新春・歩くことを楽しむ!!
大日山(1)


今年は、「歩くことを楽しむ」というのを一つの目標にしようと思っています。「楽しむ」ですから無理をしないで歩くことを心がけています。自宅から歩いて約4㎞、時間にして1時間ぐらいは毎日歩きたいと考えています。今のところ正月2日から続いています。
そこに、週に一度くらいは自宅から歩いて大日山に登り、紀伊風土記の丘を一周してこようとしています。それは時間にして2から3時間をかけてです。時には自転車で走って風土記の丘に歩きに入っているのですが、日々の散歩のコースに大日山をポイントにどう組み込んで歩き続けられるかと考えています。次に、2から3週間のあいだに一度くらいは紀泉アルプスを歩きたいとも考えています。これは,時間にして4から5時間をかけてです。

先日、今年に入って3度目の大日山歩行にいきました。大谷山と大日山が仲良くくっついて並んでいる姿はいつも眺めていますが、大日山の頂上の姿が以前はもう少しとんがって見えていましたが、いつからか平らに見えているのに気付きました。
それは、頂上は前方後円墳(大日山35号墳)ですが,そこに茂っていた樹木や笹などすっかり切り取られて平らになっているからでした。大谷山の頂上も古墳ですが、同様に木々や笹などを切り取ってしまうと見晴らしのよい平らな台地が出現するでしょう。

自宅から、大谷山(左)と大日山(右)の間の谷を上っていきます。そして大日山の頂上の古墳にいたり、さらに紀伊風土記の丘を巡って帰ってくると約3時間コースになり、風土記の丘を省いてすぐに大谷山の周りを回って帰ってくると約2時間コースになります。

写真を紹介しておきます。

① 大谷山(左)と大日山(右)です。間の谷を登っていきます。$宮小同窓会ノート-大日山01

② 大日山の頂上の古墳です。すっかり木々など切り取られて平らになっています。
  「翼を広げた鳥形埴輪」や「両面人物埴輪」など出土しています。 $宮小同窓会ノート-大日山02

③ 前方後円墳ですが、後円に当たる部分に石室があり,今は鉄の扉で閉ざされていますが、内部の説明板がすぐ近くにあります。子どもの頃は中に入れました。
同級生の岡田清君が中学生の頃、夏休みの研究として石室を調べていたのを記憶しています。 $宮小同窓会ノート-大日山03

投稿者:北風 寒太郎
投稿日:2011年 1月14日(金)23時17分36秒
新春・歩くことを楽しむ!!
大日山(2)


写真
①大日山からの眺め 現在の日進中学校(日前宮の森の手前の赤い屋根)と宮小学校(左側の青い屋根が体育館、その隣の4階建てが校舎)。
$宮小同窓会ノート-大日山04


②空気の澄んだ良く晴れた日には、淡路島や沼島が見えます。
$宮小同窓会ノート-大日山05

③南側には自動車道と遠くに生石山が見えます。
$宮小同窓会ノート-大日山06

投稿者:北風 寒太郎
投稿日:2011年 1月14日(金)23時05分34秒
新春・歩くことを楽しむ!!
大日山(3


写真
①大日山からすぐ北側の大谷山を望む
$宮小同窓会ノート-大日山07

②紀伊風土記の丘の展望台から紀ノ川を挟んで紀泉アルプスが向かい合っています。
 明日、行くからね!!
$宮小同窓会ノート-大日山08

③ 資料館と竪穴式住居
$宮小同窓会ノート-大日山09

投稿者:北風 寒太郎
投稿日:2011年 1月14日(金)22時59分46秒 
読書 あれこれ その30

「失楽園」上・下  渡辺 淳一著

 久木祥一郎には妻、文枝(陶器メーカーの営業コンサルタント)、凛子には夫、晴彦(医学部教授)というパートナーがいる。それぞれ何不自由なく生活を営んでいる恵まれた家庭であったが・・・・

