こんにちは。
今日のテーマは信じる事と疑う事です。
これまで私は信じることの大切さを説いてきた気がします。
でも信じると言うこともそれを行き過ぎると、それは過信と言う状態を作り出すのではないかと思うようになって来ました。
過ぎたるは及ばざるが如し
そんなことわざが日本にはありますが、
信じる事で事実が見えなくなる、心が頑なになる事は時にやり過ぎてしまっている状態になってしまい、
過信や盲信、盲目的に現実を見る事なく、過剰な信仰はそれこそ洗脳にもなり得ると思います。
なのでそれを防ぐ為には、これまで否定して来た疑う心を捨てない事もとても大切なポイントなのではないかと思うようになって来ました。
疑う心を少なくするのはとても大切な事ではあるけれど、
それをゼロにしてはいけないように思うのです。
疑う心は限りなくゼロに近づけていきながらも、決して無くしてはいけないものの一つのように思うのです。
よく陰陽道の象徴のマークとして白と黒の勾玉の融合したようたマークを見た事がある方は多いのではないかと思うのですが、
このマークは、白い勾玉の部分にわずかですが黒い点をのこし、
また、黒い勾玉の部分を少しの白い部分を残しているように思います。
私は陰陽道の事を知っていると言う訳ではないのですが、
このマークには、今回自分が表現したかった事が表れているように感じるのです。
信じる事や信じる素晴らしさは決して変わるものではないけれど、
それが過剰になりすぎると、それこそ騙されやすく、利用されやすくなるのではないかと思うのです。
信じ過ぎず、疑い過ぎず、信じる気持ちと疑う気持ちのバランスを取り、
どちらの心も合わせ持ち、偏り過ぎない、中道と呼ばれるような自由な心でいる事がより自然なのではないかと思うのです。
怪しいと感じるのなら、その感性を大切なする必要がある時なのかも知れませんし、
本当に大切な事ならば、どんな攻撃や不安を揺さぶられてもそれが本当の事ならば、それを信じ続ける必要がある場合もあると思います。
ある霊的な先人などは、疑う事の大切さを説いて、全てを疑うように勧める人もいたと思いますが
個人的には、そのどちらへも偏りすぎない心も同時に合わせ持つ方が、人として自然な状態なのではないかと感じるのです。
そうする事で信じすぎる事で、人から疑われる事を恐れたり、疑いを受けたり、疑いを向けられる事を恐れなくなるのではないかと思うのです。
疑いにも使い方によってはとても効果的で、有効なテクニックになり得ると思うからです。
使いたくなければ使わなければ良いだけで、それを捨てなくても良いと思うのです。
今日は車に乗る気分ではないと言う理由で、車を売らなくても、
本当に必要な時に使えば良いと思いますし、
疑う心に罪がある訳ではなく、それをどんな理由だ使うのか、どんな目的である使うのかがポイントになるのではないかと思います。
疑う事も使い方によってはとても役にたつ素晴らしい能力の一つだと思うのです。
そんな訳で、もし共感していただけるようでしたら、是非その力を使う許可を出してみて、様子を見てみて欲しいと思います。
自分も生きていく中で学びの途中にあります。
その過程で、それまで信じてきた事と真逆の事を言いはじめる場合もこれからも十分考えられます。
矛盾している事も平気で言ってしまう事もこれからもあると思います。
迷った時は自分を信じ、どうか盲信されないようにと願っております。
あくまでも参考や一つのアイデアとして、自分を見つめるための一つのきっかけのようなものとして、扱って頂ければと思います。
どうかご理解のほど宜しくお願い致します。
答えは自分の中にあり、答えは同じである必要はないと思います。
自分にとっての自分の答えを知る事、他人にとっては答えでなくても、自分にとっての答えが必ず自分の中にあるように思うのです。
答えはあなたの人生であり、あなたの生きてきた道こそ答えであり、わまりがどんなに口を挟んでも、
それが答えである場合があると思うのです。
それが何なのか、答えは自分が知っていると思います。
がんばれ人生!
ありがとうございました。