昨日、6月10日のA級順位戦佐藤康光九段対久保利明九段戦は、面白い戦いになりましたね。
先手中飛車の久保九段に対して佐藤九段は向かい飛車。そこから久保九段は飛車を戻して居飛車穴熊に。佐藤九段の向かい飛車、久保九段の居飛車穴熊という珍しい戦型に落ち着きました。
比喩的に言えば、居飛車党は足し算・掛け算が得意。駒得を目指す将棋と言っていいでしょう。振り飛車党は、引き算・割り算が得意なんですが、これは多少損してでも駒の自由度を上げたいという将棋です。
何でも指しこなすとはいうものの本質的には居飛車党の佐藤九段が振り飛車で、振り飛車党のトップランナーの久保九段が居飛車を持って指していた訳です。
久保九段は「捌きのアーティスト」と異名がつくほど軽く捌くのが上手い棋士です。振り飛車の申し子と言っていいと思います。
通常、重厚に指すのが居飛車にマッチしているのですが、あくまで久保九段は軽く捌きます。
解説陣によると中盤の終わり頃には、久保やや有利だったようです。
久保九段は指し慣れない居飛車で大局観が少し狂ったのか、攻め合ってよいところで自重し、形勢を損ねてしまいました。
佐藤九段の猛攻が炸裂し、そのまま寄り切りまし た。佐藤九段は後手番での勝利です。幸先のよいスタートとなりました。
純喫茶トルンカ (徳間文庫)/徳間書店

¥651
Amazon.co.jp
いい小説だった。
最もレギュラーコーヒーが飲みたくなる小説といっていいんじゃないだろうか。
金融関係の阿漕な債権取り立てを仕事としていた男がその仕事に嫌気がさして、一念発起して純喫茶を谷中に開業して、近所の人たちの憩いの場となっている。男の淹れるコーヒーは、コーヒー通を唸らせる絶品である。
最初の短編(「日曜日のバレリーナ」)は、この純喫茶「トルンカ」のアルバイトの大学生に起こった驚愕の出来事を軸に描かれる。一見(いちげん)の女性客が店に入り、このアルバイトの青年を見るや「やっと会えた」というのだ。聞けば、前世で、ふたりは結ばれる約束をしていたという。フランス革命前夜で、前世での性別は入れ替わっていて……。物語が進む毎に、この不思議な女の内面が少しずつ明かされていく訳だが、それが見えてくると同時にあるものが連動して変わっていく……。素晴らしい構成だ。
次の短編(「再会の街」)は、うらぶれた男が「トルンカ」に辿り着くところから始まる。輻輳する過去の物語が明かされていくのだが、この近寄りがたい雰囲気を持った男に壁を作らず接する、「トルンカ」常連の売れないイラストレーター絢子の魅力的な描き方に読者は皆、心を奪われてしまうだろう。
一番、感心したのは最後の短編である。
「トルンカ」のマスターの娘、高校2年の雫の初恋を描いたものだが、女心をよくもここまでデッサンできるものだと、半ば陶然としつつ読んだ。姉の哀しい過去が語られ、その姉の昔の恋人と雫が再会することで幼い片恋が勃発する。、幼なじみのがさつな浩太が慌てふためき、これまでなかった心奪われるという熱病のような「恋というもの」に雫自身が翻弄される。この短編を読むだけでも620円(税別)の価値は十分にある。
いずれも純喫茶「トルンカ」をめぐる豊かな物語である。是非、お気に入りのコーヒーの美味しい喫茶店で読みたい。本当に心温まるいい作品だった。

¥651
Amazon.co.jp
いい小説だった。
最もレギュラーコーヒーが飲みたくなる小説といっていいんじゃないだろうか。
金融関係の阿漕な債権取り立てを仕事としていた男がその仕事に嫌気がさして、一念発起して純喫茶を谷中に開業して、近所の人たちの憩いの場となっている。男の淹れるコーヒーは、コーヒー通を唸らせる絶品である。
最初の短編(「日曜日のバレリーナ」)は、この純喫茶「トルンカ」のアルバイトの大学生に起こった驚愕の出来事を軸に描かれる。一見(いちげん)の女性客が店に入り、このアルバイトの青年を見るや「やっと会えた」というのだ。聞けば、前世で、ふたりは結ばれる約束をしていたという。フランス革命前夜で、前世での性別は入れ替わっていて……。物語が進む毎に、この不思議な女の内面が少しずつ明かされていく訳だが、それが見えてくると同時にあるものが連動して変わっていく……。素晴らしい構成だ。
次の短編(「再会の街」)は、うらぶれた男が「トルンカ」に辿り着くところから始まる。輻輳する過去の物語が明かされていくのだが、この近寄りがたい雰囲気を持った男に壁を作らず接する、「トルンカ」常連の売れないイラストレーター絢子の魅力的な描き方に読者は皆、心を奪われてしまうだろう。
一番、感心したのは最後の短編である。
「トルンカ」のマスターの娘、高校2年の雫の初恋を描いたものだが、女心をよくもここまでデッサンできるものだと、半ば陶然としつつ読んだ。姉の哀しい過去が語られ、その姉の昔の恋人と雫が再会することで幼い片恋が勃発する。、幼なじみのがさつな浩太が慌てふためき、これまでなかった心奪われるという熱病のような「恋というもの」に雫自身が翻弄される。この短編を読むだけでも620円(税別)の価値は十分にある。
いずれも純喫茶「トルンカ」をめぐる豊かな物語である。是非、お気に入りのコーヒーの美味しい喫茶店で読みたい。本当に心温まるいい作品だった。
ハイデガー拾い読み/木田 元

