敢えて隣人の”歴史認識”のことで彼らの声に耳を傾けるとすれば、敗退を「転進」といい、全滅を「玉砕」「散華」と言い換えて美化し、ボロ負けしたことさえ「終戦」と言ってさりげなくすべてを失ったといってもいい状況を曖昧な言い回しでそれぞれ誤魔化して、結果として真実をもうやむやにしてしまったことがまずある。それこそその事実さえなかったことにでもしてしまうのではないか、と思わせる為政者の無責任さがあって、それらを追認してしまいそうな現在の国民意識に警鐘を鳴らす意味では日本人としての過去(そう言えるほど昔でもないが)をしっかり見つめる必要はあると思う。
原爆ドーム然り、広島と糸満にある平和祈念公園然り、まだわたし自身は足を運んでいないが長崎の平和公園然り、あるいはこの大戦における現存する遺跡・遺構に赴いて目の前に立ってみればそれらが何をもたらしてくれたのか、おのずと気づくのではないだろうか。
ただ、ことあるごとに国家としての日本に対してつらく当たってくるそういう隣人に対しても日本人として、そして個人として言いたい。
過去に民族単位でされたことを言いたててくるのはもういい加減にしてもらいたい。
少なくとも日本でもあなたがたのなかでも戦争を実体験として知らない、歴史の中の重大事としてしか知らない世代が大多数だし、わたしもその一人である。
戦争を知らない世代の日本人からしたら自分の身に覚えのない悪行をさも自分たちがしてきたかのように言われ続ければ、できる我慢もできないししなくなるだろう。
あなたがたのいう”右傾化”などという状況はむしろあなたがたがやめようとしない”言葉の暴力”だったり”挑発”が作り出した結果と知るべきだ。
おたがいにいま住んでいる場所から動くことはできないのだし、あなたがたが我々にいつまでも言い立てて何が得られると考えているかは知らないが、いまのままで得られるものは何万ガロンもの血と油、そしておびただしい数の命に放射能が無駄に散らされて撒き散らされる”地獄絵図”だろう。
現実にそうなったとき、のちの世代に責任が負えるだけの覚悟があるのなら、いつまでもいまのままでいればよい。
負けて知った、そして手にした平和の果実が腐ってしまわないように。