久木は現代書房出版社の出版部長であり、次期役員候補と言われていた。一年前、昇進するどころか出版部長を解かれ閑職とわかる調査室に廻された。
そんなとき、大学時代の同期の衣川と食事をしたが、そこに一人の女性が同席した。
それが松原凛子(37)であった。衣川はカルチャーセンターの所長で、凛子はそのセンターで書道の講師をしていた。
衣川に紹介されて、凛子と会った瞬間から、久木はあるときめきに似た心の高ぶりを覚えた。それから毎日のように電話をして逢瀬を重ね、二人がたしかに結ばれたのは今年の春だった。
初めて逢ったときから、書道のたしなみのある凛子は、まさしく楷書のような折目の正しさと、気品を備えていた。そんな凛子が徐々に優しさと親しさを見せながら、ある日、軀を許し、そのあと着実に崩れ、乱れていく。
その崩壊の過程が、男の久木にはたまらなく愛しく、艶である。

夏の終わりの鎌倉(江の島)、箱根(凛子が書道展でもらった奨励賞の授賞式の一夜)、日光の中禅寺湖、伊豆の修善寺、・・・
何度か逢瀬を重ねるたびに、他の誰でもなく、まさしく久木という男によって、凛子のなかに潜んでいた悦楽への感覚が目を覚ました。そのことはとりもなおさず、これまでは、それほどの快楽は知らなかったということで、さらにいえば、夫とのあいだでは悦びを感じていなかった、という告白でもある。
何度か不倫を重ねていくうちに、凛子の方から求め、時には久木の首を締めつけることもあった。
たしかに果てるとき、凛子は、「怖い」と洩らすことがあるが、それはこういう感覚であったのか。
久木は改めていま、自分のなかを通り過ぎていった軀の記憶を追いながら、ふと別のことを思い出す。

凛子は雪の中禅寺湖で二夜を過ごし、十一時過ぎに家に戻ると、夫は「お前の、やっていることは、全部わかっている。泊った相手も、場所も知っている」といいきった。
一方久木は、妻から「わたしたち別れましょうか。そのほうがいいでしょう。いま別れたほうが、わたしは楽だし、あなたもすっきりするでしょう。もう、こんな年齢になって、お互い無理することもないわ」といい淡々とした態度である。

そのような生活が、進むにつれて次第に二人だけが、まわりから遊離して追いつめられていく。
そんななかで、凛子の父親の別荘がある軽井沢で、その沸々と、軀の内側から沸きおこるような快感に浸りながら、久木は改めて肌と肌と触れ合う感触が、心の安らぎとともに、ある諦観を生みだしていることに気がつく。
凛子と話していると、これまで抱いていた生への執着が次第に薄れ、死がさほど怖いと思えず、むしろ身近なものに思えてくる。

 二人は、ともに離婚を決心するに至り、離婚届を提出し、それぞれ晴れて自由の身になるが、自由を得た分だけ、自分がかぎりなく世間から隔てられ、孤立していることを実感する。

ついに、二人は究極の愛の世界へと足を踏み入れる。
「愛して愛して、愛していくと、その先は破壊しかないのね」凛子はいま初めて、愛という心地よい言葉が、その実、きわめてエゴイスチィックで、破壊や破滅といった、強烈な毒を秘めていることを知ったようである。
いうまでもなく死は怖いが、それはひとつの旅立ちかも知れない。この世に生きとし生けるもの、いずれは行かねばならぬ旅ならば、最愛の人と最も美しい形で旅立ちたい。

一糸まとわぬ全裸の凛子が、久木の前に立っている。
頭から爪先へ、爪先から頭まで、何度か仰ぎ見るうちに、久木は、目の前の女体が須弥壇に鎮座する、阿弥陀か菩薩のように思えてくる。
青酸カリを溶かしたワインを、そのまま一口嚥み、喉に落ちていくのを感知した次の瞬間、残りのワインを、いまは満ち足りて菩薩の表情を見せている凛子の赤い唇の中に注ぎこむ。


