「理性と直感」といった方が賢そうに聞こえるが、感覚的には理屈とヒラメキと書くのがしっくりくる。
演出や構成を考えるとき、まずヒラメキがある。
その時は素晴らしいと思う。
そしてそれをどう見せるか、ストーリーや前後の場面との整合性を考えながら整理していく。
するとそのヒラメキがくだらなく思えてきたり、ちょっと無理があるだろう、となってくる。
さらに整理して、つまり理屈で考えながら構成を作り上げ全体を見てみると、なんだかつまらない。理屈が勝ち過ぎている。
そんなことがよくある。
どこまで閃きを活かすか、理屈を通すか、葛藤する。
そんなことを考えている時に、陶芸家の河井寛次郎氏の言葉に出会った。
氏は自分の作品を「分別して生んだもの」「ぎりぎりの無分別で生んだもの」「分別はしたが作るときには無分別でやったもの」に分け、見比べてみると、分別で生んだものは割り切れていて面白くない、ぎりぎりの無分別で作ったものが一番あきないと言う。
(講談社文芸文庫・蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ、より)
陶芸は、いくら理屈で考えて作っても、焼き上がったときに思い通りにならない。
そこに自分の思い以外のモノが入り込む。
つまり自分の手を放して、別の力に任せなければならない。
演劇も一人の思いや力でできるものではない。
何より最後は、観客に委ねなければならない。
自分一人の分別や理屈なんて、大したこと無いんですな。