イメージ 1
 
<9月9日>
 
 信州小布施町の 「 高井鴻山記念館 」。
 
 高井家は、元和年間 ( 1615~24 ) に浅間山麓から小布施に移り住み、その後北信濃きっての豪農商と
 
なって、小布施を拠点に江戸、京都、北陸、瀬戸内までをも商圏とする大きな商いを展開したそうです。
 
 高井鴻山は幕末維新の激動期に当主を務めた人物ですが、当時の日本史を彩った思想家たちとの交流し、
 
幕末の変革に一役買いました。
 
 「 鴻山愛用の火鉢 」 の角がすり減っているのは、この火鉢を囲んで激論を交わしたため、あっちへ押され、
 
こっちへ押されした結果。論客の中には、佐久間象山なんかもいたそうです。
 
 火鉢の後ろ、床の間の前に細長い台のようなものがあります。
 
イメージ 2
 
 同じものが縁側前にも置いてあって・・・“ どうぞ、ご自由にお弾き下さい!”
 
 琴です。弦は一本だけの。
 
 左手の中指に器具をつけて弦を押さえ、右手の人差し指に付けた爪で弾いて音を出します。楽譜もあるので
 
それを見ながら・・・♪サクラ♪サクラ♪♬
 
イメージ 3
 
 高井鴻山と交流のあった人物の中で、後世に最も知られるようになったのが 「 葛飾北斎 」 です。
 
 1階縁側の隅に、等身大?の人物絵が立っていて、「 画狂人 葛飾北斎 」 の表示。謎の多い北斎の姿は、
 
昼間に見ているからいいようなものの、夜にこの姿を目にしたら、幽霊か妖怪に見えますね。
 
イメージ 4
 
 「 北斎手彫りの盆 」
 
 鴻山と北斎の交流は、鴻山が江戸に遊学していた時期に始まり、その後北斎がわざわざ小布施まで鴻山を
 
訪ねて来るようになります。鴻山が北斎芸術の良き理解者であり、かつ経済的な後ろ盾となっていたことが、
 
交流を深めたと言われています。要はパトロンですね。
 
イメージ 5
 
 隣りにある、大きめの茶室ぐらいの建物は 「 碧猗 ( へきい ) 軒 」 といって、そんな北斎が訪れたときの
 
アトリエです。「 青いさざなみ 」 という意味。
 
イメージ 6
 
 6畳ぐらいでしょうか、天保13年 ( 1842 ) に建てられたといわれ、北斎はここで寝起きしながら絵の構想を
 
練ったようです。床の間の上部には、貝殻がびっしりついています。
 
 鴻山は北斎を師と仰いで尊敬し、北斎は鴻山を旦那様と呼んで、お互いがリスペクトし合うという折り目正しい
 
紳士的な交流が続いたと伝えられています。
 
 小布施の街のキャッチフレーズにも北斎が登場しています・・・【 栗と北斎と花のまち 小布施 】