*昭和史に残る猟奇的な事件の阿部定と、文壇一の売れっ子であった有島武郎と美貌の婦人記者波多野秋子との心中事件を登場させるのは、実に巧妙なテクニックで、心憎い演出の作品である。

投稿者:蘇る青春
投稿日:2011年 1月10日(月)19時49分18秒
読書 あれこれ その28

「金閣寺」 三島 由紀夫著


 今年七月「潮騒」以来、三島文学にもう一度触れてみたくなる。また、今年十一月二十五日は
三島由紀夫没後四十年の節目の年にあたる。

 少年、溝口{私}は病弱の父に連れられ初めて金閣寺を訪れる。・・・・
肺患で喀血をして死んだ父の遺言どうり、私は京都に出て、金閣寺の徒弟になった。そのとき住職に就いて得度したのである。
そこで鶴川という少年に出会う。彼は私のまことに善意な通訳者、私の言葉を現世の言葉に翻訳してくれる、かけがえのない友であった。
私はやがて、昭和二十二年の春、大谷大学の予科へ入学。知り人は鶴川一人であったが、しばらくしてかなり強度の、両足の内反足の障害をもつ柏木という級友と、自分の吃音を重ね合わせ親しみを感じていく。
柏木は私に「君はまだ童貞かい?」といい「俺がどうして童貞を脱却したか、話そうか?」といい返事も待たずに話しだした。・・・・・
また、平日に学校を休んで、嵐山へあそびにゆく計画を樹てた。
彼はスペイン風の洋館の令嬢を伴ひ、私のためには彼の下宿の娘を連れて来てくれる手筈になった。

柏木は、裏側から人生に達する暗い抜け道を、はじめて教えてくれた友であった。それは一見破滅へつきすすむように見えながら、なお意外な術数に富み、卑劣さをそのまま勇気に変え、われわれが悪徳と呼んでいるものを再び純粋なエネルギーに還元する、一種の錬金術と呼んでもよかった。
 もう一人の友人の鶴川は、私には心を開かずふてぶてしく生きる柏木にのみ手紙で本心を伝えて自殺した。
鶴川の死は私に動揺を与えた。誰ともほとんど口をきかぬ生活は、私にとってもっとも努力の要らぬものだということが、改めてわかった。生への焦燥も私から去った。死んだ毎日は快よかった。

一方、寺での私は当初、理由はわからないが老師にかわいがられている存在であった。母は、私が将来の金閣寺住職になることに強い期待を抱いていたが、私にはそのような俗欲が無い、と言うよりも端から理解できず、そして母の期待に応える気持も無いため、大学を休んだり金閣寺を抜け出したりしては叱責されていた。

昭和二十四年の正月のことである。老師のおしのびの目撃者になり、証人になり、老師と無言のうちに信頼や不信の関わり合いを結ぶことを、咄嗟の間に避けたい気持ちが起こった。老師にそのことを揶揄することで、みずから決定的に将来の望みを断ち切った。
その年の十一月突然の出奔、直接の動機は、その前日、老師がはじめて、決然たる口調で、「お前をゆくゆくは後継にしようと心づもりしていたこともあったが、今ははっきりそういう気持ちがないことを言って置く」と明言したその言葉に懸っていた。
出奔の目的地は、中学時代に一度修学旅行をした地方に決めた。

愛宕連山と嵐山の西側、ここから園部あたりまでの間の地域は、おそらく気流の影響で、京都とはせつ然と気候がちがった。十月、十一月、十二月、の期間、夜の十一時から朝の十時ごろまで、規則正しく、保津川から上る霧がこの地方を隈なく包んだ。その霧はたえず流動していて、途切れるのは稀であった。
 -これは先日(十一月下旬)長野県飯田市を訪れたさい、天竜川から上る霧で一面靄っていた現象と全く同じなので記しておくー

