3/12の本ブログにこんな記事をUPしました。↓
<抜粋>
"安全保障と引き換えに核を手放したウクライナはロシアに裏切られたのだ。
無条件降伏で自由と民主主義が転がり込んだ日本とは大違いだ。
我々は、ウクライナが特殊なのではなく、日本が極めてレアーなケースであったということを肝に銘じておかねばならない。
私は、戦争を煽るつもりも戦争に加担するつもりもないが、特異な歴史を持つ日本人の教訓を他国の紛争に当てはめることはできないと思っている。"
<抜粋終わり>
武力による抗戦については、共産党でさえ以下のような見解を示している。
"万が一日本に対する武力行為があった場合には、あらゆる手段を用いて抵抗する。そして自衛隊も活用する(2015、志位委員長記者会見)"
抵抗すれば「(国民に)犠牲者が出る(/増える)」というのは、当然、覚悟の上でのご発言かと思う。
また、3/24にUPした記事↓
"外交(話し合い)でプーチンを止められるとは思わない"
"9条さえあれば平和を守れるとは私も思わない"
これも共産党・小池さんのご発言で、当然、他党もそれなりの抗戦手段の必要性は認めている。
ところで憲法9条、
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
を、素直に読めば、専守防衛とそのための戦力保持すらできないことになるだろう。
そこを、「戦力でなく実力だ」、という苦しい解釈で乗り切っているのが現状だ。
また、"前項の目的を達するため" は芦田内閣の求めで追加されたもの。
「第1項は自衛権まで放棄していない」との解釈で、第2項の対象から自衛目的を除外しようとしたようだ。↓
実は、GHQの原案では、
"日本は自国の防衛の権利も持たないことを規定するという一項があった"
とのことだ。↓
<抜粋>
" 日本での「戦争反対」の源流をたどれば、日本国憲法にぶつかるだろう。憲法9条は日本に対して戦争を禁じ、交戦権を否定し、戦力の保持をも禁止するからだ。
だから国として、国民として、とにかく戦うことは一切、禁止というのが日本国憲法の真髄ということになる。
● ロシアの意図どおりになっていいのか
この「戦争反対」の概念には「平和」という言葉が一体となって、からんでいる。平和のために戦争を止める、その平和こそ人類、あるいは人間にとって最高至上のあり方なのだ、というわけである。
・・・・・
だが、ちょっと待て、である。ウクライナに対して、「戦争反対」、つまり戦うことを止めろと、号令をかければ、自国の防衛に命を賭けるウクライナの国民、あるいは軍人に対して、ロシアへの抵抗をもう止めろ、と命じることに等しくなる。
本来、いまの世界がウクライナ情勢に関して反対しているのは戦争自体ではなく、ロシアの侵略である。まず起こるべき声は「侵略反対」なのだ。
その侵略に対して、日本流に「戦争はよくないから」と非戦を実行すれば、戦争をためらわないロシアの意図どおりになってしまう。
ウクライナ側が戦いを止めれば、ウクライナという国家が失われてしまう。国民の自由や独立、自主性、主体性、そして国家としての主権もなくしてしまう。戦争さえなければ、それでもよいのか。無抵抗、そして全面降伏となる戦いの停止を求めることは、当事者からすればあまりに無責任なのだ。
・・・・・
ここらあたりで日本の戦後の「戦争反対論」や「平和主義」を再考し、破棄すべきだろう。なぜなら日本の「戦争反対」や「平和を」という主張はすべての戦いを否定するという立場に立脚しているからだ。だが国家にしても、人間の集団や個人にしても、生存していくうえで、その生存自体への危機や脅威とも戦ってはいけないとなれば、あとは死、つまり生物としての絶滅を意味するだけとなる。
● 日本国憲法に込められたアメリカの思惑
国家を個人に置き換えて、考えてみよう。
人間が自分を守るために戦う。これは国ならば個別の自衛権の発動だろう。人間が愛する他者を守るために戦う。これは国ならば集団的自衛権の発動となる。人間はさらに正義を守るためにも戦う。これが同盟の考え方であり、国連の平和維持活動の実践だろう。
しかし日本の憲法9条を文字どおりに読むと、上記のいずれの戦いも禁じているように解釈できる。これは無理もない。日本国憲法がその目的のために作られたからだ。
私は日本国憲法の草案を1946年2月に書いたアメリカ占領軍司令部のチャールズ・ケーディス大佐(当時)に長時間、インタビューしたことがある。・・・
そのインタビューでケーディス氏は新憲法の最大の目的が「日本を永遠に非武装にしておくことだった」と明言した。上司からの原案では日本は自国の防衛の権利も持たないことを規定するという一項があったが、それでは戦後の日本は独立国家たりえないと判断して、同氏の一存でその条項は入れなかったという。
憲法の前文をみてもそんな意図は明白である。「日本国民は平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」というのだ。諸国民は平和を愛し、公正と信義を保つから、日本にとっても、他の諸国にとっても脅威や侵略はない、という前提である。戦う必要がない、というわけだ。
だがこんな認識が空想に過ぎず、世界の現実には戦って守るしかないという状況がいくらでもあることは、あまりに明白だといえる。
要するにいまの日本の憲法は日本という国家を戦う能力も意思も持たない人間集団にするために作られたのである。アメリカ側が強大な軍事国家としての日本の再現を恐れたからだった。そのアメリカの意図は戦後の日本で見事に花を咲かせた。
だがいまやウクライナに「戦わなければ滅亡する」という現実の状況が出現し、日本はそれでもなお「戦うな」と叫ぶのか。よく考えてほしい。"
<抜粋終わり>
日本国憲法(9条)が、今の世界の、あるいは日本の置かれた状況には適合し難いものになっているのは、その作られた「経緯」を考えると当然のことと言えるだろう。
とは言え、改正するのか、条文の解釈で押し通すのかは人それぞれの思惑があり、ここでそのことに言及するつもりはありません。
もちろん、憲法9条の素直な解釈に沿って、「(駐留軍も含む)一切の戦力不所持」で平和が維持できる世の中になれば、それに越したことはありません。
しかし、仮にそうなったとしても、その状態が維持される保証もありません。
現に、ゴルバチョフの登場でソ連も西側陣営に加わるかに思われたし、経済の自由化を推進した鄧小平時代の中国も同様です。
当時、「世界は(概ね)一つになった」と感じた西側諸国の観測は甘かった!
「自由主義・民主主義を守る努力」は決して怠ってはならず、また、「権威主義・覇権主義の国家を生まない」よう、監視と共闘を続ける必要はあるのでしょう。

