1999年国の行政組織を縮小し、外部委託を図るために国から独立させて法人格を持たせた機関を『独立行政法人』87といい、そのうち、役職員の身分を国家公務員とするものを『特定独立行政法人』7=別名「行政執行法人」というそうだ。

つまり『独立行政法人』とは、中央省庁の現業部門、試験研究機関、国立の美術館・博物館などを独立させ、新たに「法人格をもつ機関」としたものらしい。

 

なぜ、関心を持って調べたのかというと、独立行政法人「高齢・障害・求職者雇用支援機構」から福島県からの自主避難者が訴訟を起こされたという問題を知ったからだ。

 

「行政」という名を冠している機関が、個人(生身の人間)を訴えるというのは尋常なことではない。それも、世界でも稀に見る福島第一原発事故により、不可知の見えない恐怖に襲われた原発事故の被災者に対してである。放射能が恐ろしいものでなければ、医療用レントゲン室もあんなに厳重な管理を必要とするわけがない。作業員に防護服が必要とされるわけがない。原発労働者は時間の長さでなく、被曝量で労働可能時間が定められるわけがない。危険だから、誰にも分かるようなマーク表示も定められているのだろう。

 

専門家と称する御用学者たちが事故直後に、TVに出演して「心配するほどのことはない」と言い張っていた矢先に原発が爆発した映像が流れたのを今でも鮮明に覚えている。専門家と称する人たちの化けの皮が剥がれた瞬間であった。そして、福島県の広範囲の地域が放射能汚染され、居住不能な汚染地域も生まれ、広大な国土が失われたといっても過言ではない。専業農家だった友人も20km範囲に住んでいたため、強制退去の対象となり難民化して、先祖伝来の生業を失った生活を送ることになってしまった。

内部被曝と外部被曝があるというのも、それから知ることになった。漠然としていた放射能への恐怖が身近なものになったのだ。被曝による危険は確率%で表現されることが多いのも不安を引き起こす。自分が被害の発症者の中に入らない保証はないからだ。

 

結局は、心の中の“我慢値”が人ぞれぞれの個人の行動や選択に反映することになる。

簡単に言えば、原発誘致に積極的に賛成し金銭的な恩恵を受けていた人の多くは、自らの判断が招いたことでもあるので、恐怖には目をふさいで見ないようにして、我慢するようにするだろう。漠然とお上のすることだから、信用してもいいだろうと脳天気に構えていた人は、事故が起きてから、自身の甘さを反省し、行政や御用学者への不信感が芽生えて、安全を求めて、安心して暮らせる環境をまずは選ぶという選択があっても当然である。これが自主避難者の大半の気持ちだろうと思う。また、原発誘致そのものに当初から反対し、事故の危険に警鐘を鳴らし続けていた人々の無念の程は計り知れない。安全神話を振りまいていた行政や御用学者への不信感と怒りは相当なものがあって当然である。今また、新たな★安全神話★が語られていると捉えるのは、当然過ぎるほど当然である。

 

原発事故で広範囲に★放射能汚染★が広がったのは、現実であり、事実である。人体への被害がどこまで及んでいるのかは、水俣病のときがそうだったように、科学的な証明がないと放置される事態が続くことになる。検証には時間がかかるはずだ。事故からたった六年で、あたかも除染され元通りの居住環境が復元されてかのように、行政がふるまうというのは、信じがたいことだ。“我慢値”というのは、それまでの生き方と行動によって人によって全く異なるのだ。

 

自主避難者を「わがまま」だといって非難する人もいるようだが、そういう同調圧力をかける人が行政や権力を批判するのを聞いたことがない。「長いものに巻かれて生きてきたし、これからもそう生きて行こう」というのだろう。そういう隷従の生き方の選択も否定はしないが、その選択を“我慢値”が異なり生き方も歩みも異なる他者にも押し付けないでほしいと思う。ましてや、行政が原発事故の発生を予見して反対していた人々に対しての謝罪もないままに、被害者を逆に告発するという暴挙は信じがたいことだ。

 

反戦や非戦の声を封じ込めて大政翼賛会的に突入した戦争では、戦後になって戦争責任はどこにあるのかという検討は戦犯とされた人々にとどめられたように思う。同調圧力をかけた国民自身の自らへの後悔や真摯な猛省はおこなわなかったのではないか。そういう精神構造が被害者である自主避難者を加害者のごとく非難するという暴挙を許しているのだと思う。「いじめ」構造である同調圧力を利用した行政の暴挙を許してはならないと思う。

 

誰も好んで故郷を捨てたりしないし、家族が離散した生活を選びはしない。健康で文化的な生活をどう考えるのかは人それぞれである。生存権と生活権の尊重は、基本的人権の核心だ。

ハンデのある障害者にたいする社会的な配慮としての施設や設備を批判する人は殆んどいないはずだが、相模原障碍者施設殺傷事件があったからそういう考えの人物の存在は悲しいが現実である。

 

このたびの自主避難者への批判は、同じ根っこがあるように感じてしまうのだ。為政者や行政がそのような選択へ舵を切ったということは、浅はか過ぎるし、様々な問題に波及してくる由々しき事態だと考える。

行政の切り札の言葉は「自己責任」であり、自己責任を果たせない人間はこの世から消えても当然であるという妄信がそこにはあるからだ。