ある時、突然私にうかんできた想念は、こうであった。
 「金閣を焼かなければならぬ」
出奔にさいしては、柏木から金の工面をしてもらっていたが、それが柏木から老師に密告されていた。
「もう寺には置かれんから」と老師は言った。私の放逐がすでに老師の念頭にあるのであった。
私は、さらに、<決行を急がなければならぬ>と強く心にきめる。
 薬屋で100錠入りのカムモチン(催眠剤)と金物屋で鞘附小刀を買った。

 それにしても金閣の美しさは絶える時がなかった!その美はつねにどこかしらで鳴り響いていた。
 耳鳴りのこ疾(持病)を持った人のように、いたるところで私は金閣の美が鳴りひびくのを聴き、それに馴れた。音にたとえるなら、この建築は五世紀半にわたって鳴りつづけて来た小さな金鈴、 あるいは小さな琴のようなものであったろう。その音が途絶えたら・・・・・

自己の将来を完全に断ち切り、世俗的な自分の存在理由を無にしてしまったその後、私は自己の美学を完遂すべく金閣寺の放火を決行する。

投稿者:蘇る青春
投稿日:2010年12月 8日(水)19時08分44秒
「イギリス・化石採集の旅」
                     
和歌山化石研究会


 8月10日から18日まで、和歌山化石研究会(現職の先生方を含む)の仲間たち8人でイギリスに旅行しました。イギリスと行っても南部「ドーセット・東デボン海岸」の世界自然遺産に足を踏み入れたのでした。この一帯は2億5千万年前から始まる三畳紀から、ジュラ紀、白亜紀へと続く中生代の地層が連続して見られる世界で唯一の場所なのです。ライムリージス、フーケン・クリフ(ビアーヘッド)、チャーマウスという三カ所で3日間、化石採集を楽しみました。驚いたことに世界自然遺産でありながら,化石を自由に発掘しても,持ち帰ってもよいのです。気候の良い時期だけに、家族連れや世界各地からもたくさんの人々が楽しんでこの地に集まっていました。それから、ソールズベリに移り世界遺産「ストーンヘンジ」などの遺跡をめぐり、さらにバースの街に立ち寄りました。そして、ロンドンに戻り2日間観光をしました。

化石採集の成果

ここにメンバーのうち三人の成果の一部を紹介しておきます。

まず鈴木稔和氏の採集したアンモナイトの化石です。(※写真①)
水分を含んだ柔らかい泥岩なのでとても崩れやすいのです。乾燥すると少しは安定した堅さになっています。
一緒に参加された中学生の息子さんは、「将来、イギリスに住もうと決めました」と感想を述べていました。
$宮小同窓会ノート-化石1

次に、森かほり氏の「石ころの中に印象づけられたアンモナイト」です。(※写真②)
手のひらにのる大きさの石ころの中に見事に化石の形が残っているのです。化石は長い年月の中で溶けてしまったか,抜け落ちてしまったのでしょう。
明るくお元気な実家のご両親も参加されて楽しい旅にしていただきました。
宮小同窓会ノート-化石2

おしまいにリーダーの藤田勉氏の成果です。(※写真③)
現場ですぐに直径30㎝はありそうなでっかいアンモナイトの化石を見つけたのです。海岸の石ころの中に転がっていたのでした。これはすごいところだとみんな興奮しましたが、その後はなかなか見つけられませんでした。
宮小同窓会ノート-化石3
その他の化石や鉱石など採集できましたが,中でも白い「チョーク」の地層のすばらしさに感動してきました。ドーバー海峡あたりから白い崖が続いているのです。「チョーク」は未固結の石灰岩で、黒板に字を書くチョークと同じですが炭酸カルシウムの骨格を持つ海洋性の植物プランクトンの化石から成っているのです。

折り鶴外交

  藤田氏夫人藤田かすみ氏は、いろいろなところで外国の方々と出会うと折り鶴を折って見せてプレゼントして、日本の折り紙文化を伝えていました。ホテルに泊まってもチップと共にそっと枕元に折り鶴を置いてきました。それを手にした外国の方々の感動は言うまでもありません。これからは、旅行に行くときはスーツケースに折り紙も必需品として入れておきたいと考えました。みんなの手で、平和への願いを折り込んで世界に広げたいと思いました。まさに折り鶴の平和外交といえます。

