さて、5月25日発売の絶対COME BACK MIX!!の情報も出したし、
とりあえず、今ある良い方のNEWSは全部吐き出しちゃったかな!!
支援プロジェクトの方のご協力も本当にありがとうございます。
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導楽オフィシャルHP
何回も入れてくださってる方もいたり、お金についても色々と考え直させられています。
貴重な体験、貴重な時間とも今は思っています。
とにかくありがとう!!
本当「ありがとう」て言葉にも救われてる気がします。
大勢の方から、色々な方向からのご協力があって、この作品も完成まで至りました。
あとは何とか、一人でも多くの人に聴いてもらいたい。
是非周りの人にも教えてあげてね!!
聴いて、良かったら勧めてください!!
ここ10年の作品の中から選んで作ってるからね。
そりゃあ重~い思い入れあるよね。
とは言っても全体的に聴きやすいと思うから是非是非聴いてほしいし!!
LIVE DVDも観てほしい!!
このLIVEのアンコールで、着替えてる時にやっと、初めてハッキリした体の異変に気付いたんだな。w
だからアンコール以降は入れてないけど。。
普通にPLAY出来てた、最後のLONG LIVEのダイジェスト。
まあ元気だった時パックだねw
今まで4枚のアルバム、今回の作品で合わせて5作品。
導楽の第1章としてはこの作品で完結だ。
一区切りついた。
もちろん、その先から第2章が始まる。
今はまだ何も見えないから、不安はある。
でも迷いはもうない。
どこまで出来るかはわかんないけど、行けるとこまで行ってみようと思う。
俺の進み方で。
今はまだ、ジョギングどころか自力でしっかり歩く事すら出来てないけど…
これでも
#2
小さい頃は活発、わんぱく。というのと少しズレて乱暴ものだった。
クラスで目立っている方だけど、ちょっと嫌がられる感じの位置の子供だったと思う。
俺の家族は両親に兄と妹の5人家族。全員B型。
俺は生粋のB型の次男坊なだけあって、わがまま自己中がズバ抜けていた。
うまくいかないとすぐフテくされたり、喧嘩したり何か蹴っ飛ばしたり。。
本当嫌な奴だ。
今でもまだ全然治りきっていない。
そんな俺が野球を始めたのは小学校2年生の頃
好きとか嫌いとかも深く考えずに11年続けた。
11年続けられたということは好きなんだろう。
でなければ、あんな厳しい練習、環境には耐えられたはずがないだろうから。
小学校時代、投げる球は遅いが一応エースで3番打者、チームは地区で優勝3回したり
その大会ではMVPを取ったりもした。
基本的には努力はあまりせず、センスだけでやってるような子だった。
それでも、そこそこのセンスがあったのか
中学時代も1年生後半くらいから試合に出してもらっていた。
その頃の監督には「毎日500回素振りしたらお前の人生かわるぞ」なんて期待してかけてくれた言葉も聞き流し
全然努力しなかった。
案の定、中学時代に所属していた硬式のクラブ(シニア)では特に目立った成績を残すことは出来なかった。
それでも、高校へは野球の推薦で名門校に入学。
この名門校への進学こそ。 今までの枠というのか、世界観を大きく変えられた最初の岐路だった。
周りにはとんでもなくうまい選手がゴロゴロいて、パワプロで言うなら「サボリぐせ」のついてる俺なんかじゃこの先3年間でレギュラーなんかはたして取れるのだろうか。まず、朝から晩まで地獄のような練習漬けの毎日に耐えられるのか?
練習外のシゴきに耐えられるのか?
半年経った頃には半分くらい辞めたが、それでも新入生50人以上いる中、俺のレベルなんかは、甘~くみても真ん中くらいだ。
3年生にいた一番うまかった先輩(俺なんか到底追いつけないレベルのうまさ)がプロにはいけなかった。
それを目の当たりにした時、俺の中のプロ野球選手になるっていう夢が崩れた。
心の中で諦めてしまった。
それに加え、今までに味わったことのないレベルの練習量にえげつない縦社会、上下関係の厳しさを1から叩き込まれ、本当の厳しさを知った。
小さい頃のわがままや自己中なんかは一切通用しない。
一流の名門校は一流のしごきがあったりする。
気合いの入った体育会系の部活ならどこもそれなりにあるだろう。
覚悟はしていたが甲子園常連校はなかなかのものだった。
俺の世代、時代なんかは緩くなっていた方だが、それはそれは理解しがたいというか納得しがたいルール、しごきのスタイルがあった。
例えば、電車で通学の際、乗っていいのは1両目のみ、もちろん座ってはいけない。
ビニール傘は使ってはいけない。もちろん買い食い等の寄り道禁止
練習場まで学校から2kmくらいの山道、行き帰り共に当然全力で走る。
一年は学校の食堂使用禁止等々 冷水機使用禁止 学校のカバンのサイズ、制服の第一ボタン開放厳禁、着こなし…
他にもにも細かいくっだらないのまで言ったら100以上、山のような決まりがあった。
もしそれを破ったり、先輩が気に入らないことをすればしごきが待っている。
走らされたり、練習の延長のしごきならばまだいい。あくまで練習場だから監督、部長の目がある。
危ないのは練習時間外。
練習時間外、部室は殴る蹴るも当たり前(顔はバレるから主に体)意識を落とされたり
ケツバットフルスイング。。。
バットのグリップエンドのところで頭カチ割られて、血噴き出してたやつもいた。
今だったら大問題もいいところだ。
監督、部長もなんだが、とくに先輩が絶対だった。
そんな大人の事情というか、野球部内のバビロンシステムというか、
高校野球の闇の部分に心身ともに叩きのめされ、最終的に耐えきれずに野球部さえも辞めてしまった。
でも、プロ野球選手は諦められても、甲子園はまだ諦めきれなかった。
そして親や親戚にも頼み、県外へ転校させてもらってまで寮生活をしながら野球を続けた。実際は辛いこと一杯で、最初に言ったように好きだか嫌いだかわからず、義務的というか
夢と言ってた以上諦められなかった感じだ。
だが結局、最後の夏の大会も県大会予選の準々決勝で負け、甲子園という夢は儚く散り、泣き崩れた。
思ってたよりあっけなく野球人生としての夢は幕を閉じた。
18歳の夏だった。
なんか
空っぽになってしまった気がした。。。
この頃は#1でも触れたように
まだ音楽に特別興味すらなく、三木道三に出会ってやっと
BOB MARLEY=REGGAE REGGAE= BOB MARLEYということじゃなく、REGGAEという音楽のジャンルがあるのかって言うことを知ったくらい。
同年代の友達は、BLUE HEARTSとか長渕好き多いとかが多い中、俺には「ファン」みたいな、そういうこの人好きだな~みたいな
人がいなく、周りと比べても俺は特に音楽に興味がなかった。
バンド組む奴やDJするやつ、ラッパーやダンサーなど音楽に関わっていった友達は何人かいたが、音楽のことで触れ合うなんてことはなかった。
たまたまバイト先の先輩とカラオケ行った後に、バンドに誘われたり、ピンチヒッターをお願いされたこともあったが、全部断った。
やろう!!とは思わなかった。やってみよう!!とも思わなかった。
全くといっていいほど興味もなく、ましてや自分が音楽で生活していくことになるなんてこれっぽっちも考えていなかった。
それなのにあいつに出会ってからだ。
あいつと知りあってから、運命的な出会いや衝撃が続き、自然とも必然ともいうような流れで歌い始めたていったんだ。。。