¥1,890
Amazon.co.jp
木田元先生は、ご存じのようにハイデガー研究で著名な大学者です。
ハイデガー関係の啓蒙書といえば、『存在と時間』というハイデガーの未完の大著からハイデガーの思想のエッセンスを捉えるということをもっぱらにしたものが多いのですが、本書は趣が違います。
そもそもハイデガーは、自分の思想を打ち立てる以前に、哲学史の学者だったのです。アリストテレスを主軸に、スコラ哲学、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ等々、様々な哲学者の著書を詳細に読み込んで、それぞれについて講義していたわけです。
その講義録が公刊されていて、本書ではその講義録の面白いもの、気になるところを木田先生が拾い上げて、教えてくれるのです。
ハイデガーの講義がどこが面白いのか、どう革新的なのか、なぜ強引なのか……。その講義録をダイレクトに読めば分かりそうなものですが、なかなかどうして、私たち素人には、やはりちんぷんかんです。木田先生クラスの諸哲学の深い理解があって、はじめて、おもしろがれるわけです。
ハイデガーの講義録という現象が目の前にあったとして、それを木田元という名探偵が、その講義の革新性や自己都合による怪しい屁理屈などをどんどん見破って教えてくれるのです。こんなエキサイティングな本はありません。
日本人の学者が皆一様に間違えて訳している
デカルトの「realistas obiectiva」(レアリタス・オブイェクティバ)
カントの「objektive Realität」(オプイェクティベ・レアリテート)
という言葉があります。たとえば三木清は『省察』に出てきたこの言葉を
「客観的実在性」
と訳していました。井上庄七・森啓の共訳のものでは、
「表現的実在性」
となっていて、所雄章の訳では、
「思念的実在性」
となっています。訳語がころころ変わるということは、おそらくどの方も、何か違うというところまでは気づいていたのでしょう。ここは翻訳という作業が必要な日本の哲学者の問題だけではなく、欧米の哲学者も、本質的な意味を捉え切れていなかったようです。そうした累代の誤謬に対し、ハイデガー先生は、ものの見事に結着を付けます。
ハイデガー先生は、「real」の意味が違うといっているそうです。「real」という形容詞は、「実在的な」という意味に解してはならないと言っています。この時代以前に使用された「real」はラテン語の「res(=物)」に由来する言葉で、
「事物が何であるかというその事実内容に属する」
とか、
「事物のそうした事象内容にかかわる」
という意味なのだそうです。事実内容というのは、「赤い」とか「腐りやすい」といった<性質>のことです。「realistas」「Realität」は、「(そうした具体的な)性質が備わっている」という意味になります。
現在の日本語で、「リアルに生きている」とか「リアルに笑える」などと「リアル」を副詞句として使用しますが、このときの「リアル」は、「実在性」を相手にしてるのではなく、どちらかといえば、「(空虚ではなく)中身を伴った」というような意味合いの方が強いと思います。その感じに近いのではないかと思います。
一方で、「obiectiv」の方は、もっと劇的です。デカルトの時代の「obiectiv」と、カントの時代の「objektive」は意味が違うのだそうです。この単語を英語で言えば「object」で客体とか客観を指しますよね。これはもともと、ラテン語の「obiectum」で、これはそもそもアリストテレスの言葉「アンティケイメノン」(ギリシア語)の訳語として登場したものだそうです。「アンティ→ob-」で、「ケイメノン→iectum」で、ようは機械的な逐語訳です。で、アリストテレスは、複数形で、「互いに対立し合うもの」と「感覚の働きに向かい合うもの」という意味で使っていました。スコラ哲学の時代にはもっぱら後者の方向に絞られて使われるようになり、意味も「心に投射された事物の姿」というような方向に動いたそうです。
「心に投射された事物の姿」って、まさに「主観」じゃないですか。これは、デカルトの時代まではこうだったようです。でカントの頃までには、現在の「客観」に大転換するそうです。
つまり、
デカルトの「realistas obiectiva」の意味は <心に映じた事象内容>
カントの「objektive Realität」の意味は <現実に経験される対象のうちにあらわれた事象内容>
とまったくちがった意味になるのだそうです。こうしたその思想を語る上で中心となる重要な用語なのにも関わらず、世界中の学者が正しく認識していなかったのを、ハイデガーはあっさり訂正してしまうのです。大学の講義の中でです。凄いじゃありませんか。木田先生のわかりやすい解説があってこそなんですが。
ともかく出色の名著です。