旅の三つの楽しさ

この会の旅の三つのモットーは、
① 行く前に事前に下調べなどして楽しむ
② 化石の採集や観光・現地の人々との交流などして楽しむ
③ 行ってきてからのまとめ、そして成果の交流を楽しむ
です。これらは非常に大事なことと考えています。
例えば、旅行前にガイドブックを読んで下調べをしますが、PCのグーグルの地図では航空写真のほかピンポイントで宿泊したイギリスの田舎のホテルの側面の写真まで見ることが出来るのです。また化石発掘した現場の写真も映し出すことが出来ます。こうして事前にある程度確かな計画を立てることができ夢を描きながら楽しめます。なお、まとめの文集(冊子)はご希望があれば都合を付けられます。

ロンドン観光

一日目は各自、ロンドンの街を自由に回りました。森さんの家族は昼間観光して、夜はミュージカルの鑑賞に出かけられました。
私は疲れ気味で名所を歩いて見学するのはあきらめて、二階建てバスの一日券(チケット)を買って、まさにオープンカーにのってロンドン中を少し高いところから見て回りました。バスストップはたくさんありどこで乗り降りしてもいいのです。有名な場所や建物,通りなどはくまなく巡っています。ときたま、バスは街路樹の枝すれすれに走るので、端の座席にいると顔が枝葉に当たらないように避けながら見物しなければならず、これには笑えてきました。街を一周するのに3時間半ぐらい掛かりました。これでだいたいロンドンの街の雰囲気が感じ取れました。いったんホテルに戻って休憩して、またバスに乗り、今度はビッグベンのところで降りてテムズ川を遊覧船に乗りロンドンブリッジまで行きました。これもバス券に含まれているのです。そして散歩して,またバスにのって帰りました。
二日目は、みんなで大英博物館と自然史博物館を見学しました。
イギリスの自然や文化に触れて学ぶことの多い旅行でした。

どなたも参加できます!!

 今年の夏の旅行は,まだ決定されていませんが中国(貴州省や湖南省など)になる可能性があります。もし参加ご希望の方や関心のある方は藤田氏(事務局)等に問い合わせていただければよろしいかと思います。和歌山市退教協のメンバーも数人参加しています。
(文責 秋月久俊)


投稿者:トッサン
投稿日:2011年 1月 8日(土)18時48分21秒
読書 あれこれ その29

「三島由紀夫の来た夏」 横山 郁代著


 昭和四十五年までの七年間の夏を、避暑地として下田で過ごした三島由紀夫。
その間、下田で大正十一年創業の日新堂菓子店を経営していた作者が、描いた三島像である。
この本は、三島由紀夫の知られざる一面を垣間見る一冊である。

昭和四十二年か四十三年あたりから、八月十四、十五日に行われる下田の夏の風物詩、太鼓祭りに三島さんの姿が頻繁に見られた。三島さんは、日新堂菓子店のマドレーヌの大ファンでもあり、時間が許せばお店の方へ足を運んでいた。
あるとき、飲み屋へ来た流しのお兄さんと親しくなったこともあった。
三島さんは、こういう人たちが大好きだった。三島由紀夫が誰だなんて知らなくってもいい、ガラスのように透明な心でなんの偏見もなく、素顔の三島さんに接してくれる人たちを心から愛した。

三島さんが下田を愛した理由。それは、もちろん第一に海の魅力だったのだろうが、意外に下田の人たちのそっけなさ、シャイなやさしさというものが心地よかったのではないかという気もする。有名人が来ようがスターが来ようが騒がない。あっ来たの?きてるね、という感じで、あまり感情を表さない。
そして、下田に吹く風、これが下田の最大の魅力だと私は思っている。
「海からの風、磯からの風、山からの風、それぞれ違う」。匂いも違う。と三島が語る。

