はやく悟りを開く方法?
法王様に聞いてみました。
この法話も今回で最終回。
ケンポ先生と講習を受けた人たちとの
質疑応答です。
【訳者より】
座禅の姿勢で臍下丹田に『印を結ぶ』
『深呼吸を繰り返す』
『意識を一点に集中』
『長い時間をかける』
すると、
臍下丹田に『気』がチャージされ始めます。
最近のアニメのナルトなどの用語で言えば
『チャクラが開き始める』と呼べばわかりやすいでしょうか?😅
最初は、身体の下の方のチャクラが開かれて、徐々に胸の真ん中の中丹田、ひたいにある上丹田、
など、が開かれていきます。
(細かく説明すれば、チャクラは、身体の正中線上に7〜8ヶ所あるそうですが、ふだん気になるのは三つくらいです)
その状態に入ると、身体が自動的に自分の悪いところを修復しようとするので、各人、それぞれに、あくび、ゲップ、体がぐらぐら揺れ始めたり、
各所が熱くなったり、さまざまな反応が出てきます。
ヨガの行者が同じ状態で
数時間から数日、平気でいられるのは
このチャクラが開かれているからです。
しかし、これもマラソンなどと同じで毎日、
地道に基本に忠実に訓練を続けないとダメで
中断すれば、振り出しに戻ります💦
各自で辛抱強く地道な訓練を積まなければ
高みには至りません。
この続きです。
だいたい5分経ちました。この後、私たちは今日の禅の修行四座すべて、基本的な紹介は完了しました。この後の30分間は、みなさんの質疑応答をしようと思います。どうぞ、ご質問下さい。
◎1:45:34
質問者:
まず先に先生が日本に来てくださった事に感謝いたします。私たちのために丁寧な教えを賜りありがとうございます。
私がお聞きしたいことは、すでに先生が誌上で発表されている事なのですが、やはり、どうしてもお訊ねしたいのです。
私、ふだん、座禅をしている時、しゃっくり、ゲップをしたくなるのですが、なぜでしょうか?身体がとても熱くなるんです。同じ修行している仲間たちも同じような症状が出るそうです。是非ともお伺いしたいのですが?
ケンポ先生:
私たち、座禅を組む時、わりと多くの人たちが、スタートして間もなく、たくさんのあくび、涙を流す、しゃっくり、ゲップなどに悩まされます。人によっては、頭の天辺とか、身体の各所に『気』の集中が起こって、さまざまな気分の悪い現象が起きるものです。
私たち、どんな人でも、心を平静にして行く時に、何らかの効果が起きているわけです。
このような状態というのは、生理的に自然な反応です。
座禅の姿勢で長時間、深呼吸をしていると、『気』が集中して、いつもとは違った生理現象が起きるものなのです。
自然な反応なのですが、それほどひどい反応でなければ続けて良いでしょう。しかし、あまりにも気分が悪い場合には、ちょっと中断したり、あるいは時間を短くしてみる、などすれば良いと思います。
そして、ニ〜三日中止した後は、最初は10分くらいから始めて、少しずつ時間を伸ばして20分とか、徐々に身体を慣らして行けば問題ないでしょう。
質問者:
ありがとうございます。私もう一つ問題があるんですが、チベット伝来のは、まだで、中国伝来の天台宗の止観(シャマター)をしているのですが、その「六妙門」では、数息法(呼吸の数を数える)をしていまして、私、ふつう一般に座禅の時は数息法を用いると思っていました。そして、そこでは、注意を集中するのは、鼻の頭やお臍のあたりでして、いつも、目を閉じていて、私も、それに慣れているのですが、その方が比較的簡単に集中できると思っていたんですが、やはり、さっき、目を開けて座禅をしたら、心の集中が少し乱れるような気がしました。
それから、多くの先生方が目を閉じている方が開けているより良いと、おっしゃっていますが、この点はいかがでしょうか?
