「大人の流儀」 伊集院 静著

 伊集院静のエッセイ集。彼のポリシーと共感できるところを拾い上げてみる。

*大人が人を叱るときの心得

 パワーハラスメントなる言葉があったりして、言い方にも注意が必要だという。-あまりガミガミ言って嫌われるのもナ・・・・・。 イジメと思われてもナ・・・・・。
 この頃は、さまざまな理由で職場の中で怒る人が少なくなっている。  ”それは断じて違う”
 ・怒りなさい。 ・叱りなさい。 ・どやしつけなさい。
 言い方に気を配ることなどさらさら必要ありません。あなたの言葉で、ダメなものはダメだと言いなさい。
 「何をやっているんだ」 「仕事を何だと思ってるんだ」 「そんなこともできんのか」
 社会というものは、学校とも、サークルとも、家庭とも・・・・。まるで違う場所であることを教えなさい。
 それで新人が、「そんな言い方は・・・・」「そんな理不尽な・・・・」と思うなら、それで結構だと、私は考えている。私は、人が社会を知る、学ぶ上でのいくつかの条件のひとつは、”理不尽がまかりとおるのが世の中だ”ということを早いうちに身体に叩き込むことだとおもっている。
 
*大人の仕事とは、なんぞや

 ただ金を儲けるだけが目的なら企業とは呼べない。企業の素晴らしい点はそこで働く人々の人生を背負っていることだ。
 当然人々には家族があり、そこには未来が(子供たちのことと考えてもらっていい)かがやいている。それらのものをすべてかかえ、なおかつ企業は社会をゆたかにし、人々に何らかの貢献をしていなくてはならない。
 若い人たちは給与で企業を判断するが、己の半生を預け、そこで懸命に働くことが人間形成につながるかということこそが肝心なのだ。

*敗れて学ぶこともある

 高校野球の宮城大会の決勝戦は、仙台育英高校対気仙沼向洋高校であった。バケツ雨で試合は二度中断した。それはしかたないとしても、最終スコアーが、なんと28対1である。ここまで点を取って勝つのは、まぎれもなく間違いである。
 シード校がこんな試合をして・・・・。いやシードだからこうなる。今のシード校の選手は大半がスカウトされ越境入学してきた選手である。同県の対戦相手に幼馴染はいない。いれば、-もう勝負は決した。あとは対戦相手にもいいゲームにして欲しい。と願うものだ。 それが男のスポーツだ。

*大人はなぜ酒を飲むのか

 若い人に無理に酒を飲みなさい、とは言わない。体質もあるだろう。自分が二日酔いで苦しんでいる時など、酒のない国に生まれりゃよかった、とおもうこともあるくらいだ。
 上司や、恩師、仲間と過ごすのに酒が話の潤滑油になるのも本当だろう。
 しかしそんなことではない。私が酒を覚えていたことで一番助かったのは、どうしようもない辛苦を味わわなくてはならなかった時、酒で救われたことだ。
 眠れない夜もどうにか横になれた。どんな生き方をしても人間には必ず苦節が一、二度むこうからやってくる。それがないのは人生ではない。人間は強くて、弱い生きものだ。そんな時、酒は友となる。

*あなたが生きているだけで・・・・・

 ”五風十雨(ごふうじゅうう)”
 これは農作業に適した天候のことを表す言葉で、五日ごとに風が吹き、十日ごとに雨が降ることで、これが普通の天候だという意味だ。
 この天候の順調さを喩えに、今、天下は太平に治まっているの意味となり、細かいことに憂いを持たず悠々といきればいいとの教えになっている。

*喧嘩の勝敗は覚悟で決まる

 一家の食卓で、いくら子供は食べ盛りでも、家長と子供が同等ではおかしいのではないか。家庭の中で妙な平等を教えるから、世の中に出た時、社会までが平等と誤解してしまう。
 懸命に働いて帰ってきた家長の晩酌のビールがいつも発泡酒ではおかしいのではないか。きちんとしたビールを出せ。きちんとしたウィスキーを出せ。
 子供の記憶にきちんと植えつけるのだ。「オヤジ(パパでもいいが)いい酒を美味そうに飲んでるな」

 -当たり前だ。ワシは働いとるんだ。 つまり物の値段とは正当な労働と同じ価値のものなのだ。

*墓参りの作法

 或る時、家族思いで有名な黒岩さん(作家の黒岩重吾氏)に盆、正月の過ごし方を訊いたことがあった。
 「馬鹿者、作家に盆も正月もあるか。そんな時、働かんでいつ働くんや」 

-なんだ、そういうことか。

 「盆は恩師、先輩の墓に行け。それを欠かしたらあかん」
 今春、私は和歌山に黒岩さんの七回忌に出かけた。墓参が果たせていなかった。
 命日の朝と書いた。これは肝心なことである。
 墓参、もしくは故人に手を合わせるのは昼までにすませる。午後になれば時間の吉凶が悪くなる。時刻の柄がよくない。
 これは守った方がいい。 夕刻、墓参りに行くのは年寄りや寺の者に見つかると忌を抱かれる。幽霊も出るしね。

*大人が葬儀で見せる顔

 葬儀に出席したら大人の男はどんな顔をしておくのか。式の長い短いはあるが、その間中、故人との思い出をずっと思い起こしておけばいい。嘆くもよし、笑うもよし。それが人を送ることだ。
 通夜は早く行って、早く引き揚げる。それでなくとも家族は疲れているのだから。残された者を労(いた)わる。
 相手はもう死んでしまってるのだから・・・・・。

*愛する人との別れ  ~妻・夏目雅子と暮らした日々

 夏目雅子との出会い、闘病、死別について綴られている。
 これまで伊集院静は夏目雅子について執筆の依頼がたくさんあったが書いてこなかった。 むしろ、冷静に文章を書けなっかったのが本当のところである。

 親しい方を亡くされて戸惑っている方は多いでしょう。私の経験では、時間が解決してくれます。だから生き続ける。そうすれば亡くなった人の笑顔を見る時が必ずきます。最後に、数年前に観た映画でのチェチェンの老婆のせりふを紹介します。
 「あなたはまだ若いから知らないでしょうが、哀しみにも終りがあるのよ」

投稿者:蘇る青春
投稿日:2011年 9月18日(日)16時18分

読書 あれこれ その50




「鉄道員(ぽっぽや)」

  

浅田 次郎著




 佐藤乙松(おとまつ)は幌舞(ほろまい)駅の駅長で今年で定年を迎える。終着駅の幌舞は、明治以来北海道でも有数の炭鉱の町として栄えた。
キハ12形気動車は余命を嘆くように、老いた笛を山々に谺(こだま)させた。
「ところでよ、乙さん。俺、来年の春に駅ビルに横すべりできることになって」 「そうかい。そりゃ良かった」
「そんで、あんたも美寄(びよろ)に出てこんかと思ってね。・・・・・」と仙次(美寄中央駅の駅長で来年定年)は言ったが「ありがたいけど、遠慮しとくわ」と好意を断った。

