以前「私が邪魔をする」ということを書いた。
主体的な私は大切だ、しかし自意識にとらわれると反対に私が邪魔ものになってくる。
言葉の上で私といえば一つだが、私というたった一つの実態などと言うものは無い。
頭もそうだ。
考えるということは大切だが、考えすぎて失敗することもある。
演技プランを考えすぎて失敗することもあるし、しっかりとプランを練ってから稽古場に行っても、実際の稽古では全く違ったことをしてしまうこともある。
新しい作品の構想を練るときは、やはり頭を使ってしまう。
シェイクスピアのマクベスは、何度もかかわっていて思い入れのある作品だ。
もう一度挑戦してみたいと思っているが、具体的な計画は無いので、今度はこんな形でやってみたいなどと、勝手に演出プランを膨らませている。
そんなプランだけを膨らませている作品がいくつもある。
私が演技で大切にするものは、関係性だ。
例えばマクベスで言えば、魔女とマクベス、操るものと操られるものの関係がはっきりしている。
それをいかに見せるかを考えてプランを練る。
うーん、これはいける・・・、と思っても翌日思い返すと、全くくだらなく感じる。
説明的すぎるのだ。
舞台では関係性がしっかりと見えることが大切だ。
しかしきちっとやることをやっていれば、関係性は生まれてくる。
その上で、その関係性をいかに見せるかということが演出の要だ。
頭で考えすぎると、見せるということが説明するということにすり替わってしまう。
観客として舞台を見れば、説明的な芝居ほど退屈なものはない。
しかし作る側に回れば、ついつい説明したくなる。
ご用心、ご用心。