目を開けた方法と閉じた方法、効果が違ってくるのでしょうか?どのような違いがあるのでしょうか?お願いします。
ケンポ先生:
数息法を用いた座禅の方法ですが、すべての仏教で皆、行われています。続けて構わないでしょう。それは、とても良い修行法の一つです。
それから寂止の時、注意を向ける場所ですが、鼻先、眉間、心臓、その他、身体の一部に向けるという方法も、たくさんあります。中には、鼻の先、眉間などに梵字のような文字をイメージし、そこに集中する、などの方法もたくさんあります。
これら、すべて使用して構いません。
もしも、あなたが真剣に修行に励むのなら、どの方法を選んだとしても同じように効果が出るはずです。どの方法を使っても目的を達成するはずです。
心が完全に、とても平静な状態になるならば、どの方法を用いても目標に到達するでしょう。
それから、目を開くか、閉じるかですが、とても多くの人たちが目を閉じることを好んでいます。なぜなら、修行を始めたばかりの頃は、とりあえず目をつぶれば、周囲のモノも見えなくなり、心も比較的簡単に静まって行くことができるからです。
それに対して、目を開けていると、とても多くのモノが見えるので、心を静めるのも、ちょっと難しいです。初心者の人たちは目を閉じて行うのを喜んでいます。
しかし、目を閉じていると、一つ問題が起きてきます。
修行を始めた時は良いのですが、だいたい、5分とか10分くらいですね。そのくらいなら良いのですが、長い時間が経つと、なにしろ目を閉じているので、しかも外の光も届かないため、意識が比較的簡単に混沌状態になりやすくなります。
そのため、時間経過と共に、うとうとしたり、眠ってしまったりで、結局、禅定の効果というモノも、ぼんやりとして、わけがわからなくなりがちです。
ですから、スタート時には、ちょっと難しいと感じられるかも知れませんが、
やはり、なるべく目を開けて座禅をする方が結果として好ましいと、思われます。
この目を開けての座禅も習熟すれば、目を閉じているのと同じくらい、心を静めることが、できるようになります。何も問題ありません。
質問者:
みなさん、こんにちは。一つ質問があるので、お訊ねしたいのですが。仏様や直接の師匠をイメージする時、それらを光の点として、自分の頭の天辺から入れる時、とても難しい気がするのです。
自分を光の点に変え、仏様や直接の師匠の真ん中に入れる方が簡単な気がするのですが、それでも良いのでしょうか?
ケンポ先生:
これには、いくつかの違った観想(イメージトレーニング)がありまして仏様、菩薩様が自分の心に溶け込んでくるタイプ、私たちが仏様、菩薩様の心の真ん中に溶け込んで行くタイプ、違ったタイプの観想が、いろいろあります。
では、私たちは、どんな観想が良いのか?と言えば、そのトレーニングに、合った観想をすれば良いので、結果としては、どちらも同じでしょう。
私たちにとっての難度は、どちらも同じくらいでしょう。
仏様が光となって私たちの心に溶け込んでくるのか?それとも私たちが光となって仏様に溶け込んでいくのか?この程度のイメージの違いは、わずかなものだと思いますよ。難しいとか、難しくないとか、それほどの区別も無いと思います。
質問者:
今の禅の状態、「寂止」では、「知恵は、まだ、無い」と、伺いましたが、その意味について、ご説明いただけますか?
もう一つ質問があるんですが、今朝ほど「意識が心を見る」という言葉をお使いになられましたが、その時の「意識」「心」というものの区別を知りたい、と思います。よろしくお願いします。
ケンポ先生:
まず、私たちが、さっき話した修行法ですが、私たちの心をとても平静にする、ただ、それだけ、その一点のみを目標にしています。
その状態では、まだ、知恵はできない、まだ、足りないんです。
私たちが証悟(悟り)とか、気づきにたどり着かないはずなんです。
まだ、真理とか発見したりしない段階なんです。
ただ、ひたすらに心をとてもとても平静にするのみの修行なんです。
ですので、この修行では「寂止」の「止」までで、「止観」の「観」までは、到達しないのがふつうの反応です。
「観」とは、知恵の事なんです。そして、まだ「観」の修行をしていないのです。ですので、知恵の生成には到ってないのです。
そして、この上に知恵、悟り、気づきが欲しいのなら、さらに次の修行を積まなければなりません。今の、この修行を土台にして、さらに、次の修行をする必要があるわけです。そうすれば、知恵、悟り、気づき、なども身につくはずです。
さらに私たち、ふつうは、これを仏典の中で説かれている「心」それは第一に大脳を指すのではなく、第二に心臓でもありません。それは私たちの精神や全ての精神の総称を指しています。ですから、意識も、また、「心」の一部なんです。そのように仏教では定義しています。でも、時々、その区別があいまいになる事もありますね。
「心」は意識、「意識」は「心」、そんな言い方をする時もあります。
質問者:
「Mind 」「Consciousness 」 の中国語と元々のチベット語を教えて下さい。
ケンポ先生:
「正知」「正念」です。「正知」「正念」が
「Mind 」「Consciousness 」です。
チベット語では「ザンバニェルジャ」です。
(日本語で発音できる:笑)
質問者:
「止観」が同時に成される事はないんでしょうか?