三島由紀夫さんの成長に少なからず影響をおよぼしたのは、祖母、夏子さんである。
夏子さんは、三島さんの生後四十九日目、父母から奪い取るようにして自分の部屋に連れてゆき、十三歳まで同居した。男の子の遊びは危険だからと、一切の運動を禁じ、お気に入りの女の子たちを遊び相手にさせたため、ままごと、おはじき、絵本を読む子供時代だった。
やんちゃになりたい幼児期に動くことを禁じられた三島さんは「見ること」で、ひたすら見て感じることで他の子供と同じ喜びを得ていたのかもしれない。
祖母のもとで暮らした三島さんの幼少期の回想は「仮面の告白」に描かれている。

また、母、倭文重さんの愛に満ちた理解は、氏の文学的才能を誰よりも早く発見し、充分に引き出し、世に送り出した。三島さんは原稿を書き終えると必ず母に読んでもらって助言を素直に聞いたという。
息子をひ弱な文学者などにしたくない父、梓氏は平岡家の伝統に従って、東大法学部のエリートである息子・公威(三島由紀夫の本名)を従来のまま、大蔵省に留めておきたかったのだが、どうしても文学の道にいきたくて退職した三島さんを励まして勇気づけ、懸命に応援したのが倭文重さんだった。

 昭和四十二年から四十五年の三年間、三島さんは「武士」として、死ぬ道を模索していたようだ。
 楯の会結成、「太陽と鉄」「行動学入門」の刊行、「奔馬」の中の血判書の場面も、昭和四十三年 に銀座の「論争ジャーナル」の事務所で実際に祖国のために、と指を切って同じ行為をしているのでそれをヒントにしたと考えられる。また、小説中の変電所の襲撃のプランは、三島さんたちが学んだ都市ゲリラの中にあったのかもしれない。

昭和四十五年(1970)夏の三島さんに死の影などみじんもなかったと、作者の母はいう。ただ「来年はもう来られない」というはっきりした言葉を聞いた。
その秋の十一月二十五日は、朝から青空がひろがる小春日和の美しい日だった。
「作家の三島由紀夫が市ケ谷の自衛隊駐屯地へ乱入し、東部方面総監を監禁し、その後、割腹自殺を図ったもようです」とテレビがあわただしく告げた。
日本を憂える三島由紀夫は、「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このままいったら[日本]はなくなってしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであらう。」と遺書を残し割腹して、誰かに介錯された。

{その鍛え上げられた肉体と、ストイックなまでに研ぎ澄まされた精神が、自決という行動に走らせたのだろうが、私には疑問が残る。}

1980年代の経済バブルを見事に三島さんは言い当てた。現在の日本はというと、コロコロと世界に類を見ない速さで首相がかわる不安定な「自信のない国」になっている。デモもクーデターも若者の反抗もなし、平和ボケは極まっている。と作者は語る。

なお、三島由紀夫には、次の三人とも親交があった。
 川端康成は、文学の最大の恩師であり、石坂洋二郎とは、同じ宿の常連で共に小説を書いた仲である。また、後輩である横尾忠則は、深く敬愛していた三島のエッセイ集や、単行本のイラストレーションやポスターの装丁など手掛けた。

三島文学は小説もさることながら、おいしいエッセンスがいっぱい詰まっているのが、戯曲群だと作者は述べている。
実はこの本の誕生は、作者が高校生の頃、演劇部で活躍し三島由紀夫の「愛の不安」を、文化祭で上演した。その当時、日新堂菓子店によく来てくれていた三島さんにそのことを話したところ、「遊びにいらっしゃい」と、滞在先のホテルに誘ってくださった三島さんに、とうとう再会できなかった私の片思いから出発した本です。と打ち明けている。