仙次の子供の秀男も成長し、札幌本社の課長になっているが昔は皆んな乙松の世話になったものである。
<おっちゃん、俺ね、心の底からおっちゃんに感謝してるんです>
「ほんくさいこと言うんでないって。照れるわ」
<いや、本当なんです。俺、ずっと頑張ってこれたのは、おっちゃんが雨の日も雪の日も、幌舞のホームで俺らを送り迎えしてくれたからね、うまく言えんけど、俺、おっちゃんに頑張らしてもらったです>
「そんなことで北大に入れるものかね。上級職の試験だっておめえー」
<だから俺、うまく言えんけど。みんなそうだと思うよ。東京に出た連中だってみんな、おっちゃんのことわすれてやしないから>

ふと、出札口のガラスが叩かれて乙松は額を上げた。おさげ髪の女子高生が、ギャバ地のコートの雪を払っていた。
「こんにちは、駅長さん」  ていねいに頭を下げるしぐさに見覚えがある。ゆうべの子供たちの、またその上の姉が忘れ物を取りに来たのだと気付くと、乙松の心はたちまち晴れた。
「みんなして、親御さんの里帰りだかね」 「はい」と、少女は腰まで届くおさげ髪を縄のように振って見返った。
ははあ、と乙松はようやく気付いた。 「あんたら、円妙寺の良枝ちゃんの子だべ」 「え?」と、少女は一瞬とまどってから、またころころとわらった。  「似てますか」・・・・・・

少女は決して饒舌ではなかったが、老駅長の語る思い出話を、いちいち感動をこめて聞くのだった。一番つらかったことは何かと訊かれて、乙松はふた月で亡くした娘のユッコの死を語らなかった。それは私事だからだった。佐藤乙松として一番つらかったことはもちろん娘の死で、二番目は女房の死にちがいない。だがポッポヤの乙松が一番悲しい思いをしたのは、毎年の集団就職の子らを、ホームから送り出すことだった。
ポッポヤはどんなときだって涙のかわりに笛を吹き、げんこのかわりに旗を振り、大声でわめくかわりに、喚呼の裏声を絞らなければならないのだった。ポッポヤの苦労とはそういうものだった。

「さあて、おねえちゃん行くべや。デコイチのプレート持ってけ。そうそう、お人形も忘れずになあ」そう言って湯気に曇った事務室の扉を開けたとき、乙松はぎょっと足を止めた。
  (・・・おっかあ)  いや、ちがう。だが座敷にちんまりと座った赤い綿入れ半纏の後ろ姿が、一瞬死んだ女房の背中に見えた。・・・・・・
小さなちゃぶ台の上には、干物と玉子焼きと野菜の煮つけが、二人分きちんと置かれていた。
「もしもし。ああ、和尚さんかい。明けましておめでとう。おねえちゃん、すっかり引き止めちまった。いやあ、めんこい子だねえ。いま飯まで食わしてもらってるべさ」
円妙寺の和尚の電話は、帰りの遅い孫娘を気遣ってのものではなかった。とんちんかんの後で和尚は、今年の供養はどうするか、と言った。


「ひゃあ、幌舞線のこんな身入り、初めて見ただべさ。満員だわ」「あったりめえだ。勤続四十五年の駅長が死んだだぞ。そこらの偉もんの葬式とはわけがちがうべ」
「しかしまあ乙松さん、じゃなっかた幌舞の駅長、いい顔してたなあ。俺もあやかりてえなあ。ほれ、そこのホームの端の雪だまりにね、しっかり手旗にぎって倒れてたですよ。口にゃ警笛くわえて」
「もういい。もうその話はすんな」 仙次は運転台に乗りこむ前に、ホームの先端に立って雪を踏んだ。
「大往生だべさあ。雪のホームで始発を待って、脳溢血でポックリなんてーおい、運転かわれ。俺が乙さんを送ってやるべ」 仙次は機関士を押しのけて、キハ12形の狭い運転台に座った。

 世の中がどう変わったって、俺たちはポッポヤだ。ポッポーと間抜けな声を上げ、鋼の腕を振ってまっすぐに走る ポッポヤだから、人間みたいに泣いちゃならんのだと、仙次は唇を噛みしめた。

       *第117回直木賞受賞作


投稿者:蘇る青春

投稿日:2011年 9月11日(日)18時45分0秒

読書 あれこれ その49
「ふるうつさろん」森本 純平著

 誰でも手軽に読める内容で果物の原産地や、言われ、またどういう形で伝来されたかなど述べられており、味わい深い本である。私の独断と偏見で一部抜粋してみることにする。

*日本が誇る温州みかん

 [和歌山生まれの和歌山育ち、これを見逃す手はあるまい]
 成熟期に雨が多いと糖度が低くなってしまうので、地表面にビニールなどをマルチ(被覆)して、降雨の流入を防ぐ。
 また、大きな果実は比較的大味で、淡白になるため、それを避けるために、枝にまとめてやや多めの果実を結実させるなどしている。

*リンゴにかけた想い

 [娘が飯田市に嫁いでいるため、リンゴははずせない一品]
リンゴも梨と同じように、果実は袋でおおって育てる。多雨多湿の風土の中、病虫害を防ぐための方策である。葉緑素の 形成を抑え、袋を取り除いた後に果実の色を鮮やかにさせることにも役立っている。

*ビタミンCが豊富なキウイ

 [2007年第43回ロトルアNZマラソン参加。思い出深い旅としてキウイは忘れられない一品]
 ニュージーランドに生息する、飛べない鳥のキウイによく似ていることからこの名前がつけられ世界的に有名になった。
 しかし原産地は中国中部であり、「シナサルナシ」と呼ばれ、古くからその存在が知られ、利用されていたのだが、一九〇四年にニュージーランドに移入されて栽培され、改良されたものである。

*桃は岡山,桃太郎

 [2007年第1回山東黄河国際市民マラソン参加。また、あら川に親戚があり毎年頂戴する桃の美味しさは脳裏から離れな い一品]
 中国の山東省は、落葉果樹の大産地だ。私もこの桃源郷を一度訪れたいと思っているのだが、果たせていない。せめて「あら川の桃」で名の通った桃山町(和歌山県紀の川市)を訪ねることを楽しみにしている。

今回取り上げていないが、今後、イチゴ、メロン、スイカなどもぜひ紹介していただきたい。
圧倒的に柑橘類が多く登場するので、興味のある方は一読の価値ありの一冊である。
なお、著者は果樹園芸試験場に長年勤務した果物栽培のプロである。