¥1,890
Amazon.co.jp
木田元先生は、ご存じのようにハイデガー研究で著名な大学者です。
ハイデガー関係の啓蒙書といえば、『存在と時間』というハイデガーの未完の大著からハイデガーの思想のエッセンスを捉えるということをもっぱらにしたものが多いのですが、本書は趣が違います。
そもそもハイデガーは、自分の思想を打ち立てる以前に、哲学史の学者だったのです。アリストテレスを主軸に、スコラ哲学、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ等々、様々な哲学者の著書を詳細に読み込んで、それぞれについて講義していたわけです。
その講義録が公刊されていて、本書ではその講義録の面白いもの、気になるところを木田先生が拾い上げて、教えてくれるのです。
ハイデガーの講義がどこが面白いのか、どう革新的なのか、なぜ強引なのか……。その講義録をダイレクトに読めば分かりそうなものですが、なかなかどうして、私たち素人には、やはりちんぷんかんです。木田先生クラスの諸哲学の深い理解があって、はじめて、おもしろがれるわけです。
ハイデガーの講義録という現象が目の前にあったとして、それを木田元という名探偵が、その講義の革新性や自己都合による怪しい屁理屈などをどんどん見破って教えてくれるのです。こんなエキサイティングな本はありません。
日本人の学者が皆一様に間違えて訳している
デカルトの「realistas obiectiva」(レアリタス・オブイェクティバ)
カントの「objektive Realität」(オプイェクティベ・レアリテート)
という言葉があります。たとえば三木清は『省察』に出てきたこの言葉を
「客観的実在性」
と訳していました。井上庄七・森啓の共訳のものでは、
「表現的実在性」
となっていて、所雄章の訳では、
「思念的実在性」
となっています。訳語がころころ変わるということは、おそらくどの方も、何か違うというところまでは気づいていたのでしょう。ここは翻訳という作業が必要な日本の哲学者の問題だけではなく、欧米の哲学者も、本質的な意味を捉え切れていなかったようです。そうした累代の誤謬に対し、ハイデガー先生は、ものの見事に結着を付けます。
ハイデガー先生は、「real」の意味が違うといっているそうです。「real」という形容詞は、「実在的な」という意味に解してはならないと言っています。この時代以前に使用された「real」はラテン語の「res(=物)」に由来する言葉で、
「事物が何であるかというその事実内容に属する」
とか、
「事物のそうした事象内容にかかわる」
という意味なのだそうです。事実内容というのは、「赤い」とか「腐りやすい」といった<性質>のことです。「realistas」「Realität」は、「(そうした具体的な)性質が備わっている」という意味になります。
現在の日本語で、「リアルに生きている」とか「リアルに笑える」などと「リアル」を副詞句として使用しますが、このときの「リアル」は、「実在性」を相手にしてるのではなく、どちらかといえば、「(空虚ではなく)中身を伴った」というような意味合いの方が強いと思います。その感じに近いのではないかと思います。
一方で、「obiectiv」の方は、もっと劇的です。デカルトの時代の「obiectiv」と、カントの時代の「objektive」は意味が違うのだそうです。この単語を英語で言えば「object」で客体とか客観を指しますよね。これはもともと、ラテン語の「obiectum」で、これはそもそもアリストテレスの言葉「アンティケイメノン」(ギリシア語)の訳語として登場したものだそうです。「アンティ→ob-」で、「ケイメノン→iectum」で、ようは機械的な逐語訳です。で、アリストテレスは、複数形で、「互いに対立し合うもの」と「感覚の働きに向かい合うもの」という意味で使っていました。スコラ哲学の時代にはもっぱら後者の方向に絞られて使われるようになり、意味も「心に投射された事物の姿」というような方向に動いたそうです。
「心に投射された事物の姿」って、まさに「主観」じゃないですか。これは、デカルトの時代まではこうだったようです。でカントの頃までには、現在の「客観」に大転換するそうです。
つまり、
デカルトの「realistas obiectiva」の意味は <心に映じた事象内容>
カントの「objektive Realität」の意味は <現実に経験される対象のうちにあらわれた事象内容>
とまったくちがった意味になるのだそうです。こうしたその思想を語る上で中心となる重要な用語なのにも関わらず、世界中の学者が正しく認識していなかったのを、ハイデガーはあっさり訂正してしまうのです。大学の講義の中でです。凄いじゃありませんか。木田先生のわかりやすい解説があってこそなんですが。