投稿者:蘇る青春
投稿日:2010年12月22日(水)20時51分16秒
師走にサクラ満開


 和歌山県上富田町市ノ瀬の国道311号沿い、一乗寺バス停そばでサクラが満開になっている。夜間は街灯に照らされ、道行くドライバーを楽しませている。


 地元の人によると、数本あるサクラのうち1本だけ、毎年この時季に白い花を咲かせる。種類ははっきり分からないが、今年は例年より若干遅いという。

 日が暮れて街灯が点灯すると、木の周辺がふんわりと白く浮かび上がって見える。

【街灯に照らされ浮かび上がった見ごろのサクラ(和歌山県上富田町市ノ瀬で)】
宮小同窓会ノート

紀伊民法AGARAモバイルサービス
(2010年12月03日更新)
乗鞍岳へ

10月23日(日)にバスツアーで乗鞍岳に登りました。
この気候の良いときに、しかもほぼ40年ぶりの乗鞍です、行きたいときに行っておかないと思ったからです。
高山の街から乗鞍岳が東に見えます。その山容から、もこもこといくつもの高い山が連なって出来ていることが分かります。
乗鞍火山は複数の火山が集合した複合火山なのです。
現在の姿になったのはほぼ9000年前のことだそうで、5つの火山体がそれぞれ128万年ぐらい前から活動して形成されてきたのです。

ところで、マグマの化学組成で、重量で最も多いのが二酸化ケイ素(Si2O)です。
二酸化ケイ素(Si2O)は石英、ガラス質なのです。
そこで火山岩の分類はこの二酸化ケイ素の割合によって大きく4つに分けられています。
玄武岩→SiO2が45~53%・・・(一般に黒っぽい)
安山岩→SiO2が53~63%・・・(一般的に灰色)
デイサイト→SiO2が63~70%・・・(流紋岩との中間で灰色をしているのが一般的)
流紋岩→SiO2が70%以上・・・(一般に白っぽい)
そして、二酸化ケイ素の割合は、マグマの粘性に関係しています。一般的に二酸化ケイ素の割合が増えるにしたがい、粘性は大きくなります。この粘性は,大きくなるほど水飴のように流れにくくなり、粘性が小さくなるほど水のように流れやすくなります。

乗鞍火山は安山岩およびデイサイト質の厚い溶岩流を主体として成り立っていて、火砕流や降下火山灰などの火砕物が少ない特徴があるそうです。日本の火山は、大方はこの安山岩質の山が多いようです。
肉眼では二酸化ケイ素(Si2O)の割合は分かりませんが、ごろごろしている岩石を観察すると灰色をしているので安山岩,あるいはデイサイトなのでしょう。
主峰は剣ケ峰で3026mあります。観光バス駐車場の畳平から片道で90分かかるとありますので余裕の時間はありません。剣が峰からだと360度見渡せて、すぐ南側だろうか御嶽山が見えるはずです。またの機会に置いておこう。

 この日も天気が良くて、穗高連峰、槍ヶ岳などがよく見えました。これらの山は隆起して出来たのですって。槍ヶ岳が東に傾いているのがよく分かりますが、東と南からプレートが圧力をかけてきているのです。左手に焼岳が見えます。手前は上高地になります。時々、高くけわしい山々を眺めるというのもいいものですね。

※ 東海北陸自動車道を通りましたが、白鳥から荘川辺りでところどころ片側二車線から一車線になり対面通行となるため渋滞がおこりやすいのです。それで国道に降りて走るという事がしばしばありました。それから、名神が混んでいることが多いので西名阪を利用する事が常なんだなと分かりました。バスの運転手は道路情報を確かめて、臨機応変どのコースを取る方が早いかを選んでいるようです。
宮小同窓会ノート-乗鞍岳へ1
写真① 魔王岳(2764m)から写す。下に畳平駐車場、そして一番奥の高い山が主峰・剣が峰