投稿者:蘇る青春
投稿日:2011年 9月10日(土)13時39分31秒

読書 あれこれ その48

投稿者:蘇る青春

投稿日:2011年 8月30日(火)11時59分9秒



「東京ロンダリング」

  原田 ひ香著


 内田りさ子は夫の仕組んだ計画にのせられ離婚してしまった。そこでこれまでほとんど行ったことの ない、知っている
人間がだれもいない、高円寺で相場(あいば)不動産に世話になることになる。
そこでりさ子はロンダリングという仕事に就く。ロンダリングとは「不動産業者には次の店子(たなこ)にそれを伝える義務
があるけれど、正直に伝えると、だれも住みません。家賃を安くすると、大家さんが損害をこうむります。私のような人間が
一ヶ月住んで、また何事もなかった部屋みたいに貸し出すんです。一度、だれかが住めば、伝える義務がなくなるそうです。
私たちはロンダリングとか浄化とか呼んでいるのですが」とりさ子は答える。
「あんたたちが入ってロンダリングしてくれれば、俺も助かる、大家も助かる、次に入る人間も助かる。事情を知らなければ
、ほとんどの人間は気がつきゃしないんだ。俺たちは法は犯していない。東京は狭くて不動産は限られている。しかも、人が
やたら死ぬ。変死した人間がいる部屋がどんどん使えなくなったら、だれも住めなくなっちまう。あんたたちがやっていることは
は人助けなんだよ。いや、東京助けなんだな」と不動産屋の相場はりさ子に言う。
「東京助け」
「ま、そういうことだよ。あんただって、合わない物件もあるだろうし、そういうところで我慢する必要はない。すぐに言うん
だ。仕事はまた紹介してやるから」 「はい」
「今や、あんたはうちのエースだ。菅大(だい)先生には入れない物件にも、あんたなら入れる。あんたは女だし、感じがよ
くて一見普通に見えるからな」
「一見普通」・・・・・・
いつもにこやかに愛想よく、でも深入りはせず、礼儀正しく、清潔で、目立たないように。そうしていれば、絶対に嫌われな
い。ロンダリングの仕事をする心構えとして言い渡されたことだった。相場はそれをりさ子に何度も復唱させる。
そしてその部屋に住めば、家賃はいらないし一日五千円、日当を支払われる。だから、働く必要もない。・・・・・

今度の物件は台東区の「『乙女アパート』二○一号室」である。食事はアパートからほど近いさびれた商店街の「富士屋」を
利用することもあった。
富士屋は、息子の藤本亮と親子二人で経営しており、ある日親父さんが椎間板ヘルニアで入院した。
りさ子は乙女アパートの大家の真鍋夫人からの、たってのお願いで断りきれず「じゃあ、少しだけなら」という約束で「富士
屋」のお手伝いをすることになった。・・・・・・

「富士屋」を訪ねてきたのは、相場でなく菅のほうだった。
「いろいろあるんです、僕も」  「なにかあったんですか」 「ちょっと・・・・」 菅は言いたがらなかった。

亮は「うちの店に、ずっといてもらえませんか。父ももう歳で、退院しても前と同じように働けるかわからないし、負担も
減らせないかと思っているんです。りさ子さんがこれからも店を手伝ってくれたらありがたいんだけど」
彼の言葉の意味することがわかって、りさ子は驚いて亮の顔を見つめた。亮もりさ子の顔をまっすぐに見た。
「ごめんなさい、私、無理です。ロンダリングをしないと、生活できないんです」とりさ子はつぶやいた。亮はわずかにうな
ずいたように見えた。

「菅さんがいなくなったんです」突然相場の事務所から携帯に連絡が入った。
相場から「菅先生はロンダリングとして三カ月の約束で入っているし、スカイガーデンの中じゃ顔を知られている。今いなく
なったことが公になったら大騒ぎになるから菅先生の海外赴任が早まったことにして、あんたが菅先生の姪っ子のふりをして
あの部屋に入り、残りの期間をのりこえて欲しい」
実はこのスカイガーデンは、ジャパン地所が手掛けているものでロンダリングとして相場を指名してきた。この仕事にはいい
においがするのでどうしても手放せない。・・・・・・
りさ子はスカイガーデンレジデンスに入った次の日、「富士屋」のことが気になっていた。相場はちゃんと朝一番でこの事情
を真鍋夫人に連絡してくれただろうか。今頃、亮はランチの下ごしらえをはじめているに違いない。真鍋夫人はなんと亮に
伝えたのだろうか。ふたりとも怒っているのかもしれない。しかし、仕事だからしようがないと思っているのかも。そんなこ
とをつらつらと考えているうちにりさ子はまた引き込まれるように眠ってしまった。

ある日、菅さんから公衆電話が入る。
「違うんだよ。僕はもう、そういう表の場所には出られないんだ」菅の声に力はなかった。
「もう、ダメなんだよ」 りさ子はその理由を聞きながら寝室のカーテンを開け、丸の内の街を見下ろした。
整備された完璧に造られた、美しい街だった。そして、その街の中で菅は痛めつけられ、絶望させられていたことを知った。

「菅さんは、誘われるまま、このタワーマンションの一室にある違法カジノに行きました。そして、当然のように負けて、
借金を作ってしまった。でも、菅さんが負けたのは百万円ほどだそうです。それなのに、向こうから要求されたのは三倍の
金額だというじゃないですか」
「いいえ、ただ、マンションの中に違法カジノがあって、そこに誘われた一般の市民が無理やり借金を作らされて、逃げ
惑うはめになったなんて、そんなイメージはまずいですよね、とお聞きしているんです」
「なるほど」ジャパン地所の高橋はうなずいた。 「お話の趣旨はわかりました。で要求はなんですか」
「ここに百万円あります」りさ子は封筒から帯封のついた札束をちらりと見せ、高橋との間に置いた。「これをお預けします
ので、あちらの方と話をつけていただけないでしょうか。いくら違法とはいえ、三倍になるなんて途方もない話ですし、大家
のジャパン地所にはあちらもそう滅多なことはできないはずですし」

高橋が指示したテーブルに座っていた亮が、りさ子の隣に立った。 「ちゃんとできたでしょうか」
「全部が聞こえたわけじゃないけれど、大丈夫、練習通り、ちゃんと言えてましたよ」
亮はりさ子の前の、高橋がいた席に座った。 「終わりました?」 「はい。これでもう、本当に終わりました」
「じゃあ、行きましょうか。菅さんを迎えに」 「菅さんを迎えに」
亮はりさ子の手を取った。ふたりは丸の内スカイガーデンレジデンスを出て、東京駅に向かってまっすぐに歩いていった。

