フランスで開催されている


国際漫画祭りで、いわゆる日本軍の慰安婦問題を


漫画作品として、事実誤認と誇張をきわめて展示されている。


それは文章ではなく、視覚に直接訴えるから


前後の事実関係など超越して、


見たものに旧日本軍の強い悪印象を与えて止まない。


これはもう表現の暴力である。


表現内容が事実ならば、責任を感じる。


しかし、それが事実からの逸脱も極まれりというべき内容だから


とても容認できるものではない。


実態は、軍の応募に対して半島の女衒業者が


給金の良さを訴え、それに貧窮していた農村の


婦女子が応募していたという事実をこそ訴えるべきだ。


日本国内もまた同様の応募状況であった。


軍刀を振りかざし、半島の婦女子を拉致するがごとき


振る舞いは皆無であったといっていいい。


ここに有ったのはただの需要と供給の関係だけだ。


給与と労働の関係性の必然だ。


現在の社会からみて決して健全なことではなかったことは確かだが、


そのような処置は、その時代の戦争状態にある国々の


どこにでも存在したこと。


もっというなら、戦後にパンパンといわれた娼婦たちも、


需要と供給の原理によって生まれた存在であり、


アメリカもまた駐留軍相手に、そんな慰安を日本政府に要求もしていた。


それが普通のことだったからだ。


そして、それは国際的に一切糾弾などされたことはない。


しかし、半島の軍隊はベトナム戦争において


参戦し、侵略先において行った行為は


戦中の日本軍の行った残虐行為といわれるものに


輪をかけたもので、婦女暴行、略奪、虐殺などは


当然のように行われていた。


これはベトナムの歴史に未来永劫負の記憶として刻まれるだろう。


そして、その行為は戦後になって個人の権利が


尊重されるようになってから行われていたという点が


より罪深いものだ。


日本は、戦後一切そんな行為は行ってはいない。


過去を反省し、それを実行することで世界に意を表してきたのだ。


そんな実績をなんら慮ることも無く、


過去を穿り返し続けることしかできない半島の知恵とは


なんと貧しい発想であることだろう。


そんな貧と卑の狂信にこれからも付き合っていかねばならないのだ。


そして、今太閤ならぬ今覇権国家を築きつつある大陸の大国。


かれらもまた戦後、自国民を権力闘争の名のもとに


彼らの公的発表でも何千万人も殺戮してきたのだ。


公的数字は得てして実際より少ないもの。


それから思うとゆえ無き犠牲者は何千万人になることやら。


なんにしても大戦の被害者より多い人数が犠牲になっているということだ。


そして、戦後の少数民族に対する残虐行為もまた


その実態は悲惨というしかない。


これらはすべて事実であり、記録もはっきり残っている。


もし、彼らが一方的に日本軍の行為を糾弾するなら


こちらはこれらの行為を、現代に生き続けるものであると


上乗せして訴えることも考えざるを得ないだろう。


応酬合戦という醜態に至るかもしれない。


しかし、情報戦とは元来そういうものだ。


相手がそれを望んでいるようなので、


もう二の足を踏むかのような遠慮は無用。


過去ではなく、現代に生きる残虐展。


これでいきましょう。


意を決して実行しても誰も文句など言うものか。

防空識別圏も漁業規制にも批判だけ。


それも親中派のシナリオどおりの台詞回しでだ。


いやおう無くこのままでは


第一列島線は既定になってゆくだろう。


これを容認したほうが楽な道と判断したということか。


そのツケはもちろんこちらに回ってくる。


中国は何のために妄信ともいえる覇権を目指すのか。


過去への郷愁か、それとも飽くなき欲への渇望か。


それが時代錯誤の歴史を繰り返しているということに、


彼らは今後も決して気づくことはないのだろう。

年末だというのに重い話になりそうだから


できるだけ簡潔に記す。


靖国の件だ。


無条件で認める派。


無条件で認めない派。


どちらでもいけない。


何がいけないか。


問題はA級戦犯とされた人たちの扱いだろう。


どちらもその問題に真の意味で


踏み込んでいるとは思われないからだ。


極東裁判を認めるなら


無条件で判断を下すのもいいだろう。


しかし、認めないのならそこにとどまらず、


