよ」

 と素直に伝えました。

 

 習い事が立て続けになくなったのもあり、

 「お父さん、大丈夫」と一日に何度も聞かれました。

 私の体調を心配しているのか、家計のことを心配しているのか。

 おそらく両方なのでしょう。

 

 次の就職先についてあれこれ模索しながらも、様々な本を読み、株価もチェックする。

 

 私の試行錯誤は、子供たちにはプラスの面もマイナスの面もあるでしょう。

 

 こういう経験がない方が、子供たちの精神的な安定の上ではいいでしょう。

 しかし、こういう状況を乗り越えることで、子供たちは自分が同じような状況に立った場合に参考にできたり、習い事ができるありがたみに気づくことでしょう。

 

 

 

 タイトルを『導かれるままに』としました。

 『導き』というのは、抵抗の少なめな選択肢を選ぶことだと考えます。

 タイミングよく提示されると、より『導き』的な印象を受けます。

 今回だと、科は変えるものの、職業は変えないというものです。

 これは当然、採用していただける就職先があってこそのものです。

 

 かつて、外科から乳腺外科に変更したのは、上司の先生にお誘いいただいたからです。

 この時も当時の私にとって『渡りに船』とよべるような絶妙なタイミングでお誘いいただけました。

 

 一方、抵抗が多すぎると『導き』とは考えにくくなります。

 通常は想定しにくい選択肢を選ぶ場合です。

 私の場合だと、海外留学がそれにあたります。

 

 何年も浪人し、高卒で社会に出ようとしたものの、バブルもはじけお先真っ暗。

 失うものは何もないと、勢いだけでアメリカに留学しました。

 留学先も、よく吟味したわけではなく、留学斡旋所を通じて、入学を受け入れてくれた中で最もレベルが高そうなところを選んだだけです。

 

 校風や歴史、カリキュラムや特色など、一切考慮せず、なんとなくで選んでしまいました。ランキング順にならべて、少しでも上位の学校をといった感じです。

 

 どうせアメリカで学ぶんだったら、日本では学びにくそうなものにしよう。

 心理学だったらアメリカの方が進んでいそう。

 なんとなく留学した上に、専攻もなんとなくで決めてしまいました。

 

 それが次第に同級生の影響を受けて精神科医に興味をもち、まぐれで学士編入にひっかかり、気付けば医師になって十数年。

 

 今、思い返しても、同じことを繰り返して、医師になれる気がしません。

 ひょっとしたらこれまでの一件デタラメな経歴も、実は何らかの『導き』があるのかもしれません。

 浪人した経験がなければ海外に留学することを考えることもなかったでしょうし、高卒で働いた経験がなければ勉強のありがたみに気づけなかったかもしれません。

 

 でもそれが『導き』だと確証できるものでもありません。

 何かしらの『導き』を否定するものではありませんが、かといって肯定するものでもありません。

 

 『導き』があっても、なくても、目の前の自分の状況に対して、何がベストかをその都度判断していくしかありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 早いものでもう9月です。

 人生はなかなか思い通りにならないものです。

 

 アメリカの金融引き締めに対する懸念にひっぱられてか、今週に入って株価が下がりまくりです。

 

 昨日、休職後初の、就職先探しの面談を受けてきました。

 

 新しい就職先を探すのも容易なことではありません。

 

 経済的な観点からいえば、なるべく早く次の職場を見つけるにこしたことはありませんが、環境や業務内容をよく吟味しておかないと、後で後悔することになってしまいます。

 

 現在の自分の状況もどこまでを素直に話し、どこからをうまくオブラートに包むかといった部分も悩みの種です。

 

 私個人としては、全部素直に話してもなんのやましい部分もありませんし、むしろ全部オープンに話した上で採用していただいた方が後になってもめる部分もないと考えます。

 しかしながら、採用する側からすれば『危ない橋を渡る必要はない』と考えられてしまうと、採用されるものも採用されない可能性は十分存在します。

 

 とりあえず昨日は全部オープンに話してみましたが、昨日の時点で採用はなさそうな印象です。

 

 あまりオープンに話しすぎるのは得策じゃなさそうです。

 

 

 

 昨日は夕方からの面談だったので、15時まで株価をチェックすることができました。

 主力に据えていた銘柄のみが、今週に入って暴落を続けていました。

 業績を考えると、かなりの割安感。

 株価を急激に下げる不自然な売りが入り、そろそろ底かなと考えてしまいました。

 

 これまでの投資経験から学んだことは

 「まだはもうなり、もうはまだなり」

 一つの銘柄に資金を投入するのは、株価が下がった時に大きなリスクになりうる。

 急がば回れで、大きなリターンを狙うよりも、まずは暴落のリスクにそなえるべき

 

 ということでした。

 

 しかしながら、昨日は就職に対する焦りもあってか

 「さすがに三日下がり続けてるし、そろそろ底だろう。ここは勝負所だ!」

 と、一つの銘柄に対する平均投資額を下げるべく、資金を集約させてしまいました。

 

 結果

 

 本日も株価は下落!