ともかく出色の名著です。
2012年2月5日、芳野満彦氏が鬼籍に入られました。
『栄光の岩壁』の竹井岳彦のモデルの登山家でありクライマーです。
ご冥福をお祈りします。
『栄光の岩壁』の竹井岳彦のモデルの登山家でありクライマーです。
ご冥福をお祈りします。
この長編の主人公は、竹井岳彦といいます。実在の人物をモデルに書かれた作品です。
岳彦は旧制中学の時に終戦を迎え、新制高校に編入されます。
岳彦少年にとっても戦争の存在は大きかったのでしょう。東京大空襲で、数え切れないくらいの、男女も年齢も推定できない黒焦げの遺体を目の当たりにした経験も大きかったでしょうし、軍国教育が一夜にして戦後民主主義教育になったその浅薄さに疑問もあったでしょうし……、高校の授業は、大学入試のためとしか思えず、まるで魅力を感じません。
岳彦を唯一引きつけるものは、山でした。物資のない中、山梨の農家で食糧を調達に行かされたときに見上げた山々、道草をして少し分け入った登山道……。そうしたものだけが唯一彼を引きつけるのでした。
学校にはほとんど行かなくなります。アルバイトをして、お金を貯めて、ピッケルなど山登りに必要なものを少しずつ買いそろえ、東京近郊の山から挑戦していきます。
冬の南八ヶ岳の縦走への挑戦を持ちかけたのは、山好きの同級生でした。
未熟な二人は、至らない装備のまま、無謀にも冬山に挑戦します。
赤岳山頂を過ぎて、吹雪は激しさを増します。永い吹雪は、同級生の命と、岳彦の足先を奪います。
両足の先を凍傷で失った岳彦は、不屈の努力で、再び山に向かいます。文字通り血のにじむ努力です。彼が再び歩けるようになり、そして山に登れるようになったのは、ほとんど奇跡といっていいものだと思います。しかし、走ったり、速く歩いたり、重い荷物を担いで歩いたりするのは、うまくはありません。
そんな岳彦が見いだした活路は、岩壁でした。アルピニストではなくクライマーとしてなら、彼のハンディは、ほとんど消えるのです。もちろん彼自身の超人的な努力によって消したのです。
様々な山の友人に助けられ、助け、裏切られながらも、日本の主立った岩壁は登攀しつくしてしまいます。目はどうしても世界に向かいます。
世界の三大北壁といえば、アイガー、グランド・ジョラスとマッターホルンです。いずれも日本人で登攀を成功させた者はいません。
岳彦は若く優秀で謙虚な登攀家、吉田広とともにスイスに向かいます。目指すはアイガー北壁です。
彼らクラスの技術があれば、アイガーでもマッターホルンでも登れるのです。登るだけなら簡単なのです。しかし、多くのクライマーたちがこうした巨壁の前に倒れていったのは、天候の問題があったからです。三日晴れれば登り切れるのです。その三日にほとんど出くわさないのです。1964年の夏、二人はよきスポンサーを得て、ひと夏挑戦します。頂上まであと三百メートルというところで彼らが勇気ある撤退を余儀なくされたのは、まさに吹雪が原因だったのです。
翌1965年の夏、借金をあちこちにして、二人は再挑戦します。その年もアイガーの天気は酷いものでした。「アイガーがひどいときは、マッターホルンは晴れる時がある」山の宿の老ガイドにいわれて二人は照準をマッターホルンに切り替えます。準備の上に準備を重ねたアイガー北壁ではなく、ほとんど研究してないマッターホルンの北壁に挑戦することにしたのです。
といってもやはり、登攀途中で悪天候となります。そして、岳彦の足から血が溢れはじめるのです。しかし、吉田広の超人的な活躍と岳彦のこれまた人智を超えた精神力で、二人は、登攀を成功させます。日本人としてはじめて、世界の三大北壁のひとつを登り切るのです。
感動とも悲しみとも喜びともつかない熱い気持ちに包まれて読み進めました。素晴らしい作品だと思います。
この物語は、二人のマッターホルン登攀成功で終わります。作中、若い吉田広は、マッターホルンを成功させて、次はアイガーに挑むといいます。岳彦の足はすぐに手当をしなくてはならない
状態です。吉田はその後、アイガーに向かったのか、アイガーに挑戦したのか。とても気になるのです。しかし、それについては何も触れられず、物語は終わるのです。
*
新田次郎は、竹井岳彦と吉田広のその後を短編に書いていました。竹井岳彦・吉田広という名前ではなく、モデルの本名で。その短編が「アイガー北壁」です。「アイガー北壁」から読んではなりません。『栄光の岩壁』を読んでから、「アイガー北壁」を読みましょう。読後感が数倍重厚な感動に包まれるでしょう。
栄光の岩壁 (上巻) (新潮文庫)/新田 次郎

