二宮翁夜話 | 森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnのブログ

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台風一過後 早朝に職場に行く道すがら

ジョギングしていると 洗い流された塵も微塵も

ない洗練された気を感じました 台風は恐ろしいもの

ですが 過ぎ去った後の一種の清清しさというものは

世に溜まった負の念を洗い流し 大地の原初の気を

感じさせるという地球の自浄性 その素晴らしさと畏怖

の念 を改めて感じさせられました

さて今回は前回少し名言をあげた 二宮尊徳の言葉と共に

学んでいこうと思います 個人的に座右の書といえます

 

 

 

翁はこう言われた

神道は開闢の大道であり 皇国の本源の道である

豊葦原をこのような瑞穂の国 平和な国と治められた大道である

この開国の道は すなわち真の神道である わが神道が盛んに

行われてから後に儒教も仏教も入ってきたのだ わが神道開闢の

道がまだ盛んにならない前に儒仏の道が入ってくる道理はない

わが神道 すなわち開闢の大道が行われ 十分に事足りるように

なってから 世上に難しいことも生じ その時になって初めて儒も入用

仏も入用となったのだ これはまことに疑いもない道理だ

たとえば まだ嫁のないときに夫婦喧嘩があるわけがない まだ子が

幼少なのに親子喧嘩があるはずはない 嫁があって後に夫婦喧嘩が

あり 子が成長して後に親子喧嘩があるのだ このときになって初めて

五倫・五常も悟道・治心(道を悟り 心を治める)も入用となるのだ

それを 世人はこの道理に暗くて 治国・治心の道をもって本源の道と

する これは大きな誤りだ 本源の道は開闢の道であることは明らかだ

私はこの迷いをさまさせるために

 

 古道につもる木の葉をかきわけて

  天照らす神の足跡を見ん

 

と詠んだ よく味わってもらいたい 大御神の足跡のあるところがすなわち

神道である はなはだしきに至っては 巫祝(神事を司る者)の輩が神札を

くばって朱銭を乞うのを神道者というようになった 神道というものは 

どうしてこのように卑しいものであろうか よく考えてみよ

 

 

とwまあ田舎の頑固な古老が土地の者に語り継がせるような調子(二宮翁

夜話)なのですが 知ってのとおり彼は飢饉の救世主であり 飢饉の村に

出向いてはその不動・不退転の心を是とし 民衆を救ったのです つまり

行動の人 天地の人であるので 一切の蒙昧や戯言を受け付けない

信念の人といえるものです その様子は

 

 

翁はこう言われた 私が烏山その他で実施した飢饉の救助方法は まず

村々に諭して 飢渇に迫った者のうちを分けて老人・幼少・病身などで

労働のできない者 また婦女子でその日の働きが十分にできない者を

残らず取り調べさせて 寺院か大きな家を借り受けて ここに集めて男女を

分かち 三十か四十人くらいを一組として 一箇所に世話人を一、二名置き

一人について一日に白米一合ずつと定め 四十人ならば一度に一升の白米に

水を多く入れて粥に炊き 塩も入れて それを四十の椀に甲乙なく平等に

盛って一椀ずつ与える また一度は同様であるが 菜を少し混ぜ 味噌をいれて

うすい雑炊として 前と同様に持って一椀ずつ与える こうして代る代る朝から

夕まで 一日に四度ずつと定めて与えるのだ

(これを与えるときに ねんごろに諭す)

~また身体強壮の男女には別に法を立てて よくよく説諭して 平常五厘の

縄一房を七厘に 一銭の草鞋を一銭五厘に 三十銭の木綿布を四十銭に

買い上げ 平日十五銭の日雇賃金は二十五銭ずつ支払うから 村中一同が

奮発努力し 勤めて銭をとって自活するがよい 

~さてその仕事は 道橋を修理し 用水・悪水の堀をさらい 川除け堤を修理し

沃土を掘り出して 下田・下畑に入れ 畦の曲がったのを真直に通し 狭い田を

合わせて大きくするなど その土地土地について工夫をすれば 仕事はいくらでも

あるだろう ~かつその村里に永久の幸福を残し そのうえ美名をのこす道である

恵んで無駄にならないばかりか 少し恵んで大利益を生ずる良法である はなはだ

しい窮乏を救うには これより良い方法はない これは私が実地に施工した

大略である

 

