Tokyo Weekender Dean Fujioka 和訳 してみた | 華流パラダイス D様応援団

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せんえつながらディーンフジオカ様とダライ・ラマ法王様のダブル【D】様をヨイショさせていただきます(汗滝)

Dean Fujioka Takes a Killer Approach to a Global Career

ディーン・フジオカはグローバル・キャリアでキラーとなった

※「Killer」って何さ? ひらたく言うと「超絶的な魅力を持つ者」かな?

「避ける事が不可能な魅力」って言ったほうが良い?

Tokyo Weekender

さあ、英語圏のディーン・ファンはどんな記事を書いてくれたのかな?

見て見ましょうか?

 

☆多芸多才な俳優を二つの配役から語る

 ディーン・フジオカがシアトル大学でウェブデザインを学ぶためにアメリカに飛んだとき、彼の夢はビルゲイツやスティーブジョブズのような起業家になることだった。(9.11テロ事件の発生により外国人の起業が不可能になる)しかし、皮肉なことに彼の当初の「夢」は叶わなかったものの、同時に、それは、予想もしなかった幸運の幕開けとなった。その後10年ほどの間、彼はモデル、ミュージシャン、俳優、監督として働きつづけ、母国の日本よりも香港と台湾で有名になった。

 

☆ディーン・フジオカは「ケンジ・ハラダ」と言う歴史的なシリーズに参加した

 彼の最新の出演は、4月の初めにWOWOWで放映され始めたアメリカの人気探偵ドラマ「The Pinkertons」。
アンガス・マクファディエンが演じるストーリーの中心人物は、アラン・ピンカートン。彼はピンカートン探偵局の創設者であり、エイブラハム・リンカーン暗殺計画を阻止したとされ、1800年代半ばに名声を博し、この団体は今日でも活動している。この組織は、歴史上名立たる犯罪者を制圧し、19世紀の終わりまで、正規の陸軍よりも多くの捜査員を揃えていた。

「私は北米の歴史について何も知らなかったので、ピンカートンに出演した事は私にとって本当に勉強になりました」

とフジオカ氏はウィークエンダーに語った。

 「この配役に決定した後、自分の研究を開始し、瞬きしない目のロゴが【自分たちは眠らない】というモットーである事を目にするやいなや、とても興味深いストーリーになると感じました。私のキャラクターも面白いです。彼は、父を殺した外交官に復讐するためにアメリカまで旅をしたハラダ・ケンジと言う武士です。私は8つのエピソードに出ました。そのうち1つのエピソードでは重要なキーを握っていて、それは非常に大きな役割を果たしていました。」


「完璧なパフォーマンスを生み出すためのプレッシャーがさらに高まって来たのは、プロとしてのレベルが、アジアで働いていたときよりも高かったからです。それにはいくつかの理由があると思います。まず、予算がはるかに大きい規模でした。また、俳優は尊敬される職業と見なされていると感じました。その前に居た地域では、休憩をほとんどとらずに20時半まで働くように求められることがあり、そのうえ、翌朝の午前5時に目覚め、再び元気になっていることが要求されました。アメリカではそんな事はありません。たぶん、ほとんどの俳優が理想だと感じている国だと思います。私も同じです。」

 

☆彼の将来は明るい。福島生まれ、英語、北京語、広東語、日本語を話し、モデル・クラスのルックス、魅力と言語能力を持ち、国際的活動が大きな印象を与えている。彼はまた、適切なタイミングで適切な場所にいる習慣を身に着けている。

彼のモデルとしてのキャリアは旅行中の香港のステージで始まった。サービスタイム、マイクが観衆に渡された瞬間、飛び込みで演じたステージ。偶然観覧していた雑誌編集者の目に留まった。その後、彼は台湾ドラマのプロデューサーにスカウトされるまでに数多くの雑誌、テレビコマーシャル、映画に出演し、さらに多くの台湾ドラマに出演した。


「私は香港で生活に十分な収入を得て快適でしたが、俳優というものは常に新しい挑戦に誘惑されるものでしょう」とフジオカ氏は語る。 「台湾に行くことは新たなる戦略的な決定でした。それは私の視野を広げ、広東語よりも広く話されている北京語を学ぶ機会を与えてくれました。出演したドラマ(「ホントの恋の見つけ方」と「笑うハナに恋来る」)は大人気で、注目を集め始めました。外出時にはサングラスとマスクを着用しなければならず、苦労しました。それが自分で望んでいた種類の人生であったかどうかを疑問に感じるようになり、やがて、所属していた事務所を辞め、自分の音楽に専念するようになりました。」

 

☆キラー(超絶的魅力者)を演じる
2つのキャストの背後にある物語

 

【ピンカートンファイル】
〇ボルチモア駅暗殺未遂事件

エイブラハム・リンカーンは1865年に暗殺されたが、実は、その4年前にも暗殺未遂事件があった。彼はワシントンで大統領就任式に向かう途中、ボルチモアで列車を乗り換える際に待ち伏せされていたのだ。しかし事前にアラン・ピンカートンに知らされていた彼は姉妹を装ったケイト・ワーナー(ピンカートン捜査員)と別の車両に乗り難を逃れた。