 

 やはり教訓を活かすべきでした。

 

 『人は歴史から学ばない』とはよくいったものです。

 

 高い勉強代を払ったと考え、気持ちを切り替えることにします。

 

 

 資金を集約させた銘柄ほどではありませんが、今週は多くの銘柄が株価を下げています。

 まだ底値とは限らず、さらに割安になる銘柄も少なくないことでしょう。

 

 

 『チャンスはピンチ』とはよくいったもので、

 株価が下がるということは、割安になった銘柄を底値で買えれば大きなリターンを得られる可能性があるということです。

 

 『元値からどれだけ下がったか』にとらわれすぎてしまうと、気分はおちこみ、何もする気になれません。

 

 しかし、こんな時は『この状況から、どうするのが最も高いリターンを狙えるのか』に意識を集中させるべきでしょう。

 

 今もっている銘柄が最も高いリターンを望めるというのなら、それを保持しつづける選択肢もあります。

 

 しかしながら、資金を集中させているので、下がった場合のリスクは十分念頭に入れておかなければなりません。

 

 他にも業績的にも、チャート的にも株価の大きな上昇が見込める銘柄があるはずです。

 

 本日15時に、損失を一部確定し、一つの銘柄に集中させた資金を、他の銘柄にふりわけようと思います。

 

 

 

 一連の株式投資への失敗は、人生への教訓にもなりえます。

 

 今の就職先にしがみつくのがいいのか(私的にはありません)

 手っ取り早く、採用してもらえそうな就職先で決定させてしまうのか

 ある程度時間をかけて、納得のいく就職先を粘り強く探すのか

 就職先を探すのをやめて、開業したり、職種を変えるという選択肢もあります(今のところは考えていません)。

 

 思い通りにならない人生の中で、どうすればより現状をよいものへと変えていけるか。

 

 過去は教訓にしつつも、しばられすぎず現状への最適解を模索する。

 

 この態度が重要と考えます。

 

 

 

 

 今回、これを言う必要があるかは微妙なところですが、とりあえず、

 『投資は自己責任でお願い致します』。

 

 

 

 

 

 

 

 Contageous:伝染性と訳されます。

 

 国が乱れると社会が乱れます。

 社会が乱れるから、国が乱れるのか。

 どちらが先かは分かりかねますが、国も社会も乱れていては、正しい世の中になりようはずもありません。

 

 社会が乱れていても、国のトップがしっかりしていれば、それを正しい方向に導くことができるかもしれません。

 出来ない場合もあるでしょう。

 国のトップが乱れていても、社会がしっかりしていれば、国政を正しい方向に転換させられるかもしれません。

 正しい社会であっても、誤った国政によって社会全体が傾いてしまうこともあるでしょう。

 

 社会も国政も正しいのが理想ですが、なかなかそれが難しいのは日本国内のみならず、世界各国、過去の歴史に目を向けると明らかです。

 

 新型コロナウイルスは世界に多大な影響を与えました。

 

 病だけでなく、思想や態度も周囲の人間に影響を与えます。

 

 『類は友を呼ぶ』という言葉がありますが、

 『太陽のような偉大さ』で周囲を惹きつける場合もあると考えます。

 『流行り病のように、周囲の精神を堕落させる』存在というものもあるでしょう。

 

 太陽によって照らされていても、陽の当たらない所には影ができます。太陽は一つですが、そこを別の光で照らせば、影は後退します。

 

 ここでもポイントは、影は後退するだけで、決して消失はしないということです。

 

 影を消失させるにはその物体そのものが発光体になるしかありません。

 

 太陽のように、物体そのものが発光体であれば自分自身に影はできにくいものですが、ライトのように先端が光輝いていても、それ以外のところがあればそこには影ができます。

 一部が輝いていても、その光によって自らの別の部位に影が生じることになります。

 

 太陽のように、一点の曇りもなく世界を照らせる存在になるのは不可能なのかもしれません。

 しかしながら、一部であっても、光を発する存在にはなれるのではないでしょうか。

 

 それぞれが光をもって、お互いを照らし合えば、影はどんどんと後退していくはずです。

 

 

 

 

 精神科の受診が終わりました。

 今回の結果も『適応障害で、環境への配慮を要する』でした。

 

 いつもの繰り返しです。

 

 私は何年も、バカ、ポンコツ、お前は患者を殺すから医者をやめろといわれてきました。

 

 初めの数年は、その言葉をバネにもっと成長しなくてはと努力してきました。

 