¥620
Amazon.co.jp
栄光の岩壁 (下巻) (新潮文庫)/新田 次郎

¥620
Amazon.co.jp
アイガー北壁・気象遭難 (新潮文庫)/新田 次郎

¥662
Amazon.co.jp
岳彦は旧制中学の時に終戦を迎え、新制高校に編入されます。
岳彦少年にとっても戦争の存在は大きかったのでしょう。東京大空襲で、数え切れないくらいの、男女も年齢も推定できない黒焦げの遺体を目の当たりにした経験も大きかったでしょうし、軍国教育が一夜にして戦後民主主義教育になったその浅薄さに疑問もあったでしょうし……、高校の授業は、大学入試のためとしか思えず、まるで魅力を感じません。
岳彦を唯一引きつけるものは、山でした。物資のない中、山梨の農家で食糧を調達に行かされたときに見上げた山々、道草をして少し分け入った登山道……。そうしたものだけが唯一彼を引きつけるのでした。
学校にはほとんど行かなくなります。アルバイトをして、お金を貯めて、ピッケルなど山登りに必要なものを少しずつ買いそろえ、東京近郊の山から挑戦していきます。
冬の南八ヶ岳の縦走への挑戦を持ちかけたのは、山好きの同級生でした。
未熟な二人は、至らない装備のまま、無謀にも冬山に挑戦します。
赤岳山頂を過ぎて、吹雪は激しさを増します。永い吹雪は、同級生の命と、岳彦の足先を奪います。
両足の先を凍傷で失った岳彦は、不屈の努力で、再び山に向かいます。文字通り血のにじむ努力です。彼が再び歩けるようになり、そして山に登れるようになったのは、ほとんど奇跡といっていいものだと思います。しかし、走ったり、速く歩いたり、重い荷物を担いで歩いたりするのは、うまくはありません。
そんな岳彦が見いだした活路は、岩壁でした。アルピニストではなくクライマーとしてなら、彼のハンディは、ほとんど消えるのです。もちろん彼自身の超人的な努力によって消したのです。
様々な山の友人に助けられ、助け、裏切られながらも、日本の主立った岩壁は登攀しつくしてしまいます。目はどうしても世界に向かいます。
世界の三大北壁といえば、アイガー、グランド・ジョラスとマッターホルンです。いずれも日本人で登攀を成功させた者はいません。
岳彦は若く優秀で謙虚な登攀家、吉田広とともにスイスに向かいます。目指すはアイガー北壁です。
彼らクラスの技術があれば、アイガーでもマッターホルンでも登れるのです。登るだけなら簡単なのです。しかし、多くのクライマーたちがこうした巨壁の前に倒れていったのは、天候の問題があったからです。三日晴れれば登り切れるのです。その三日にほとんど出くわさないのです。1964年の夏、二人はよきスポンサーを得て、ひと夏挑戦します。頂上まであと三百メートルというところで彼らが勇気ある撤退を余儀なくされたのは、まさに吹雪が原因だったのです。
翌1965年の夏、借金をあちこちにして、二人は再挑戦します。その年もアイガーの天気は酷いものでした。「アイガーがひどいときは、マッターホルンは晴れる時がある」山の宿の老ガイドにいわれて二人は照準をマッターホルンに切り替えます。準備の上に準備を重ねたアイガー北壁ではなく、ほとんど研究してないマッターホルンの北壁に挑戦することにしたのです。
といってもやはり、登攀途中で悪天候となります。そして、岳彦の足から血が溢れはじめるのです。しかし、吉田広の超人的な活躍と岳彦のこれまた人智を超えた精神力で、二人は、登攀を成功させます。日本人としてはじめて、世界の三大北壁のひとつを登り切るのです。
感動とも悲しみとも喜びともつかない熱い気持ちに包まれて読み進めました。素晴らしい作品だと思います。
この物語は、二人のマッターホルン登攀成功で終わります。作中、若い吉田広は、マッターホルンを成功させて、次はアイガーに挑むといいます。岳彦の足はすぐに手当をしなくてはならない
状態です。吉田はその後、アイガーに向かったのか、アイガーに挑戦したのか。とても気になるのです。しかし、それについては何も触れられず、物語は終わるのです。
*
新田次郎は、竹井岳彦と吉田広のその後を短編に書いていました。竹井岳彦・吉田広という名前ではなく、モデルの本名で。その短編が「アイガー北壁」です。「アイガー北壁」から読んではなりません。『栄光の岩壁』を読んでから、「アイガー北壁」を読みましょう。読後感が数倍重厚な感動に包まれるでしょう。
栄光の岩壁 (上巻) (新潮文庫)/新田 次郎

