車力道に残る人々の暮らしと石の記憶を歩く

鋸山

 
 
 
 

海の景色と浜金谷駅

 

 

 

まだ空には星が残っていた。

吐く息が白く、空気はきりりと冷えている。冬の早朝、始発電車に乗るため駅へ向かった。

 

 

 

今日は千葉の名山、鋸山へ。

 

電車に乗ってしまえば寒さも気にならない。「駅までの辛抱」そんなことを思いながら、自宅近くの駅へ向かった。

 

電車に揺られ、鋸山登山口のある浜金谷駅に向かう。
車窓から見える東京湾の海の景色に、自然と気持ちが高まる。

 

朝もやに霞む水平線。
遠くにはゆっくり停泊する貨物船の姿。

ゆらぐ海の光が、登山前の心を静かに整えてくれる。

 

浜金谷駅は無人の小さな駅。
海に近い田舎らしい、落ち着いた駅舎がどこか好ましい。

 

ホームに降りると、大きく広がる空に二羽のトビがゆっくりと舞っていた。
かすかに響く鳴き声とふわりかすめる海の香に「海のそばまで来た」と実感する。

 

これから歩く鋸山登山への期待が、静かに高まっていった。

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

車力道に残る女性たちの面影

 

鋸山は江戸時代から1980年代まで石の切り出しが行われていた山。

ここで採られた房州石は加工しやすく防火性に優れていたため、かまどや七輪などに利用されていたらしい。

 

石を麓に運ぶために造られたのが、車力道という道。かつて、石を運び出すために、この道を往復していたのは女性達だったという。

 

車力道にきざまれた轍を眺めていると、汗を拭いながら重いねこ車を押しながら山を降りる姿が浮かび上がる。

苔むした石や古びた道には、彼女たちのたくましく、凛とした日々が心に染み渡り、この山の歴史の証として静かに息づいているのを感じる。

 

 
 
 


 

順番が来ぬまま眠る石

 

 

 

苔むした積み石や、朽ちかけた機材を目にすると、ここで働いていた人々の気配をふと感じる瞬間がある。

 

切り出された石たちは、いまは苔をまとい、そのまま静かに眠りについている。

麓へ運ばれるはずだった石たちに、その順番が来ることはなかった。

二度と運ばれることのない石たちは、まるで役目を終えたかの様。今も静かに時間が流れている。

 

 

 

この石たちの前に立つと、人々の暮らしとともにあった石の仕事が終わり、ひとつの時代が静かに閉じられたことを感じた。

 
 

 

 

 

 
 

 

白亜の神殿 岸壁と神殿のような景色

 

 

車力道を登り続けると、鋸山にあるもうひとつの一つ印象的な場所。そして、私が最も好きな空間。

 

 

 

 

廃墟好きのあいだでよく知られた石切りの場所「吹き抜け洞窟」と呼ばれる空間は、石切りの跡がつくり出した、不思議な場所だ。

 

きれいに切り出されてできあがった巨大な空間は、まるでどこかの異世界へつながる遺跡のような景色をつくり出している。
人工の跡でありながら、長い年月のあいだに自然と溶け合い、不思議な静けさをまとった景色。

 

神秘的なその光景、流れる特別な空気。ふっと、思わず足を止めてしまう不思議な場所。
 

 

そして、もうひとつが岩舞台。ここも吹き抜け洞窟と同じ、時空が歪み異世界の時間が流れている。

 

役目を終えて眠りについた、機械が今も静かに残されて、石とともに眠り続けている。

 
 

岩肌に刻まれた「安全第一」の文字は、かつてこの場所が危険と隣り合わせの仕事場だったことを伝えている。
同時に、その言葉の向こうには、ここで働いていた人々の日常の気配も感じられる。

 

 

 

仕事の合間に交わした何気ない会話。
次の休みの日のこと。
今夜の食事のこと。

 

ささやかな暮らしの日々を重ねながら、人々はここで石を切り出し、暮らしを支えていた。

この場所には、かつてここで紡がれていた小さな暮らしの時間が、残っているように感じる。

 

 

私が鋸山でいちばん心惹かれるのは、この吹き抜けの洞窟と岩舞台。

ここに立つと、日ごとを大切に暮らしてきた人々の気配や、かつての生活の景色が目の前にひろがる。

 

石の冷たさや風の渡る音も、往き来する人の歩み。ここが生きた場であったことを静かに知ることができるから。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

鋸山に残る、日常の歴史の香り

 

 

鋸山は、平凡な人々の日常の中に息づいている山だ。

苔むした石や古い道には、ここで働き、暮らしていた人々の時間が静かに残っている。

 

下山の道すがら、海には強い風が吹き、波が少し高く打ち寄せていた。

 

車力道で感じた石の重み。
人々の暮らしの気配。

 

それらは、日々の慌ただしさをふわりとほどいてくれる瞬間。

 

空を見上げると、青い空が広がっていた。

 

――今日も、良き一日だった。

 

 

 
 

 

 
 

 

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