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 「 シェーンブルン宮殿 」 を象徴する 「 マリア・テレジア・イエロー 」 という独特の 「 黄色 」

は、ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアに由来します。

 マリア・テレジアは1717年、神聖ローマ帝国皇帝カール6世の長女として生まれました。カール6世

には男の子がいなかったため、彼女が皇位を継承することになります。

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 栄華を極めたハプスブルグ家の始まりは、1020年スイス北部バーゼルに近い丘の上に築かれた小さな

城塞ハビヒツブルク(大鷹の城)にちなむと言われています。始祖はルドルフ1世ですが、オーストリア

の歴史は、ハプスブルグ家の登場とともに事実上始まります。

 ハプスブルグ家発展のキーワードのひとつは 「 結婚 」 ですね。

 当時は政略結婚が普通だったようですが、歴史を振り返ってみると、「 上手な結婚 」

「 幸運な結婚 」 のできた時期が、お家興隆の時期とオーバーラップします。最初は15世紀の、

マクシミリアン1世の時代。彼の信条は 「 オーストリアよ、結婚せよ! 」 だったと言われています。

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 マクシミリアン1世の信条であった 「 結婚政策 」 は、彼の子供達によって大きく開花します。

 息子のフィリップ、娘のマルガレーテ、孫のフェルディナンドの結婚で、スペインやボヘミアや

ハンガリーとの結びつきを深めて行くことになります。

 17世紀は、ハプスブルグ家にとって苦難の時代となりましたが、この世紀末からシェーンブルン宮殿

の建設が始まりました。こうして18世紀に登場するのがマリア・テレジアです。

 彼女は「女帝」と呼ばれてはいますが、16人の子供を産み、政務の忙しさの中、市民的で飾り気の

ない家庭生活を送ったことで知られています。夫のフランツ1世を亡くしたのが1765年ですが、それから

自身が亡くなるまでの15年間は喪服で通したそうな。

 そんな生き様だったこともあって、「国母」として民族の壁を越えて全国民から慕われたのかも

知れません。

 そんなマリア・テレジアが愛した 「 黄色 」 。

 シェーンブルン宮殿の独特の壁の色は、いまだに目に焼き付いています。