¥620
Amazon.co.jp
栄光の岩壁 (下巻) (新潮文庫)/新田 次郎

¥620
Amazon.co.jp
アイガー北壁・気象遭難 (新潮文庫)/新田 次郎

¥662
Amazon.co.jp
新田次郎さんはその自伝『小説には書けなかった自伝』の中で、自分が「山岳小説」作家という風に分類されることに違和感を持つようになったと吐露しています。新田さんは、小説の中で、山を描いているのではなくて、やはり、人間を描いているのだから、「山岳小説」というような、山が主人公であるかのような、山そのものが作品のテーマであるかのような名称と、そのレッテルを貼られたことに困惑していたようです。
山岳小説を私はほとんど読んできませんでした。山登りに何の興味もなかったから手に取らなかったのです。しかし、読んでみると、これがまことに面白いのです。
山の知識も山登りの経験もまるでない私のような者が読んでも、これほど面白いというのは、なぜなのでしょうか。
新田次郎さんの山岳小説のいくつかは、「山と渓谷」のような専門の雑誌に連載されているので、専門用語も出てきますし、その用語について説明はほとんどありません。それとなく説明を作中に溶かし込むというようなこともしていません。「アイゼン」とか「わかん」とか「ピッケル」とか「ハーケン」とか普通に出てきます。しかし、そんなことは気にならないで、ぐいぐい読めるのです。なぜなのでしょう。
山、特に冬山は、死と隣り合わせです。
ビバーク中に猛烈な吹雪に遭って、体温を奪われて死ぬこともあるかもしれませんし、雪崩に巻き込まれて木に頭を打って気を失っているうちに凍死することもあるでしょうし、単に足を滑らせて滑落死することもありえます。遭難して、食糧や水がなくなって、餓死することもあるでしょう。
そうした極限状況で、出てくるのが、人間性の部分です。その人、その人の人間性です。むき身の人間性です。その描かれたむき出しの人間性が読む者をぐいぐいと引っ張るのです。細かな登山道具の名前など分からなくても、作品の本筋はそんなところにはないので、まったく気にせずに読み進めることができるのです。
一人で山に登ることを単独行というそうです。普通は、二人以上のパーティで山に登ることが多いようです。協力し合って、荷物を分担した方が、登攀するにしても、ビバークするにしてもやりやすいでしょうし、孤独が紛れるということも大いにあるでしょう。
しかし、パーティでの登山は、よこしまな人間、身勝手な人間、粗雑な人間、未熟な人間がいるとパーティ全体が危ない状況になってしまいます。そこに人間ドラマが立ち上ってくるのです。
本書は、「単独行の加藤」という我が国の登山史上、大変に著名な加藤文太郎という登山家の生涯を追っています。下界ではちょっとした、いや相当な変人です。山の世界でも変人扱いされていたのかもしれません。しかし、その実力は他を圧するものがあったようです。
加藤はサラリーマン登山家の走りです。それまでは学生やお金持ちといった一部の人たちの趣味の世界だったのです。しかし、サラリーマンは、長期休みが取りにくく、資金もそれほどありません。装備も知れています。そこで加藤のやったことがすごいのです。
冬山でのビバークやキャンプに慣れるために、冬の庭にテントを張ってそこで寝起きする、携行食糧を独自に開発する(甘納豆を油で炒めたようなものをポケットに入れて、登山しながら食べる<食事の時間を作らない>)、会社への通勤では、石を詰めた重いリックサックを担いで、1時間以上歩いていく、出社前に六甲に登る、雪をかぶっても寝られるかどうか試してみる……。その驚愕の訓練の日々や新発想の数々を読むだけでも面白いのです。
人嫌いの加藤文太郎が、パーティを組んで、厳冬期の北アルプスの峻険、北鎌尾根に挑むことになったのです。加藤は人と山に入るのは好きではありません。しかし、行きがかり上、拒否できない状況に追い込まれました。まことに悪い予感がします。そしてラストは……。
山岳小説未体験の方は、騙されたと思って、本書を読んでみてください。グイグイ引き込まれますよ。
孤高の人〈上〉 (新潮文庫)/新田 次郎

¥700
Amazon.co.jp
孤高の人〈下〉 (新潮文庫)/新田 次郎

¥700
Amazon.co.jp
山岳小説を私はほとんど読んできませんでした。山登りに何の興味もなかったから手に取らなかったのです。しかし、読んでみると、これがまことに面白いのです。
山の知識も山登りの経験もまるでない私のような者が読んでも、これほど面白いというのは、なぜなのでしょうか。
新田次郎さんの山岳小説のいくつかは、「山と渓谷」のような専門の雑誌に連載されているので、専門用語も出てきますし、その用語について説明はほとんどありません。それとなく説明を作中に溶かし込むというようなこともしていません。「アイゼン」とか「わかん」とか「ピッケル」とか「ハーケン」とか普通に出てきます。しかし、そんなことは気にならないで、ぐいぐい読めるのです。なぜなのでしょう。
山、特に冬山は、死と隣り合わせです。
ビバーク中に猛烈な吹雪に遭って、体温を奪われて死ぬこともあるかもしれませんし、雪崩に巻き込まれて木に頭を打って気を失っているうちに凍死することもあるでしょうし、単に足を滑らせて滑落死することもありえます。遭難して、食糧や水がなくなって、餓死することもあるでしょう。
そうした極限状況で、出てくるのが、人間性の部分です。その人、その人の人間性です。むき身の人間性です。その描かれたむき出しの人間性が読む者をぐいぐいと引っ張るのです。細かな登山道具の名前など分からなくても、作品の本筋はそんなところにはないので、まったく気にせずに読み進めることができるのです。
一人で山に登ることを単独行というそうです。普通は、二人以上のパーティで山に登ることが多いようです。協力し合って、荷物を分担した方が、登攀するにしても、ビバークするにしてもやりやすいでしょうし、孤独が紛れるということも大いにあるでしょう。
しかし、パーティでの登山は、よこしまな人間、身勝手な人間、粗雑な人間、未熟な人間がいるとパーティ全体が危ない状況になってしまいます。そこに人間ドラマが立ち上ってくるのです。
本書は、「単独行の加藤」という我が国の登山史上、大変に著名な加藤文太郎という登山家の生涯を追っています。下界ではちょっとした、いや相当な変人です。山の世界でも変人扱いされていたのかもしれません。しかし、その実力は他を圧するものがあったようです。
加藤はサラリーマン登山家の走りです。それまでは学生やお金持ちといった一部の人たちの趣味の世界だったのです。しかし、サラリーマンは、長期休みが取りにくく、資金もそれほどありません。装備も知れています。そこで加藤のやったことがすごいのです。
冬山でのビバークやキャンプに慣れるために、冬の庭にテントを張ってそこで寝起きする、携行食糧を独自に開発する(甘納豆を油で炒めたようなものをポケットに入れて、登山しながら食べる<食事の時間を作らない>)、会社への通勤では、石を詰めた重いリックサックを担いで、1時間以上歩いていく、出社前に六甲に登る、雪をかぶっても寝られるかどうか試してみる……。その驚愕の訓練の日々や新発想の数々を読むだけでも面白いのです。
人嫌いの加藤文太郎が、パーティを組んで、厳冬期の北アルプスの峻険、北鎌尾根に挑むことになったのです。加藤は人と山に入るのは好きではありません。しかし、行きがかり上、拒否できない状況に追い込まれました。まことに悪い予感がします。そしてラストは……。
山岳小説未体験の方は、騙されたと思って、本書を読んでみてください。グイグイ引き込まれますよ。
孤高の人〈上〉 (新潮文庫)/新田 次郎