読書 あれこれ その47

投稿者:
蘇る青春
投稿日:2011年 8月16日(火)11時34分53秒



「人間はどこまで耐えられるか」
   フランセス・アッシュクロスト著
   矢羽野 薫=訳

 本書は極限の環境における人間の生理学的な反応を説明しながら、人間が生きのびる限界を探る。

 第一章  どのくらい高く登れるのか
 第二章  どのくらい深く潜れるのか
 第三章  どのくらいの暑さに耐えられるか
 第四章  どのくらいの寒さに耐えられるか
 第五章  どのくらい速く走れるのか
 第六章  宇宙では生きていけるのか
 第七章  生命はどこまで耐えられるのか
以上の章から構成されているが、興味を惹かれた部分をピックアップしてみた。

 *深海の生命
  深海には石油や鉱物資源という財産が大量に眠っていて、バクテリア酵素などバイオテクノロジーや医学に革命をもたら
  すであろう自然の産物があり、科学者がほとんど手をつけていない独特の生態系がある。
 *ほてる体
  哺乳類の精巣は低い温度を保つように、体の外にある。体にフィットするズボンはセクシーに見えるが、皮肉なことに、
  実は男性の生殖機能を衰えさせている。精巣を締めつけて熱の発散を減らし、ひいては精子の生成を減らしているという
  わけだ。
 *熱中症
  熱中症の主な原因は、暑い中で運動をすることだ。体の不調や、長時間の運動中にあまり水分を取らないこと、そして
  運動を急にやめることもリスクを増やす。・・・・・・・
  熱中症は医学的な緊急事態であり、すみやかな治療が必要だ。治療が遅れると体温の上昇によって脳がダメージを受け、
  その後に治療をしても死亡率は三〇%を超える。患者の体を冷やす最も効果的な方法は、生ぬるい水に浸したスポンジで
  全身を拭うことだ。・・・・・・・
 *五二〇〇年前のミイラ
  中枢温度(体の芯の温度)が三五℃を下回ると、中度の低体温症が起こる。まず、体が激しく震える。細かい動きはもち
  ろん全般的な筋肉の協調にも支障が出て、歩くのもやっとになり、すぐにつまずいて転びやすい。精神的な影響も生じる
  。言葉が不明瞭になって、思考が緩慢になり、合理的な判断ができなくなるだろう。・・・・・・
 *「死」からの生還
  中度の低体温症の場合は、体を最も早く温める方法はお湯の中に入れることだ。重度の患者には温かい空気を呼吸させ、
  肌に温かい空気を吹きかけ、静脈から抽出した血液を人為的に温めてから体に戻して循環させる。極度に冷えているとき
  は、体温を上げると不整脈が起きやすい。心臓が停止した後はとくに注意が必要である。
 *酸素を求めて
  運動がもたらす恩恵は、体力増強だけではない。気分も高揚するだろう。ランナーの脳にはエンドルフィンという化学
  物質があふれている。内生モルヒネ(endogenous morphine)という名前の由来からわかるように、エンドルフィンは脳
  内でモルヒネと同じ受容体と反応し、アヘンのように痛みを和らげ、リラックスと快感をもたらす。
  なんとなく生活に飽きたと感じている人は、外に出て少し運動をするといい。エンドルフィンのおかげで気分が高揚する
  だけでなく、正義感さえわいてくるだろう。
 *命の綱渡り
  宇宙船は、宇宙の極限状態から乗組員を守らなければならない。地上から七〇〇キロ離れた宇宙空間には無数の微小な
  ガス分子が漂い、気圧はほぼ完全な真空状態に近い。したがって、宇宙船は呼吸できる密度の空気を供給すると同時に、
  極端な気圧から乗組員を保護する壁の役目も果たしている。さらに宇宙空間はマイナス二七〇℃ととてつもなく寒いが、
  太陽光線の通り道にある物質はすぐに熱くなる。つまり、宇宙船には温度調整システムも不可欠で、極端な熱さとも寒さ
  とも戦わねばならない。・・・・・・・
 *生命の木
  始原菌と細菌は、極限の環境における真のプロフェッショナルだ。煮えたぎる湯の中や、腐食性の高い塩湖、強烈な酸、
  濃度の高い塩水、恐ろしいほどの圧力、さらには地中の岩石の奥深くでも生きのびる。・・・・・
  始原菌は環境の浄化や汚染防止、エネルギー生産など、さまざまな分野で大きな可能性を秘めた微生物である。・・・・・
 *暑さを愛する
  ブラックスモーカーは、いわば水中の間欠泉で、海底の噴出孔から鉱物の沈殿物とともに超高温の水が勢いよく噴き出して
  いる。大洋中央海嶺では地球の中心核のマグマが地表まで上昇し、構造プレートを押し分け、冷やされて硬くなり、新しい
  海底を形成している。・・・・・
 *酸素なしで生きる
  酸素なしで生きられる多細胞生物はほとんどいない。一方、始原菌や細菌には、ほんの少しでも酸素に触れると死ぬ種類
  も多く、酸素がない環境でしか生きられない純粋な嫌気性微生物もいる。湖や海の底にたまったヘドロや泥沼、下水処理
  場、さらには動物の内臓など、酸素がない環境はたくさんある。
  このような環境で生きる嫌気性微生物の中には、水素をエネルギー源とし、成長に必要な酸素は二酸化炭素の分解から得て
  、その過程で大量のメタンを生成する種類もある。このような始原菌はメタン生成菌と呼ばれ、その多くは球状をして
  いる。・・・・・・
 *冷凍保存の夢
  人工授精に使われる精子は、液体窒素でマイナス一九六℃以下で冷凍保存される。もとは家畜の精子を保存するために
  開発された技術だが、一九五三年には人間の精子でも成功した。凍結された精液は数一〇年間も受精能力を持ち、人間でも
  一五年以上保存されていた精液で受精に成功している。・・・・・

  ・・・・・しかし、人間を冷凍保存できるという発想は、ある意味では正しい。個々の遺伝子は残るのだ。ただ、そのため
  に数個の細胞があれば十分で、血液だけでも足りる。人間の赤血球には細胞核も遺伝情報もないが、白血球のDNAには
  必要な遺伝情報が含まれている。たった一個の白血球細胞から人間をつくれる時代も近いだろう。・・・・・・・ d