ケンポ先生:
「寂止」の本質は二つのうちの一つ「止」だけです。もしも二つなら名前も「止観」となります。「寂止」はあくまでも「止」までです。
質問者:
「止観」を同時にする瞑想法もあるんですね?
ケンポ先生:
同時に修行することも、別々に修行することもあります。初心者には先に「止」を習得させ、その後に「観」を習得させます。
ただし「止」と「観」を同時に覚えることもあります。両方あるんです。
質問者:
ありがとうございました。
ケンポ先生:(笑い)
質問者:
「止」の瞑想をしているときは、大丈夫なのですが、終わった後で貧血のような、クラクラする時があるんですが、それは、やり方が間違っているのか?それとも毎日、繰り返しても構わないのでしょうか?
ケンポ先生:
この修行を見ていると、何人かの人たちは、最初から最後まで何の生理的症状も出ません。
しかし、何人かの人たちは、座禅の時、「寂止」、その他の修行でも時間が長くなると生理的反応がいろいろ出て来る事があります。
これは、さっきお話ししたのと同じです。もしも反応がひどくなれば、少し休んで、そのまま続けても良いでしょう。しかし症状が重い場合は、ふだんの生活にも支障を来すほどなら、ちょっと中止した方が良いでしょう。一時的に中断してみてください。
そして中断して数日休み、再び開始する時は、最初から1時間、二時間ではなく、10分、20分から始めて、徐々に身体を慣らして行きましょう。そうすれば、問題ないでしょう。
質問者:
最初から成功することはなく、十回やって、2〜3回成功すると聞きましたが、数年やっても同じような状態で、すぐに意識が外れたり、散ってしまう、それから再び集中する、成功の比率が何年も変わらない。進歩が見られない、そんな状態でも、続けて修行しても良いのでしょうか?
ケンポ先生:
う〜ん、2〜3年経っても、と言いますが、2〜3年の意味は?例えば、毎日数時間なら、そんなに長い時間をかけても、何の進歩も無い、と言うなら、それは何か?問題があると思いますよ。
しかし、2〜3年と言っても毎日数十分ならば、それは進歩が無くても当然でしょう。
ケンポ先生:
最後に一個、簡単な質問とかありますか?
質問者:
頭がはっきりしている人には素晴らしい方法ですが、認知症などの病気がある時には、何か有効な方法はあるのでしょうか?あるいは、何らかの方法で今回の教えが適応できますでしょうか?
ケンポ先生:
例えば、たとえ老人性痴呆症でも、頭のはっきりしている時があります。その時に、ちょっと修行してみれば、もしかしたら何かの助けになるかも知れません。
しかし痴呆症や鬱病など、症状の重い時には、本人も修行のしようがありませんね。自分で修行できない状態では、別の人が手助けすることもできません。
ですから、その進展と病気の程度によります。難しいです。ただ比較的症状の軽い時を待つしかありませんね。
これにて、本日の禅の修行、四座、円満に終了しました。最後に、みんなで一緒に回向の詩を詠んでみたいと、思います。
※この場合の「回向」とは、
自分たちの修めた功徳をその他、大勢の人々に、【回】ふりわけ、自他共に悟りを得るための助けに【向】けよう、という意味※
回向偈
༄༅། །དགེ་བསྔོ་ནི།
(チベット語)
བསོད་ནམས་འདི་ཡིས་ཐམས་ཅད་གཟིགས་པ་ཉིད། །
スォナンデイダンジャバニェ
この祝福に究極の知恵が込められていることを
ཐོབ་ནས་ཉེས་པའི་དགྲ་རྣམས་ཕམ་བྱེད་ཅིང༌། །
トォネィニボジャナンパンシュエジィアン
すべての病や仏敵を調伏できることを
སྐྱེ་རྒ་ན་འཆིའི་རྦ་ཀླུང་འཁྲིགས་པ་ཡི། །
ジェカナワロンチェバイェ
生老病死を抑えた天寿をまっとう
できることを
སྲིད་པའི་མཚོ་ལས་འགྲོ་བ་སྒྲོལ་བར་ཤོག །
シュボツォレィジュオワシャオ
海の如きたくさんの生命と喜びを
オンアフンバンザーグルバマスギオン
偉大なるパドマサンバヴァのご加護が有りますように
※ パドマサンバヴァはチベットに仏教をもたらしブッダの再来と呼ばれた。
輪廻転生の過程を描いた「死者の書」を表したほか、「未来社会では数々の自然災害、人災が連発し、人々は鉄の鳥、鉄の車では移動する…」現代社会を見通した数々の預言を遺した。本当に超絶サイキックだったらしい。
ケンポ先生こと
ケンポ・ツルティム・ロドゥ師のウェブサイト
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