次にやるべきことがあるはずだ。


なお、死した者は生前の行為如何を問わず


霊として奉る、などという論理は


残念ながら世界には通用しないから


それを前提で書いている。


本当は宗教的文化に関わることなので、


ほっておいてくれといいたくもなるが、


ことはもうそれを許してはくれなくなってしまっている。


もし前記裁判を認めないなら、


自分たちの手で、大東亜戦争の総括をすることが


逸脱した問題を本筋に戻すための絶対条件だ。


責任の所在を明らかにし、


開戦にいたった責任を公的な歴史認識となるような


政治的処置を、各方面の英知を集め、その結果を


世界の人々に対して、


日本としての意思表示として明確に行う。


それがなされないうちは、何を言っても


また何をしてもむなしい素振りに終わるだろう。


この作業は、戦前のアジアにおける欧米露のとった


侵略主義的政策の評価から始まる。


そしてそれに対してどんな政策的必然性が


わが国に生まれたのか。


まずは可能な限り初歩的な場合分け手法でもいいから、


客観的評価を作り上げてゆく。


その後に、当時為された判断の可否を下す。


それを掘り下げることで、


おのずから責任の所在も明らかになるだろう。


もし、その結果、戦争責任は無いというなら


それはそれで堂々と公的に表明したらいい。


また、もしあるとしたら、それは誰にあるのか


心苦しいが、責任者としての立場にあった個人名に至るまで


その所在を突き詰めねばならないと思う。


それが責任者というものだからだ。


それができるかできないか。


じつはそこが一番の問題ではあるが、


できないうちは何にも変わることはない。


それは現状の官僚組織論にも関わってくるし、


もし問題解決の厳しき一歩を踏み出せないなら、


そこには体質的問題こそが根っこにあるのではないかという


疑念はいつまでもついて回る。


もし、その壁を乗り越えることができるなら、


それは歴史的にも大きな一歩というべきであって、


そこまでたどり着いて後にやっと靖国に対する首尾一貫した


態度がとれるというものだ。


それをしないうちは何をしても


空虚な結果しか生まないだろう。


しかし、もし決然として歴史判断を為せたなら、


あとは何に対しても遠慮や斟酌は必要ではなくなる。


せめてそのくらいの展望と覚悟をもって


この件には対して欲しい。


正直、組織体質も宗教解釈も


現状継承しただけのままで、


現在の各方面の反応を見聞きするのは


もううんざりなんですよ。

失望したという。


それはこっちのせりふだ。


もしそのせりふを使うとしたら


もっと先に他国がもたらした


法を逸脱した威嚇外交に対してだった。


それをせずに、こわもてには中途半端に


お茶を濁し、飼い犬には恫喝か。


本末転倒だ。


国内の親中派の意向が幅をきかしているから、


ことなかれのへっぴり腰状態になっている米国だ。


世界政治のヘゲモニーを握るためにも、


まずは経済関係とその発展性を重視するっていうことか。


現実派のようでいて、現実感覚がどこかずれている。


私の靖国問題に対するスタンスは昨日書いたとおり。


しかし、それに対する他国の反応はまた別問題。


そろそろ本気で生き残る道を


自ら選択しなければいけないようだ。


顔色、発言、それに左右されない芯をつくっておいて


それから斟酌する道だ。


芯なく斟酌が先にありきでは


打つ手も限界となるのはもう目に見えている。

靖国参拝を大多数の国民が望むところだったという


記事があったが、私の同年代の友は


ほとんどそのことに普段関心はない。


私も参拝したことはない。


通りのまえからあの鳥居を見かけ、通り過ぎるだけだ。


そして、辛いのが苦手なくせに


昨日も私はお気に入りの


韓国家庭料理の店に行き、


片言ではなす店のお母さんと談笑した。


「あんた、いつも辛そうで気の毒ねえ」


「はふはふ、うまいんだからしょうがないんだよ」


食べてすぐ額ににじんでくる汗が心地よい。


店のTVで参拝のことを大事件発生とばかり


声高に伝えるのを聞き流しながら昨日は暮れた。


私にとって今の辛さのほうが大事件。


日常とはそんなものだ。


私にとってそれ以上でもそれ以下でもないのです。