読書 あれこれ その46

「下町ロケット」 池井戸潤 著


 主人公・佃航平は宇宙工学研究所の道をあきらめ、東京都大田区にある実家の佃製作所を継いでいた。佃製作所の業種は、精密機械製造業。佃が社長になってからは、より精度が求められるエンジンやその周辺デバイスを手掛けるようになった。
売上げの一割近くを下請けしていた京浜マシナリーから「実はね、佃社長にわざわざお越しいただいたのはウチの調達方針が変わったことをお伝えしようと思ったからなんだよな」と突然の取引停止、さらに競争相手のナカシマ工業からステラの技術について特許侵害の疑いで訴えられるなど、大企業に翻弄され、会社は倒産の危機に瀕していた。
セイレーン―。ふと、佃はかって自分が開発したエンジンの名前を思い出した。あのとき軌道を外れていったセイレーンと同様、佃製作所もまた徐々にその軌道を外れつつある。
セイレーンと同じように海の藻屑と消えるか、再び成長軌道に乗ることができるか。これからが、正念場だ。

一方、東京大手町に本社がある帝国重工の宇宙航空部といえば、政府から民間委託された大型ロケットの製造開発を一手に引き受け、いまや押しも押されもせぬ、宇宙航空関係の国内最大メーカーであり、社長の肝いりで、「スターダスト計画」と名付けたプロジェクトを推進してきた。
今回の百億円を投じた新型水素エンジン開発は、その目玉であり大型ロケットの打ち上げで国際競争をリードするための絶対条件といっていい。  しかし、世界最先端の技術だと自負していたバルブシステムは、すでに佃製作所により特許が出願されていた。
宇宙開発グループ部長の財前道生は佃製作所の経営が窮地に陥っていることを知り、特許を二十億円で譲ってほしいと申し出る。  資金繰りが苦しい佃製作所だったが、企業としての根幹にかかわるとして佃は「帝国重工からの提案の件、一晩、オレなりに考えてみたが―断ろうと思う」と社員にそういった。
逆に「特許使用でなくて、部品供給で行けないか」と佃は財前に提案する。
帝国重工では下町の中小企業の強気な姿勢に困惑し憤りを隠せないでいたが、結局、佃製作所の企業調査を行いその結果で供給を受けるかどうか判断することになった。
一方、佃製作所内部も特に若手社員を中心に、特許を譲渡してその分を還元してほしいという声が上がっていた。
しかし佃は、「だけどさ、そんな会社、つまらないだろう。おまえの確率は、とどのつまり金が入ってくるかどうかの確率じゃないか。だけど金が入ってきたらそれでいいのか。もっと夢があって面白い仕事ができるかも知れない。そっちの確率だってあるんじゃないか」
また、退職を申し出た職員に、「俺はな、仕事っていうのは、二階建ての家みたいなもんだと思う。一階部分は、飯を食うためだ。必要な金を稼ぎ、生活していくために働く。だけど、それだけじゃあ窮屈だ。だから仕事には夢がなきゃならないと思う。それが二階部分だ。夢だけ追っかけても飯は食っていけないし、飯だけ食えても夢がなきゃつまらない。
お前だって、ウチの会社でこうしてやろうとか、そんな夢、あったはずだ。それはどこ行っちまったんだ」と熱く語る。

そうした中、企業調査がスタート。
入念なテストだ。佃はそのために複数の―百個を超えるバルブシステムを試作し提出する。・・・・・
佃製のバルブはひと通リの品質試験をパスし、すでに最終段階へと入っていた。製品供給の道を拓くための、最後にして最大の関門だ。

誰かが素っ頓狂な声で「タンク内、圧力異常!」「エンジン緊急停止!緊急停止!」
燃焼実験は、完全な失敗に終わった。「液体水素タンク内の圧力を一定にする従バルブが作動しなかったことが、失敗の原因であったと、結論づけられます」
帝国重工として、何かと厳しい目をむけ佃製作所のミスを見つけようとする態度に対し佃製作所の若手社員は日本のものづくりを担ってきた町工場の意地を見せる。
彼らのひたむきな調査の結果、二酸化ケイ素がフィルタに付着していることを突きとめる。
佃は言った。「これがバルブ内に残された痕跡からしても、バルブ誤作動の原因と考えてまず間違いないと思います」・・・

財前は、「佃さんのバルブ、使わせてもらいます。藤間社長の決裁が下りました」「ありがとうございます」
佃は右の拳を握りしめ、社員たちにガッツポーズをしてみせる。
 震える涙声で、殿村(佃製作所経理部長)はいった。「燃焼実験、先ほど無事終了したそうです。実験は、実験は―」
 殿村の頬が震えた「成功です」

「固体のロケットブースター、点火!」震える声を佃は張り上げていた。
「行け、モノトーン!リフト・オフ!リフト・オフ!」「上がれ―っ!」
殿村が叫び、江原(若手社員)が絶叫していた。全員が口々に大声を張り上げ声援を送る。

打ち上げが成功したら、なにか気の利いた演説でもしようと思っていた。なのにいま、胸にこみ上げてきた喜びと興奮で佃の脳は思考停止し、出てくるのはただ感謝の言葉だけだ。
佃は震える声を絞り出した。「みんな、よく頑張った!ほんとによくやってくれた!ありがとうな!オレは、オレは―」
  お前たちを、誇りにおもう。

 *第145回直木賞受賞作品(2011年)の長編小説。
  今後の池井戸 潤氏の活躍にエールを送る

投稿者:蘇る青春
投稿日:2011年 8月 9日(火)11時29分43秒
読書 あれこれ その45 「どくとるマンボウ医局記」 北 杜夫著

 斉藤茂吉を父にもつ北杜夫(本名 斉藤宗吉)のエッセイ集である。

  マンボウ:この魚は海の上に浮かんでいて、棒で突っいたくらいでは動じないと聞いたから、いかにも怠け者の私に似ているようだし、それと語呂の点から「マンボウ」と、ニック・ネームをつけた。

昭和二十七年の春、私は仙台の東北大学医学部を卒業し、国家試験にも合格した。ろくすっぽ授業にも出ず、試験の日に初めてその科目の教授の顔を見ることなどざらであった私には、双方とも奇蹟的なことであったと言ってよい。
医学部に入学したときから、すでにもの書きを志していた私にとっては、何年ぶりかで入浴したかのような、ホッとしてさっぱりした気分であった。 その後、慶応病院神経科に入局する。

 立派な仕事をしたヒポマー(軽躁病)には、故中島健蔵氏や遠藤周作氏がおる。もっとも偉大な躁鬱病者はゲーテである。
 また漱石もその一人であった。

ところが、医局をやめてかなり経ち、中年になってから、今度は私が躁鬱病になった。初めは躁鬱症と言った程度だったが、年と共にこれが悪化し、今やゲーテや漱石には及ばぬが威風堂々たる大躁鬱病患者である。