翁はこう言われた

天保四年と同七年の 両度の凶年で 七年がもっともひどかった

早春から引き続いて気候が不順で 梅雨から土用に降り続き 気候ははなはだ

寒冷で 雨天・曇天のみで 晴れた日はまれであった 晴れると思えば曇り

曇ると思えば雨が降った 私は土用前から心配していたが 土用にかかって

空の景色が何となく秋めき 草木に触れる風も秋風めいた ちょうどそのころ

他より新茄子が到来したのを糠味噌につけて食したところが自然に秋茄子の味が

した これによって意を決してその晩から凶年の用意に心を配り 人々に諭して

その用意をさせ その夜終夜手紙を書いて諸方に使いを出し 凶年の用意一途

に力を尽くした

 その方法は 明地・空地はもちろん 木綿の生えている畑を潰し 荒地・廃地を

起こしてそば・だいこん・からぶな・にんじんなどを十分に蒔き付けさせ 粟・稗

大豆など すべて食料になるものの耕作・培養を精細にさせ また穀物の売買が

あるときには 何品にかぎらずみなこれを買い入れ すでに借入金をするにも

抵当がなくなったので 貸金の証文を抵当に入れて金を用意した

 

 

とwまあ 実地に強い人 飢饉の英雄の言葉というのは大層説得力があり

具体的でありかつ わかりやすいということです その中で困窮のさなかであっても

それにうつつを抜かすことを断じて許さず あくまでもその時々に出来る事を

民衆にやらせている ということがとても肝要であるように思えました

これらは勝さん(海舟)の言うところのー実際 であり 呼吸 なのだと思います

一切の官職に伴ううぬぼれを捨て その土地土地の民衆と渾然一体となり

意欲とやる気を掻き立てて 説諭し時に激昂しつつ 心が折れている人々が

あくまで自ら行動することを目論みそれを盛んに奨励して救ってきたのです

さあ 頑固翁の説得力が増したところで次のお話しw

 

 

ー翁はこう言われた

仏書に 光明偏十方世界 念仏衆生摂取不捨 と言っている

光明とは太陽に光を言う 十方とは東西南北いぬいひつじたつみうしとらの

八方に天地を加えて十方というのだ 念仏衆生とは この太陽の徳を念じ

慕う一切の生物をいう 天地間に生育するもの 有情蠢動の動物はもちろん

無情の草木であっても みな太陽の徳を慕って 生々を念としている

この念のあるものを 仏国だから念仏衆生と言うのだ 神国では念神衆生と

詠めばよい ゆえにこの念のあるものは一つ残らず生育を遂げさせて

捨てられることがないことで 太陽の大徳を述べたものである すなわち

天照大神のことだ このように太陽の徳は広大であるが 芽を出そうとする

信念 育とうとする気力のないものは仕方がない 芽を出そうとする信念

育とうとする生気のあるものならば みな芽を出させ お育てになられる

これが太陽の大徳だ わが無利息金貸付の法は この太陽の徳に

かたどって立てたものだ それゆえ どんな大借でも 人情を失わずに

利息を滞りなく返済している者 また是非とも全部返済して他に損失を

かけまいという信念のある者は たとえば芽を出したい 育ちたいという

生気のある草木に同じだから この無利息金を貸して引き立ててやるべきだ

無利子の金であっても 人情がなく利子も返さず 元金をも踏み倒そうとする

する者は すでに生気のなくなった草木に同じだ これはいわゆる縁なき

衆生で どうにもすることができない 捨ておくよりほかに道はない

 

 

彼の教えに自活することの大切さが繰り返し述べられています そしてそう

するように企てられていて それは太陽の習いだと言うことです

イエスも太陽は善人でも悪人でもあまねく照らすからである あなたがたも

そのようになりなさい や 奇跡に応じないイチジクの話し  また空に

飛ぶ鳥 野に咲く花より 神々の恩恵 と恵みを自然になぞらわせて

示唆しています

 

 