宮小同窓会ノート-乗鞍岳へ2
写真② ちょっとピンぼけですが安山岩かデイサイト 肉眼では区別がつかない

宮小同窓会ノート-乗鞍岳へ3
写真③ 穗高連峰、槍ヶ岳などが近くに見えます。すぐ下が上高地になる。

投稿者:高山 厳 投稿日:2010年12月 4日(土)20時29分39秒
読書あれこれ その27 
「母」 オモニ 姜 尚中著


 母、㝢順南(通名、春子)は慶和洞で生まれ16歳の春に姜大㝢(通名、永野馨也)に嫁ぐ。字を知らない母であるが、その当時、学齢期に達した朝鮮人児童、とりわけ女子ではそうであった。

姜一家は出稼ぎに東京近郊の軍事工場で働き、その後、熊本の春日五丁目で生活を始める。

やがて父は、万日山の中腹を切り拓く土木工事に従事するようになった。

在日として戦前戦後を日本で生きてきた彼らには、相当な艱難辛苦があり、一種の人種差別に似た日本人のふるまいもあったようで、「どうしてチョーセンで悪いの。チョーセンが何をしたというの。何でこんな仕打ちをされるの。あんたらにそんな権利はなくてよ」と怒り狂った母の殺気は、まるで夜叉のようだった。という一節でもその一端が窺える。

母は苦しいとき、「茶摘みの歌」を唄って明るく乗り越えてきた。
このころの祖国の事情は年毎に険悪になっていった。一九四八年(昭和二十三年)八月には南に大韓民国が、九月には北に朝鮮民主主義人民共和国がそれぞれ建国され、南北間の子競り合いが絶えず、祖国は不穏な空気に包まれていた。

母、順南と父、大㝢のあいだに三人の男の子に恵まれる。長男、春男を名古屋大空襲の際、衰弱のため亡くす。その後二男、賛中(通名、正男)と三男、尚中(通名、鉄男)を授かる。

戦争は、干涸びた大地に突然降り注ぐ恵みの雨だった。
母が副業で回収業もどき(銅線やアルミニウム、真鍮などの回収)をやっていたが、父は、生まれてはじめて40坪程の自分の土地を手に入れ、永野商店の小さな看板を掲げ、二人で廃品回収業の正業を営むことになる。

その後、永野商店は順調に成長していった。

正男は中学生のころ番長でヤクザまがいの男と口論になり、強い外傷による網膜剥離となってしまった。
また、鉄男にも母は「勉強しなさい」と小言をいうことなど、一度としてなかった。プロ野球選手で活躍している、母国の張本さんのような立派な選手になれと励ました。

一方、ストレスから母は胆石による疝痛発作で転げ回るしかなく、ついに手術を行う。

三か月におよぶ入院で、母の生活のリズムは完全に狂ってしまった。・・・・

今までカンコクやチョーセンと聞いただけで、逃げ出したくなっていた鉄男は、韓国から上京する叔父のテソンと会ったこともさることながら、当時、山村青年-山村政明(梁政明)が自ら命を絶った事件があり、「何だろう、何かが見え始めているのに、まだハッキリとわからない。韓国に行ってみれば、それがわかるかもしれない。そうだ、いってみよう。叔父テソンのところに。行けば、このもやもやが晴れるかも・・・・・」と考え渡韓するが・・・・・・

オモニ(順南)は、二〇〇五年四月三日死去。
一周忌を終えたとき、遺品の中から見つかったテープは、文字の書けなかった母から息子へのラストメッセージであった。

テツオは、オモニよりはるかに勉強して、学もあるばってん、世間の本当の冷たか風にあたってたわけじゃなかけん、人のオモテとウラがまだようわからんど。ばってん、ヨソの国で住めば、今まで以上にそこんところがわかるようになっとじゃなかね。
お前はいつも、ずーっと先のことばっかり見とるごたる。ばってん、足元も見らんと。そのふたつができれば、鬼に金棒たいーこがん時は鬼に金棒て言うとだろ。

*十月放送のNHK「あさイチ」に出演中の姜 尚中氏を拝見し、もっと深く彼を知りたくなりこの書籍と出会う


投稿者:蘇る青春
投稿日:2010年11月 7日(日)18時12分0秒