 北杜夫は、佐藤愛子氏(読書 あれこれ「院長の恋」の作者)と親交があり彼女の紹介で見合いの席を設けてもらったことも窺われる。

クロルプロマジンは躁にはよいが、鬱のときは逆に病状を高じさせてしまうものだ。以前なら長いこと保護室へ入れておかねばならなかった患者でも、これを多量に与えれば一週間足らずでおとなしくなり、一般病棟へ移すことができる。
私も躁病のときはこの薬を飲んでいる。
 北杜夫は、確かに革命的な薬であるとクロルプロマジンを絶賛している。

私の処女長篇「幽霊」は、大学二年二十三歳のときの作であるが東京の同人の中では評価してくれる人もいたが、地方の支部便りでは酷評されたりした。
本が売れないのは仕方がないとして、まったく評価されないことはやはり痛手であった。

東北大学で学んだ内科のN教授が御自分の誤診について本を書かれているが、誤診率はなんと六十何パーセントとある。
これは自己に厳しく、もちろん正しい診断を下しているのに、入院させて検査して始めて分かったちょっとした見落しまで、すべて誤診に入れておられるからである。世の若い医者はぜひこの態度を見習って欲しいと思う。

フレッシュマン時代(入局して二年目)に印象に残った患者さんのことに触れてみよう。
一人はヒステリー性格の女性で、夫婦の会話の中で男の体面上、「そんなら海へ飛びこめ」と言うと、彼女は素足のまま駈け出して、本当に海に飛びこんでしまう。そして沖へ沖へと泳いでゆくというのだ。・・・・・
次の患者は、病棟の玄関先でいつも遅れて出勤する私を待ちうけていて、甘ったるい声で「ああら、センセ。ずいぶん遅いのね」と言うのが常であった。「センセ、あたしのところにはちっともまわっていらっしゃらないのね。今日はお話をしたいわ」 なにせ毎朝のことであるから、私も閉口して、ついには裏口から出入りをせねばならなかった。・・・・・
また、鬱病患者に自殺されたこともある。看護婦が医局に駆けこんでくるなり、「患者さんが首を吊りました!」と叫ぶので、すっとんで行くと、病棟の個室の壁にその男がぶらさがっていた。・・・・・

北杜夫は、アメリカの州立精神病院へ留学中、LSDの中毒患者の実態を見た。彼は担架に厳重に縛りつけられ、更に看護婦が付ききりで監視をしていた。LSD中毒者は幻覚などに襲われ、窓から飛びおりたりもするからである。
もっとも危険な麻薬の一つとなっている。

入局して三年目、とうとう私が恐れていた日がやってきた。それは他の医者たちと同様、教授が山梨県立精神病院の医者が一人いなくなったから、そこへ行けと命令を下したからである。もっとも貧弱な病院らしかった。
そこには、・男性病棟の大部屋の患者たちはほとんど相似しているように見えた。彼らは、一様に上体をまげ、首をうつむけて畳の上に 坐っている。・・・・・
 これらの痴呆化し、荒廃化した人たちを眺めることは悲しかった。だが彼らは私たちの感情の彼岸にいるようだ。
・一人の女患者が、六畳部屋の外の金網で囲まれた石畳の上に出て日なたぼっこをしている。自分の排泄物を顔に塗りたくったりする。・・・・・   など。
なるほど大学の病室には、さまざまな症状をもつ患者たちはいる。だが、これほど古く、これほど固着し、これほど根をすえた人たちはそこでは見られない。
壁際に身じろぎもせず、しゃべることもなく坐っている患者たち、私たちが探ろうとして探れぬ人たち、人間存在の秘密をかたくなにおし隠している人たちの姿がその象徴だ。
人間存在というものへの真の認識の道はないと言ってもよかろう。個々には光をあてられるが、全体はまったくの彼岸だ。
ただ一つの側面へ迫ろうとする狭い立場があるだけかも知れない。
医師という職業は、人間への眺望に対してもっとも危険な迷妄に陥り易い。だが、いま私はそうした迷妄へせめて落ちこみたくもなる。

本当に私が医者をやめたのは、三十七歳の時カラコルムの登山隊にドクターとして付いていったあとのことである。一ヶ月余山中のテント生活を終え、入浴したとき、局所のそこに一本の白毛を見つけた。白毛は老いの象徴である。・・・・・
それから自分には書き残しておきたい作品がやはりある。こうして医者をやっていて無駄にした時間を、そのとき私は胸の中で計算してみた。そして、きっぱり医者をやめたのである。

私は決して優しい人間ではなかったはずなのに、すくなくとも患者たちに親切ではあった。できるかぎり優しく接していたようである。これを読んで(自分のノートに走り書きした記述や、また患者たちについて手帳にひそかに書きとどめていた箇所)、今や齢(よわい)六十五歳ともなった老境の私が、思わず知らず涙ぐんでしまったことを告白する。ああ、昔の私は、あんがいに立派なところもあったのだ!今の私はそれこそ躁鬱病患者になってしまい、患者を診てあげるどころか、自分が逆に昔の同僚の精神科医から薬を貰っているのが実情なのに・・・・・。

私は現役の精神科医から屡こう言われたものだ。
「昔は患者に、あなたは躁病です、或いは鬱病ですと告げると、ギクリとした顔をされたものだが、この頃は、ああ、北杜夫さんと同じ病気ですね、と安心する人が増えましたよ」これは確かに私の一功績としても不遜ではなかろう。

締めくくりとして、なだいなだ氏の言葉が目についたので引用する。
北杜夫は彼のいわゆるマンボウものの中で、自分が駄目医者であるようなイメージを作り、それで笑いを誘ってきた。
だがこの医局記を注意深く読むと、彼が精神科医としてもたぐいまれなセンスの持ち主であったことを知ることが出来る。
時々引用される山梨の病院でつけていたというノートに見られる文章、中でも病棟の中で白衣を脱いで横たわっていると、これまで一度も口を割らなかった患者が、向こうから話しかけてきた個所など、彼の文学者としてのセンスが決して精神科医のセンスと対立するものでないことを示している。山梨の病院で患者が患者に殺されるという不幸な事件が起こったあと、責任者として被害者の家に詫びにいき、そこで殺気だった家族に囲まれるエピソードがあるが、その時に彼の示した臨床医としての正直さと誠実さなど、彼の臨床医としての資質を示して余すところがない。マンボウものの読者は、この本で北杜夫の実像を初めて垣間見ることが出来るだろう。

投稿者:蘇る青春
投稿日:2011年 7月20日(水)15時50分1秒
    
読書 あれこれ その44

現代語訳「武士道」 

新渡戸稲造著 山本 博文=訳・解説


「武士道」は、明治三十二年(1899)アメリカで出版された。新渡戸が三十八歳の時である。
新渡戸は、武士道の体系を、義・勇・仁・礼・信(誠)・名誉・忠義の順で解説していく。