 しかし、それが何年も続き、中堅と呼ばれる頃が近づいてくると

 「自分が医者を続けるのは、社会にとってマイナスでしかないのでは」

 と考えるようになりました。

 

 ある時、いつものように「とっとと医者をやめろ」と言われた際に

 「やめます」

 とつぶやいてしまいました。

 

 それをきっかけに、翌週から嘔気、嘔吐、頭痛、めまいの症状で職場に向かえなくなってしまいました。

 

 一カ月、療養しましたが、給与が一切支払われず、それに対して職場からは何の説明もサポートも受けることができませんでした。

 

 経済的不安から、これまで無理矢理働き続けてきましたが、精神的不調は強まるばかりでした。

 

 1年前、自分への無力感、嫌悪感から、人生の幕引きも考えました。

 幸か不幸か、結果はうまくいきませんでした。

 しかしそれによって、子供たちの不安が募り、情緒を不安定にさせてしまいました。

 

 逃げるという選択肢もなくなり、一度人生を終えた気持ちになり、「バカ」、「ポンコツ」、「医者をやめろ」と言われ続けてきた張本人に向かい、「これだけぼろくそに言われる筋合いがあるのか。それともパワハラ的な要素があるのか」はっきりさせろと迫りました。

 

 答えは、「私に大きな非はなく、全てパワハラだった」というものでした。

 ただただ申し訳ないと。

 

 そんなわけなかろうと思い、もう一人同様の言動を続けていた人間にも、同様の問いを投げかけたところ

 「私に非はなく、全て先方の不徳の致すところ」だと。

 

 こんなバカな話はありません。

 何年にもわたり、自分の無能さに嫌気がさし、絶望のもとに一度は命を終えようとしたほどなのに

 全てがただのパワハラだったと。

 

 辛いのをひた隠しにし、ニコニコヘラヘラしていたらパワハラは続くのに

 いざ怒りを前面に押し出し、「こちらが無能なのか、パワハラかはっきりさせろ」と迫ったところ

 あっさりと、「こちらに非はなく、全てパワハラでした」と。

 

 

 謝罪を受けても、何年もかけて蓄積した精神的ダメージはすぐに回復するわけではありません。

 

 職場に配慮を求めても、「他のスタッフにフェアじゃない」との理由で何の配慮もなし。

 『もし要望があるなら、第三者として弁護士をたてて協議を』とのことでした。

 

 職場からの配慮が欲しくて、パワハラをしていた相手のみならず、それ以外のかつてのパワハラの実情を知る同僚にも職場に配慮してもらえるよう呼び掛けてもらえないかと頼んでみました。

 

 頼みを聞いてもらえないばかりか、ほとんどの相手からの態度は

 「何年前の話をしてんだよ」

 「もう終わった話だろ」

 「そんなの覚えてねえよ」

 といったものでした。

 

 最も衝撃的だったのは、ある一人から「お前なあ。日本の社会っていうのは、あんま自己主張しないもんなんだよ」

 と、職場に環境配慮をお願いしようとする私に非があるかのような発言を受けたことです。

 パワハラがあったことを相手も職場も認めたあとなのにです。

 

 今から考えるとひどいパワハラを何年も受け続けてきたにも関わらず、自分に非があると考え、何年にもわたってニコニコヘラヘラしてきたのは私自身です。

 

 その発言があった人間からは、直接的な暴力を受けたり、「バカ」や「ポンコツ」よばわりされることはありませんが、

 「お前ほんとにセンスねえな」

 「何年たっても成長しねえな」

 「〇〇君(パワハラしていた相手)は熱心に教えてくれるありがたい存在なんだから、しっかり教育してもらえよ」

 といわれてきました。

 

 そこの発言を聞いても、「知らねえ」、「覚えてねえ」の繰り返しです。

 

 

 職場に何度お願いしても、環境への配慮等何もなし。これ以上業務を続けるのは困難と、パワハラをしていた相手に向かって

 「いつも謝るだけ。本当に申し訳ないと思ってるんだったら、職場に対してなんとかいえよ。こっちは点じゃなく、線でずっと苦しんでんだよ!」と叫んだところが、今回の就業禁止命令です。

 

 

 今回数週間、仕事から離れ、精神科を再受診して気が付いたことがあります。

 

 自分の無能さや嫌悪感は、「自分の才能や態度にそれほど非はなく、パワハラだった」と認識できたことでかなり軽減されたようです。

 

 鬱症状はかなり改善している印象です。

 

 『叱責される悪夢』もこの数日は見なくなりました。

 

 『適応障害』の診断書をもって復職しても結果はどうせ繰り返しです。

 配慮のないまま今まで通りの職務を果たさなければならない。

 職場は『嫌ならやめろ』というのが見え見えです。

 

