理屈とヒラメキ | 平岡秀幸 ・ ブログで読む演技論

平岡秀幸 ・ ブログで読む演技論

京都を中心に演劇活動をしています。
演劇、特に演技について、
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色々発信していきます。

 「理性と直感」といった方が賢そうに聞こえるが、感覚的には理屈とヒラメキと書くのがしっくりくる。

 演出や構成を考えるとき、まずヒラメキがある。

 その時は素晴らしいと思う。

 そしてそれをどう見せるか、ストーリーや前後の場面との整合性を考えながら整理していく。

 するとそのヒラメキがくだらなく思えてきたり、ちょっと無理があるだろう、となってくる。

 さらに整理して、つまり理屈で考えながら構成を作り上げ全体を見てみると、なんだかつまらない。理屈が勝ち過ぎている。

 そんなことがよくある。

 どこまで閃きを活かすか、理屈を通すか、葛藤する。

 

 そんなことを考えている時に、陶芸家の河井寛次郎氏の言葉に出会った。

 氏は自分の作品を「分別して生んだもの」「ぎりぎりの無分別で生んだもの」「分別はしたが作るときには無分別でやったもの」に分け、見比べてみると、分別で生んだものは割り切れていて面白くない、ぎりぎりの無分別で作ったものが一番あきないと言う。

 (講談社文芸文庫・蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ、より)

 

 陶芸は、いくら理屈で考えて作っても、焼き上がったときに思い通りにならない。

 そこに自分の思い以外のモノが入り込む。

 つまり自分の手を放して、別の力に任せなければならない。

 

 演劇も一人の思いや力でできるものではない。

 何より最後は、観客に委ねなければならない。

 

 自分一人の分別や理屈なんて、大したこと無いんですな。