*義 卑法な行動や不正な行為を憎む武士的な正義の概念である。

*勇 義の行動を支える義の「双子の兄弟」である。つまり、武士にとってもっとも重要なことは、義に基づいて行動することである。

*仁 本来的には王者の徳であり、いわば大名の心得である。池田光政や上杉鷹山といった名君とされる大名は、「仁政」の思想を標榜した。これは、武士一般の思想を解説したというより、武士道を生んだ封建制の社会が欧米人の見るような専制政治とは違うことを主張したものであろう。
 それだけでは足りないと考えたのか、新渡戸は仁を慈悲としても説明する。「武士の情け」、すなわち弱者・劣者・敗者に対する思いやりが、武士の仁だというのである。

*礼 仁から生じるものとされる。礼は、形式的な作法を守ることではなく、社会的地位に対し相応の敬意を払うことである。つまり主君の仁に対して、臣下の礼がある、ということである。

*信(誠) 礼の誠実さを裏付けるものである。また、信は、武士の義務でもあった。武士は、いったん口に出したことは命をかけて守らなければならない。これは武士という高い身分にあるからである。

*名誉 武士の信を支えるもので、武士がもっとも強く希求したものだった。筆者も、この観念こそ武士道の根幹だと考えている。新渡戸は、名誉や名声を得られるなら武士は生命さえ安価だと考えていたし、もっとも大きな名誉を得られるものの中に忠義があった、と言う。

*忠義 主君に対する盲目的な服従ではなく、ましてや諂(へつら)いや追従ではなく、誇り高い武士の名誉を希求する行動であったとするのである。
これらの項目は、儒教の徳目である仁義智信にほぼ相当する。

武士は、日本民族の理想の極致となった。「花は桜木、人は武士」と民衆はうたった。武士階級は営利を追求することを禁じられていたから、直接に商業を助けることはなかった。しかし、どの人間活動も、どの思想も、武士道から一定の影響を受けないものはなかった。知的・道徳的日本は、直接にも間接にも武士道の所産だったのである。

わが桜花は、その美の下に刃も毒も隠しておらず、自然が呼ぶ時にいつでも生を捨てる形状の美しさは、外観に限られる。色彩と形状は固定した性質である。これに対し香りはうつろいやすく、生命の息のように天上にのぼる。それゆえ、すべての宗教的儀式において、香(こう)と没薬(もつやく)は重要な意味をもつ。桜の芳香にはなにか精神的なものがある。太陽が東からのぼってまず極東の島々を照らし、桜の芳香が朝の空気に薫る時、その息吹を吸い込むことほど、心が澄み爽快な感覚はない。

武士道は、もともと戦闘者の倫理である。そのため独特の名誉の感覚を持ち、臆病や卑法とされる行為には病的なまでに厳しいものであった。武士が刀を抜けば必ず相手を斬り留めねばならず、もし首尾よく斬り留めることができても、人を殺した者には切腹が命じられた。これらの行為に理非の判断はなかった。そしてもし斬り損じたら、武士として未熟だという理由で切腹が命じられた。

先日(7月3日)放映のNHK大河ドラマ、「江」の中で、秀吉が利休に命じた切腹を、江が取り下げるように嘆願したしたものの却下されたのはまさしく信(誠)を物語っている。また、武士道を語るとき、自決から四十年余りになる三島由紀夫のことが鮮烈に思い出される。

読書 あれこれその29、「三島由紀夫のきた夏」横山郁代氏が語っている。
切腹はあの日の日本人の意識を変えさせるくらいの衝撃であり、あれくらいの憤怒を示さなければ、私たちは、本来日本人のもっている魂に気づかない、と思ったことだろう。実際その効力はジワジワと年月を超えて私たちの脳内に浸透している。日本を愛する心について真剣に考えたい。

投稿者:蘇る青春
投稿日:2011年 7月 6日(水)23時19分46秒
読書 あれこれ その43

「破戒」 島崎 藤村著


 明治後期、被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松。
一つの希望、ただ一つの方法、それは身の素性を隠すより他にない、「たとえいかなる目を見ようと、
いかなる人に邂逅(めぐりあ)おうと決してそれとは自白(うちあ)けるな、一旦の情怒悲哀にこの戒(いましめ)を忘れたら、その時こそ社会から捨てられたものと思え。」こう父は丑松に教えたのである。その戒めを頑なに守り成人し、小学校に奉職した。

丑松は、新しい思想家であり戦士でもある猪子(いの)蓮太郎の著述が出る度に愛続していた。猪子蓮太郎という人物が被差別部落の中から生まれたという事実は、丑松の心に深い感動を与えたので_ーまあ、丑松のつもりでは、隠に先輩として慕っているのである。同じ人間でありながら、自分らばかりそんなに軽蔑される道理がない、という烈しい意気込をもつようになったのも、実はこの先輩の感化であった。

ああ、何を思い、何を煩う。決して他の人に告白(うちあ)けるのではない。ただあの先輩だけに告白けるのだ。日頃自分が慕っている、しかも自分と同じ新平民の、その人だけに告白けるのに、危ない、恐しいようなことが何処にあろう。「どうしても言わないのは虚偽(うそ)だ。」と丑松は心に羞じたり悲しんだりした。

「まあ、家内などの言うことですから、何が何だか解りませんけれどー実際、女の話というものは取留のないようなものですからなあーしかし、不思議なことには、あいつの家の遠い親類に当たるものとかが、貴方の阿爺(おとつ)さんと昔御懇意であったとか。」「いや、そんなことは、またどうでもいいと致しまして、家内が貴方をお知り申していると言いましたら、貴方だってもお聞流しには出来ますまいし、私もまた私で、どうも不安心に思うことがあるものですからー実は、昨晩は、この事を考えて、一睡も致しませんでした。」  このような会話をはじめ、 「しかし驚いたねえ。瀬川君が被差別部落出身だなぞとは、夢にも思わなかった。」「実際、私も意外でした。」
「見給え、彼の容貌を、皮膚といい、骨格といい、別にそんな賤民らしいところがあるとは思われないじゃないか」 「ですから世間の人が欺されていたんでしょう」と学校でも丑松が被差別部落出身であるとの噂がとりだたされる。

代議士の候補者である市村弁護士を推薦するため、演説に来てい蓮太郎は石か何かで烈しく撃たれ何の抵抗も出来ず、壮絶な死を遂げる。
ああ、-何を思い、何を煩う。「我は被差別部落出身なり」と男らしく社会に告白するが好いではないか。こう蓮太郎の死が丑松に教えたのである。

