100点満点とは、評価する側が既に到達している課題での挑戦の到達水準を示す言葉だ。
それは、同じ定規で計測できる既知の領域であることを意味する。評価する人が既に到達した領域であることを前提とした到達地点のことなのだ。
この場合、未到達分は、既知であり計測できるからその評価は減点法で示されることになる。
それに対して120点という評価の100点を超えた20点は、未知であるはずの領域で、期待値を超えた到達領域への到達についての評価のことだ。
未知の領域での評価は、加点法で示すしかない。言葉に賞賛と敬意を込めてみても、評価の尺度は極めてアバウトで恣意的となるのはやむを得ない。なぜなら、評価する側が経験していない領域であることが多いために、未だ共有できる適した定規が存在しないからだ。
例えて言うならば、水が沸点に到達するまでは、液体の温度として測定できても、沸点に到達して気化してしまうと同じ測定方法は通用しないことになるのと同じなのだ。
でも、未知の領域への踏み込みをする先人たちがいたからこその人類の進歩であったと思う。未知の領域への挑戦こそが重要なのだ。未知の領域は人間の目の前には無限に開かれているように思う。既知と思うことは、不遜(ふそん)な態度なのだ。
100点までの範囲で行われることは、「管理」「支配」である。「アメ」と「ムチ」の世界だ。褒めたり、叱ったりのあの手この手が使われる。
反復による習熟によって身につける能力が多い気がする。気が散ることは戒められる。師弟の間柄での礼儀と作法も要求される。修業の場が“道場”と呼ばれるのはそのためだろう。
しかし、「ムチ」が度が過ぎると気持ちの萎縮(いしゅく)を生じさせるので、向上心が萎(な)えて意欲が萎(しぼ)んでしまうことになる。弟子が「自信」を失ってしまうと致命的だ。
また、「アメ」や「ニンジン」にばかり頼ると、「自惚れ(うぬぼれ)」「我が儘」や「驕(おご)り」「横柄」「思い上がり」「自分勝手」を弟子に生じさせることもある。
今日のように、少子化が進み、子育てに過保護や過干渉が生じ、近所にも異年齢のガキ大将集団での遊びの中での対人関係の鍛錬育成が行われにくい環境の下では、弟子の側も試練には弱くなっていることも考えに入れなくてはならない。ましてや、スマホの普及で、社会全体で、ますます生身の人間との関係性が薄くなっているのだ。間違っても「自己責任」などという言葉は使ってはならない。「自己責任」は禁句だと思う。
大切なことは、指導者・師匠が、弟子に対する☆人間としての自尊心☆を傷つけない配慮だと思う。道場では、未知の領域への挑戦をして、謙虚に☆人の道も☆学び、修得することになるはずだからだ。
「○○ハラスメントharassment」と呼ばれる事例は、「パワハラ」「アカハラ」「セクハラ」など各所で頻発している様子だが、100点満点を知っているという指導者側の★自惚れ★にあるのだと思う。
未知の領域への挑戦心の欠如しているそういう不遜な指導者は、そういう地位や立場にいるにはふさわしくない人なのだと思う。こういう時代だからこそ、早々に身を引いて退いてほしいと願う。世のため人のために。
未知の領域の20点は仮にということで点数で表現したが、これも本当はふさわしくないかもしれない。テストのない学校とか通知表のない学校とかいうものも世界にはあるらしいから、そういうところのチャレンジは、きっと未知の領域への羽ばたきを究極の教育の目標としているためだろう。これは、ブラックやインチキが蔓延しだしている企業でも、参考にすべきことなのではないだろうか。自惚れた管理を廃して、自由な発想を醸成したり培う場を創るためには、蕾(つぼみ)を秘めた一人ひとりの人間の開花の多様性を重視する発想と環境が不可欠なのだと思う。未知の領域での評価は、人に応じての言葉による表現がふさわしいが、敢えて、点数で評価するならば、加点法が採用される必要があると思う。