¥700
Amazon.co.jp
孤高の人〈下〉 (新潮文庫)/新田 次郎

¥700
Amazon.co.jp
私の知り合いの某氏も編集者で、将棋好きだ。
彼も将棋デビューが遅かった。しかし、40才になってからはじめたにもかかわらず1年ほどで1級、その後半年で初段程度になったので、適性はあったのだと思う。
しかし、そこからは茨の道で、3年間毎日のように将棋の本を読み、詰将棋をしても二段になかなかなれないでいる。
その彼が、今、窮地に陥っている。将棋どころではないという。
事情はよく分からないが、金を工面しないといけなくなったそうだ。
急場はサラ金で借りて凌ぐとして、その借金を利子が膨らむ前に返さないといけないという。
私に自由になる金は数千円しかないので、力になれない。
彼にその借金を返す算段を聞いたところ、「非合法な、裏仕事に手を出す」という。
これまた詳細がよく分からないが、並々ならぬ決意のようなので、「がんばれ」と言っておいた。
大人になると、こういうことがまま起こりうる。
本人はいたって真面目で、しっかり働いているのに、何らかの罠にはまって大きなダメージを受けるということがある。ダメージは、金にくる時もあるし、心にくる時もある。
実は、かくいう私も彼と似たような状態である。将棋の壁もそうだが、「非合法な、裏仕事に手を出さねばならない」点の方である。
「非合法」といってもいわゆる六法全書的な非合法ではなくて、「会社の規則」を外れるという程度の意味でだが。もちろん、バレれば、クビである。会社は人を減らしたくてしょうがないのだから、規則違反を理由に解雇できる。懲戒解雇にすれば、退職金を支払う義務もなくなる。
六法全書的な非合法も大変だが、会社の規則違反も大変なのである。
彼のように裏社会に身柄を投じる訳ではないが、それなりに危険な道を進まねばならなくなったのである。私の場合は金ではなく信義の話である。ともかく、将棋の修業どころではなくなったのである。この1年が勝負である。
彼も将棋デビューが遅かった。しかし、40才になってからはじめたにもかかわらず1年ほどで1級、その後半年で初段程度になったので、適性はあったのだと思う。
しかし、そこからは茨の道で、3年間毎日のように将棋の本を読み、詰将棋をしても二段になかなかなれないでいる。
その彼が、今、窮地に陥っている。将棋どころではないという。
事情はよく分からないが、金を工面しないといけなくなったそうだ。
急場はサラ金で借りて凌ぐとして、その借金を利子が膨らむ前に返さないといけないという。
私に自由になる金は数千円しかないので、力になれない。
彼にその借金を返す算段を聞いたところ、「非合法な、裏仕事に手を出す」という。
これまた詳細がよく分からないが、並々ならぬ決意のようなので、「がんばれ」と言っておいた。
大人になると、こういうことがまま起こりうる。
本人はいたって真面目で、しっかり働いているのに、何らかの罠にはまって大きなダメージを受けるということがある。ダメージは、金にくる時もあるし、心にくる時もある。
実は、かくいう私も彼と似たような状態である。将棋の壁もそうだが、「非合法な、裏仕事に手を出さねばならない」点の方である。
「非合法」といってもいわゆる六法全書的な非合法ではなくて、「会社の規則」を外れるという程度の意味でだが。もちろん、バレれば、クビである。会社は人を減らしたくてしょうがないのだから、規則違反を理由に解雇できる。懲戒解雇にすれば、退職金を支払う義務もなくなる。
六法全書的な非合法も大変だが、会社の規則違反も大変なのである。
彼のように裏社会に身柄を投じる訳ではないが、それなりに危険な道を進まねばならなくなったのである。私の場合は金ではなく信義の話である。ともかく、将棋の修業どころではなくなったのである。この1年が勝負である。
忍び外伝/乾 緑郎