遂に父の戒めを破り、その素性を生徒の前で打ち明けてしまう。
「・・・・ああ、仮令(たとい)私は卑賎(いや)しい生まれでも、すくなくも皆さんが立派な思想を御持ちなさるように、毎日それを心掛けて教えて上げたつもりです。せめてその骨折に免じて、今日までのことは何卒(どうか)許して下さい」こう言って、生徒の机のところへ手を突いて、詫入るように頭を下げた。

「ああ。」と銀之助(土屋銀之助ー師範時代からの同窓の友)は嘆息して、「どうして世の中はこう思うようにならないものなんでしょう。僕は瀬川君のことを考えると、実際哭(な)きたいような気が起こります。まあ、考えて見て下さい。ただあの男は素性が違うというだけでしょう。それで職業を捨てなければならん、名誉も捨てなければならんーこれほど残酷な話がありましょうか。」
「しかし、」とお志保(風間敬之進ー老朽な教員の娘)は清しい眸(ひとみ)を輝した。
「父親さんや母親さんの血統がどんなでございましょうと、それは瀬川さんの知ったことじゃございますまい」「そうですー確かにそうですー彼男の知ったことではないのです。そう貴方が言って下されば、どんなに僕も心強いか知れません。実は僕はこう思いましたー彼男の素性をお聞きになったら、定めし貴方も今までの瀬川君とは考え下さるまいかと。」
「何故でしょう?」「だって、それが普通ですもの。」
「あれ、他はそうかも知れませんが、私はそうは思いませんわ。」
「真実に?真実に貴方はそう考えて下さるんですかー」
「まあ、どうしたら好うござんしょう。私はこれでも真面目に御話しているつもりでございますのに。」
「ですから、僕がそれを伺いたいと言うんです。」「それと仰るのは?」とお志保は問い反して、対手の心を推量しながら眺めた。若々しい血潮は思わずお志保の頬に上がるのであった。

昔、町を追われ亜米利加の「テキサス」で新事業を起こしている、丑松とは素性も同じ大日向(おおひなた)から、市村弁護士の口を通して、丑松の希望を囁(ささや)いた。
教育のある、確実な青年を一人世話してくれ、とは予て弁護士が大日向から依頼されていた。この話には銀之助も熱心に賛成した。

丑松は新天地を求めて亜米利加の「テキサス」へと旅立ってゆく。

投稿者:蘇る青春
投稿日:2011年 6月21日(火)12時45分10秒
読書 あれこれ その42

「本と私」   鶴見 俊輔編


  岩波書店創業90年を記念して実施した原稿募集「本と私」の入選作19編を収録。(2003年発行)
  私が興味を惹かれたところを抜粋してみることにする。

o人間は皆ひとつ
 金素雲氏はひょっとして、朝鮮民族と日本民族との心の結びつけを考えていたのではないかと思います。
 われわれ一人ひとりが、人間は皆ひとつ、人間は皆同じだという認識にしっかりと立つということです。

o戦火の中の一冊
 いや今とは違う。今はありとあらゆる本の中から自分の本を選べる自由がある。母が本を手にしたのは、 あの戦時中。しかもご法度の西洋物で、見つかれば非国民とされたはず。それでも本を愛した母の喜びは、はかりしれない。

o「飲み友達」から「読み友達」へ
 この一風変わった会は「長く続ける」「楽しく読む」「なんでも広く読む」ことを不文律として、毎月一回缶ビールをちびちびやりながら概してとりとめもなく時に少しだけまじめに、本を話題にしておしゃべりをする集まりである。

o旅をする私と本の仲
 旅をする私は常に二、三冊の本をザックにつめていく。パッキング事情もあり、本は文庫か新書に限っている。
 ジャンルにこだわりはないけれど、続きものの小説や過度に熱中してしまいそうなものは避ける。

o比較読書と反復読書
 こうして、読み直そうと思う書を見つけ出すのは無性に楽しい。脈絡もなく切り目もなく、かって心通わせたそれらの書を、再び三たびと読み返す幸せにひたるのは真に愉しい。それらの書との再会。それは精続でもなく、耽続でもない。まして濫続でもない。快続」ともいうべき会心の読書なのである。

o拡大読書器と録音テープ
 現在では、拡大読書器による読書にも、録音テープによる読書にも馴染んできた。自分が陥った逆境にも、二年経って少しずつ受容する気持ちにもなってきている。今後は、心穏やかに、拡大読書器と録音テープの二本立てで本を読んでゆくことになろう。

o 本と子どもに囲まれる幸せ
 私の「本好きな子どもに育てたい」気持ちが、押し付けではなく、やっと自然な形でできるようになったということだろう。私は、本と子どもに囲まれる幸せを、今あらためてかみしめている。

o 人生の足跡を何に残すか
 そうやって、わたしの両親の足跡は「手製の本」という形でわたしとわたしの兄弟の手元に残った。やがてそれはわたしたちを通りすぎ、これから先の子孫の代々と伝わって行くだろう。わたしから子どもへ、そして孫へと、凡人の残す「人生の足跡」が少なくとも血族の中にだけは、生きていくことになるのだと思うのだ。

o 本を取り巻く現状と課題
 しかし嘆くだけでは、問題は解決しない。その中で新しい潮流を鋭敏に発見し、その潮流を早く戦略化することが大事だ。筆者の周辺にもまだ潮流とまではいえないが、その予兆はある。
 それは、リタイア直後の高齢者であり、ご近所でお達者なご老人であり、またいつも元気な主婦層であり、アルバイトに精を出すフリーター達だ。

o もうひとつの至福の時間へ・・・・・
 通勤や帰宅中だけでなく、長時間にわたる出張途上は執筆には最適。自分の世界に集中できる時間は、この時をおいて他にはない。退屈な車中が、夢中になれる場に変化する。パソコンさえあれば、どこでも書斎になる。いまやそれは筆者にとっても、もうひとつの至福の時といっても良いほど、大きな楽しみにふくらんできた。

o 稲造さま、ありがとう
 女性の社会進出や活躍が目覚ましい現在、昔の考えで才能をつぶし自立できない人がいたら残念である。新渡戸稲造氏のような幅広い考え方をする人の本から、わたしは子育て時代に大事なメッセージをもらっていた。
 なんと幸運だったかと、今更ながら天に感謝したい思いである。


 *最近は、読む本から、書く本の時代へ。
  このように本は、知らないところで我々といろんな形で関与していることが伝わってきた。
  読書 あれこれ その31「本はこれから」池澤 夏樹著で紹介したが、紙の本から電子書籍に媒体が移るとき・・・・・しかし、「それでも本は残るだろう」 みんな本を愛している。と結論づけていたが、私たちは本の愉しさ、本の大切さをもっともっとアピールしていきたい。


投稿者:蘇る青春
投稿日:2011年 6月 7日(火)13時02分49秒