〇ジェシー・ジェームズとフランク・ジェームズ兄弟逮捕事件

1874年、ピンカートン探偵社は、悪名高い強盗ジェシーとフランク・ジェームズを裁判にかけるために身柄を確保するよう依頼された。彼らは翌年、彼らのアジトを急襲したが、ジェームズの異母兄弟を射殺、母親に重症を負わせてしまい、世論はジェームズ兄弟に同情をもたらした。これは探偵社の最大の失敗で、ピンカートンは追跡をあきらめる事となった。

 

【市橋達也殺人死体遺棄事件】
2007年3月24日、市橋達也は英語教師のリンジー・ホーカーをレイプして殺し、アパートのバスタブに砂と堆肥を入れ遺体を隠した。 2日後、警察は彼の居場所を包囲したが、市橋は辛くも裸足で逃走した。しかも、その後2年半の間、逃亡を続け、沖縄の無人島を含む全国のさまざまな場所に滞在した。彼は偽名を使用し、日雇い仕事を続けながら数回にわたり整形手術で人相を変えた。しかし、整形クリニックの1つが疑念を抱き、警察に通報した情報が最終的に逮捕につながった。 2009年11月10日、沖縄行きのフェリーに乗り込もうとして捕まった。彼は、2011年に懲役刑を言い渡された。

 

☆ディーン・フジオカは
才能溢れるソウルフルなシンガーであり、音楽に情熱を注いでいるが、まだ俳優としてのキャリアをあきらめようと思っていない。 2010年に彼は日本の代理店であるアミューズと署名したのだが、彼らが割り振った最初のプロジェクトは、非常に物議を醸した「I am Ichihashi:逮捕されるまで」であった。市橋達也の自伝に基づいて描かれた映画。その原作本は、殺人の公判を待っている間に書かれたもので、名前を変更したこと、無人島に隠れたこと、そして剃刀で自分自身に整形手術を行うことなどが含まれていた。警察を逃れるために使用された技法についても説明していた。ストーリーには実際の殺人についての描写は何もなかったのだが、世間の評論家には市橋の逮捕からわずか18か月後に、その映画を作るのは不愉快だと論じる者も多く存在した。このような映画は時として犯罪者をヒロイックに描く危険もあったが、監督・主演・作曲を手がけたフジオカ氏は、自分もプロデューサーの中沢俊明も市橋を美化する意図はないと語った。

 

「犠牲者とその家族の心を傷つけることのないよう撮影すること、それは私のもっとも重視した課題でした」と彼は語る。「あの殺人犯の行動を擁護しようとしたり、称賛を与えようとか、そんな気持ちはありませんでした。しかし、私たちにはこのエピソードから学ぶべき教訓があると感じたんです。市橋さんに連絡を取ろうともしました。しかし、彼の弁護士は、映画が作られていることを知ったのは良しとしても、精神的に、それについて話すのは適切ではないと述べました。ですので、私は彼をよく知っている人にアドバイスをもらおうとしました。」


「私は映画を作っている間、ある複雑な感情を抱きました。確かに魅力的な役柄を演じたいと思っていましたが、私はこの作品の配役については全く自信がありませんでした。

最初は俳優の役割しか与えられなかったにも関わらず、いくつかの調査を行っているうちに、エグゼクティブプロデューサーと会って問題について話し合うことになりました。

その時、周囲の多くの人が私にこの役だけは演じてはいけないと言ったのも確かです。はじめ友人や家族は私が狂っていると思ったようです。(母国日本での初主演なのに)こんな仕事をしたら、悪い印象がついてしまって、その後、テレビをはじめとした、すべてのメディアから仕事が来なくなると言われました。

しかしです、まず彼の本を読んで最初に頭に浮かんだ大きな疑問は、なぜ?誰もがこのようなものを出版したくないのか? また、誰がそれを読むことに興味を持つか?私は戸惑いました。悲しいことに、このような疑念が1分ごとに消えては生まれ、とめどなく続くのです。この特殊な事件って、いったい何だろうか?

私は、その時期、国外で生活していたので、日本で何が起こっているのか何も知りませんでした。近年、若者が暴力に鈍感になってきていることにも興味がありました。したがって、私は、このようなストーリーを映画を通して見せることで、もしかして、この種の事件を減らすことができるかも知れない? この映画を俳優だけでなく監督もして欲しい、という申し出も受け入れました。」

 

これはフジオカ氏の勇気ある決断であり、彼のイメージを悪化させ、深刻な打撃を与えた可能性さえあった。しかし、 幸いなことに、34歳の彼のイメージは変わらず、逆に彼のキャリアは強さを増し続けている。

将来は、まだ見通せない。。彼は自分の好奇心の赴くまま、新しいことにチャレンジすることを認めている。 長年にわたり、DJとして働いたり、写真を撮ったり、アマチュアボクサーに挑戦したり、さまざまな武術を試したりしている。 彼は今、中華武術に端を発した剣舞の表演にはまり、台湾のクルーと一緒にステージでセッションすることを望んでいる。 

しかし、彼の心中の双子は、「ピンカートン」でアメリカ・デビューに続いて忙しくなるはずのスケジュールを待ち望んでいるのも事実。 

 

かつて起業家になることを夢見ていた若者は、今や芸能界、アーティストとしての夢を生き続けている。




海外の記者の書いた記事って凄い説得力
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