 今の職場に戻ってもろくなことがなさそうだし(いずれは本格的な鬱になることでしょう)、トップは話ができる相手ではないので、弁護士をたてて、しかるべき対応をとろうと思います。

 

 弁護士費用もばかになりません。

 現状でも、職場に話せる相手がいるのであれば弁護士を立てるつもりはありませんが、話にならないので仕方ありません。

 

 今回は、幸いなことに、信頼のできる弁護士の先生を紹介していただけることになりました。

 費用は、ご縁に対するものとして割り切ろうと思います。

 

 それにしても『他のスタッフにフェアじゃない』との理由で、何の配慮もないのはいけてません。

 これは裏を返せば、『どのスタッフに対しても何の配慮もされていない』ことの表れな気がしてなりません。

 

 

 かつてのカルテを見返しながら、精神科の主治医の先生からは

 「実は数年前の初診時、あなたには自閉症スペクトラムの可能性があると感じていました」と話されました。

 

 昔から周りとうまくやっていけない

 得意な科目はあるけど、苦手科目は全く勉強しない

 自分は能無しで、バカでポンコツと繰り返す

 

 今振り返ってみて、これらは私の性格に大きな影響を与えたものですが、私本来の性格そのものではないと感じます。

 

 能無しでポンコツというのは、何年にもわたって職場の人間から与えられてきた評価なので仕方ありません。今になって、それは二人がパワハラを認めたので、その認識は消失しました。

 

 得意な科目はあるけど、苦手科目は勉強しないというのも、暗記科目が苦手という意識が強く、その苦手意識を克服できなかったからです。アメリカで生物学を専攻し、医学部学士編入、医師国家試験、外科専門医試験を越えた時点で、暗記科目に対する苦手意識はかつてほどありません(いまだにそれほど得意とはおもえませんが)。

 

 周りからうまくやっていけないというのも、今回の一連のケースをみて考えるところがあります。

 

 私の場合、極力、責任を他人におしつけることなく、自分の非、自分の改めるべき点を考えるところがあります。他人は変えられなくても、自分は変えられるからです。

 

 そして、波風を立てないように、極力ニコニコヘラヘラしながら、ポーカーフェイスでやり過ごしてきました。

 

 こちらとしては「言えない」のではなく、「言わない」つもりだったのですが、周りはそうは見ないようです。

 「こいつはいつも文句をいわず、ニコニコヘラヘラしている奴だ」と。

 

 それに加え、私は同調圧力に抵抗するところがあるので、自分の信念を曲げてまで相手に迎合しないところもあります。

 

 それがやけにむかつく態度にうつるのでしょう。

 

 

 かつては周りにうまく溶け込めない自分が嫌いでした。

 しかし、最近は、溶け込みたい集団や社会ではないと考えることが多くなりました。

 これは決して強がりではありません(ひょっとしたら深層心理ではうらやましさもあるかもしれませんが)。

 

 クラスの人気者を中心とした、華やかで和気あいあいとしたグループ。

 しかし一方で、グループを離れると、お互いがお互いの悪口を言い合い、グループ以外の人間を見下したような態度をとる。

 私はこういったグループに所属したことがありませんが、所属したとしても、決して居心地のよさは感じないことでしょう。

 

 周りに溶け込めない自分を、かつては人気や魅力がなく、誰からも相手にされない人間だと考えていました。

 

 最近は、自分は人見知りで、人を惹きつける魅力はなくても、『人としての能力や魅力』とは直接的な関係はないと考えられるようになりました。

 

 詐欺事件や暴力事件が横行しています。

 ファクトフルネスに記載されているように、ひょっとしたら絶対数は増えていないのかもしれません。

 

 しかしながら、ありえない金額を搾取してみたり、おぞましい暴力行為を行って平然としていたりと、その程度や内容は目や耳を覆いたくなるようなものばかりです。

 

 給付金詐欺にしても、みんながみんな悪い人ではないのかもしれません。

 みんなやってるから、やらなきゃ損。そんな気持ちが働いた人も少なからずいるのではないでしょうか。

 

 

 私は決して強い存在ではありません。どんな状況にあっても、己の正義や真実を貫き通せると断言できるものではありません。

 しかしながら、一歩でもそのような存在に近づけるよう、いい意味で周りに流されることのない、強い存在を目指したいと考えます。

 

 一年前の私の言動は子どもたちの情緒を不安定にしましたが、周りに流されない強い存在でいようとする私の言動は子供達にもよい影響を与えるのではないかと考えています(場合によっては、生きづらさにつながってしまうかもしれませんが)。

 それを子供達だけでなく、一人でも多くの周りの方々によい影響を与えられるような存在に近づけたらと改めて思う今日この頃です。

 

 

 さて、まずは次の職場を探さなければなりません。いいとこ見つかるといいな。