¥1,575
Amazon.co.jp
遅まきながら、読みました。文章がしっかりしているのに驚きました。
リアリティ系の書き方でSF的発想を呑み込んで書いています。
和田竜『忍びの国』も本書も、「天正伊賀の乱」と呼ばれる織田軍の伊賀国侵攻を描いていますが、和田版が奇想天外ユーモア活劇とすれば本書は大人のSF活劇です。また、和田版がキャラクター小説とすれば本書は伝奇小説です。
伝奇小説や忍者小説を昔から読まれていた方には、是非オススメしたい一冊です。
SF的力業ながら、乾氏なりの本能寺の変の真相を提出しています。
あ、ちなみにこの「天正伊賀の乱」を織田信雄の視点で描いた小説があります。
鈴木輝一郎『狂気の父を敬え』です。是非、合わせてお読みください。
また、直木賞受賞の名作『梟の城』の冒頭は、この「天正伊賀の乱」直後から始まります。
*
忍者小説で印象深かったものを思いつくまま挙げてみましょう。
柴田錬三郎『赤い影法師』『南国群狼記』『柴練立川文庫 猿飛佐助』『同 忍者からす』
司馬遼太郎『梟の城』『風神の門』
池波正太郎『忍びの女』『忍びの旗』『蝶の戦記』『忍者丹波大介』『火の国の城』
山田風太郎『甲賀忍法帖』『伊賀忍法帖』
五味康祐 『柳生武芸帖』
早乙女貢 『忍法かげろう斬り』
新宮正春 『陰の絵図』
戸部新十郎『服部半蔵』
南原幹雄 『幕府隠密帳』
神坂次郎 『草書本猿飛佐助』
宮本昌孝 『風魔』
海道龍一朗『惡忍―加藤段蔵無頼伝』
風野真知雄『妻はくノ一』
朝松健 『真田昌幸』
沢田黒蔵 『忍び鬼天山』

¥1,575
Amazon.co.jp
遅まきながら、読みました。文章がしっかりしているのに驚きました。
リアリティ系の書き方でSF的発想を呑み込んで書いています。
和田竜『忍びの国』も本書も、「天正伊賀の乱」と呼ばれる織田軍の伊賀国侵攻を描いていますが、和田版が奇想天外ユーモア活劇とすれば本書は大人のSF活劇です。また、和田版がキャラクター小説とすれば本書は伝奇小説です。
伝奇小説や忍者小説を昔から読まれていた方には、是非オススメしたい一冊です。
SF的力業ながら、乾氏なりの本能寺の変の真相を提出しています。
あ、ちなみにこの「天正伊賀の乱」を織田信雄の視点で描いた小説があります。
鈴木輝一郎『狂気の父を敬え』です。是非、合わせてお読みください。
また、直木賞受賞の名作『梟の城』の冒頭は、この「天正伊賀の乱」直後から始まります。
*
忍者小説で印象深かったものを思いつくまま挙げてみましょう。
柴田錬三郎『赤い影法師』『南国群狼記』『柴練立川文庫 猿飛佐助』『同 忍者からす』
司馬遼太郎『梟の城』『風神の門』
池波正太郎『忍びの女』『忍びの旗』『蝶の戦記』『忍者丹波大介』『火の国の城』
山田風太郎『甲賀忍法帖』『伊賀忍法帖』
五味康祐 『柳生武芸帖』
早乙女貢 『忍法かげろう斬り』
新宮正春 『陰の絵図』
戸部新十郎『服部半蔵』
南原幹雄 『幕府隠密帳』
神坂次郎 『草書本猿飛佐助』
宮本昌孝 『風魔』
海道龍一朗『惡忍―加藤段蔵無頼伝』
風野真知雄『妻はくノ一』
朝松健 『真田昌幸』
沢田黒蔵 『忍び鬼天山』
「吐きたくなるくらい、バカばっかり」
とつぶやきながら歩いている人がいた。京王線某駅のホームでのことである。
「私もその内の一人ですが、何か」
と言ってみた。
聞こえない程度の音量で。
とつぶやきながら歩いている人がいた。京王線某駅のホームでのことである。
「私もその内の一人ですが、何か」
と言ってみた。
聞こえない程度の音量で。
昔、大阪の小学校で、
「自分、自分のこと自分ゆうから、自分のゆう自分て、自分のことか自分のことかわからへんから、自分、自分のこと自分ゆうのやめよし」
といっている女子がいた。
「自分、自分のこと自分ゆうから、自分のゆう自分て、自分のことか自分のことかわからへんから、自分、自分のこと自分ゆうのやめよし」
といっている女子がいた。