
<2011年11月5日>
南三陸町も、ある意味旧雄勝町地区と同様、あまり復旧の槌音は聞こえませんでした。人っ気の少ない廃墟
のような光景が続きました。
気仙沼の中心部に入ったときは、もう午後4時近かったと思われます。まず最初に港へいってみました。破壊
されてはいるものの、予想以上に 「 耐えた 」 姿が目に止まります。この街は、まだ 「 動き 」 が見えます。

銀行の建物は、さすがに丈夫に造られているんでしょうね、岩手銀行も七十七銀行も、信金も建物は残って
いました。でも、営業開始までには、相当の時間がかかりそうです。

街の中にも、残された建物はあります。
でも大半は流されて、残ってるのは土台のコンクリートのみ。

折れ曲がった街灯、それが突き刺さるように立っているビルのシャッター。

よく見てみると、残った建物は、鉄筋コンクリート造が多く、あとかたもなくなった建物は木造が多かったのでは
ないかと思われます。造りようによっては、つまり基礎と構造さえ頑丈に造れば、「 残る 」 可能性が高く、いざと
いうときには避難場所にも成り得ます。ただ問題は、それが 「 絶対安全 」 とは言えないこと。

土埃が舞う中を警察官の方が交通整理をしていました。
地盤沈下したせいでしょうか、道路自体が高くなっており、かつ土盛りをしたうえに砂利を敷き詰めただけ。
交通整理は、標識がないのと、何と言っても信号が点いていないのではなく、信号そのものがないため。

道路は、この高さです。
50センチ以上はありそうです。

木造の店舗は、この状態。ほぼ破壊し尽くされています。
外壁が残っているのは、まだマシな方。

この建物からは、大工工事の音が聞こえていました。
痺れを切らして、そのまま中を改装しはじめたものと思われます。このへんが、復興のむずかしさ。

道路が道路の体を成しておらず、側溝は使いものにならない。
交通面と衛生面は心配です。

地面そのものに段差ができてしまい、街灯も折れ曲がったまま。
そろそろ、日が暮れかけて来た頃ですので、夜になれば、まさに真っ暗になります。

丈夫そうに見える土蔵でも流されて、メチャメチャになっていました。
早朝7時頃には岩沼市の浜にたっていたという、早起き超ロングドライブ。
気仙沼の街を歩いていたのは午後4時頃。このへんがもう限界です。日が暮れてしまいます。
「 3.11 」 から8ヶ月経った現地の姿は、想像以上に復旧が進んでいませんでした。年が明けた今、10ヶ月
が過ぎても、おそらく事態はあまり進展していないと思われます。復旧復興は、超長期戦になることを思い知ら
されました。
そして何より、ただ車を飛ばして、「 見て歩いた 」 だけですが、「 現場に立ってみると 」 TVや写真で見るの
とは、( 当たり前ですが ) 臨場感や空気が全然違います。行く前は “ ただ見に行くだけなら、物見遊山みた
いで、後ろめたい・・・” と思っていました。実際に行ってみると、“ ( 現地へ ) まだ行っていない人は、是非一度
物見遊山でもいいから行ってみた方がいい・・・ ” と思います。
ボランティアをはじめとした支援活動で現地入りするのが一番でしょうが、見学でも、見物でも、物見遊山でも、
「 自分の目で見て、手で触れて、臭いをかいで、肌で感じて 」 来ることで、東日本大震災の現実がより一層
身近なものとして捕らえられるようになると思います。
是非皆さん、現地へ行ってみてください。
この日は、夜遅く自宅に辿り着きました。1日で走った距離は 「 776.5km 」 。私自身の一日の移動最長距離と
なりました。被災された皆様の、一日も早い復旧と、犠牲になられた方々のご冥福を改めてお祈りして、被災地
現場レポートは 「 21話 」 をもって終わりにしたいと思います。
次は、岩手県へ行ってみるつもりでおります。 【FIN】