翁はこう言われた

天道は自然である 人道は天道に従うけれども また人為である

人道を尽くして天道に任すべきである 人為をゆるがせにして天道を

恨んではいけない 庭前の落葉は天道である 無心に日夜積もる

これを払わないのは人道ではない 払えばまた落ちる それに心を煩わし

心を労し 一葉が落ちれば 箒を取って立つなどは 塵芥のために

使い立てられるというもので 愚かな事だ 木の葉の落ちるのは天道

である 人道をもって毎朝一度は払うがよい しかしまた落ちても捨て

置いて 無心の落葉に使い立てられてはいけない また人道をゆるがせ

にして 積もり放題にしてはならない これが人道である 愚人であろうと

悪人であろうと よく教えるがよい 教えて聞かなくても それに心を

労してはならない 聞かないからと言って捨てることなく 何度でも教えるが

よい 教えてもその通りにしないからと言って憤慨してはいけない 聞かない

からといって捨ててしまうのは不仁である 教えてもその通りにしないからと

いって憤慨するのは天智である 不仁と不智とは徳者の恐れる所である

仁・智二つを心がけて 自分の徳を全うすべきだ

 

 

なーんだ落ち葉の加減の話か と思ってはいけませんw

これは人を説く加減の話であるということです

たまに駅のホームで人の足元まで掃かないと気がすまないという清掃の

人を見かけたりしますが -真面目(ジメジメ) というものですw

つまり その人を気にしすぎてイライラしていては最早落ち葉の小僧に

成り下がるわけですw

 

 

ー翁はこう言われた 

人道は人がつくったものである だから自然に行われる
天理とは別である 天理とは春には生じ秋には枯れ 火は乾いたものに
燃えつき 水は低い所に流れる 昼夜働いて永遠に変わらないものである
人道は日々夜々尽力を尽くし 保護して成り立つ それゆえ天道の自然に
任せれば たちまち廃れて行われなくなる だから人道は 情欲のままに
するときは成り立たないものだ たとえば 漫々たる海上には道がないようだが
船道を定め それによらなければ岩にふれる 道路も同じこと 自分の思う
ままに行けば突きあたる 言語も同じ 思うままに言葉を出せば たちまち
争いを生ずる
 そこで人道は 欲を押え 情を制し 勤め勤めて成るものだ うまい食事
美しい着物が欲しいのは天性の自然だ これを押え それを忍んで家産の
分内にしたがわせる 身体の安逸 奢侈を願うのもまた同じことだ 好きな
酒をひかえ 安逸を戒め 欲しい美食・美服を押え 分限の内からさらに
節約し 余裕を生じ それを他人に譲り 将来に備えるべきだ これを人道と
いうものである

 

 

テクノロジーは廃れるといったイーロンマスクの話を思い出しますが それは

人道だからです あくまでも僕らは人類と言う諸先輩が天道に逆らって培って

きた基礎の上で今に至る生活をしていると言うことです(誰も自ら木を切って家を

建てた家に住んでいないように) それは先祖の功績であり 彼らの血汗と

いう代償がなければ 存在していないものです

 また一度欲に駆られてテーブルの上のお菓子をすべて平らげてしまうことは

自然であると言うことです されど それを半分保存しておいて 一つ自分が食べ

残りのお菓子を友人に分け与えることは人道であると言うことです

 これは自発的に自らを律することで余裕が生じ その余裕を分け与えることで 

徳を貯める行為と言えます

 

 

つまりは天地人の理を翁が昔の夜話のように述べていると言うことです

昔は各村にこういった古老が存在していて 人間の成り立ちと神の話し

といった世界を僕らに繋いでくれていたものですが そういったコミュニテイ

を失くして 核家族化が進み テクノロジーは進化し スマホはいじれるけれど

何で自分が存在しているのかがわからない という若者は世の中に溢れ

かえっているものです その中で刹那主義的 享楽主義的な甘美な世界に

傾倒し 自らを見失い 彷徨い続けている人々が跋扈しているwわけです

しかしながら 自らにインテリジェンスをもたらすのは自らでしかないのです

太陽は変わらず僕らを照らしますが それに応えるのは僕らでしかないのです

同様に後輩や友人を諭すときも 太陽がそうしてくれているように決して見捨てず

かといって気にしすぎもせず 無限性の忍耐でもって たまに助言する という

呼吸が大事ですw あらゆる意味で現代人はー呼吸 を忘れている気がします

バリ島の兄貴はー自分120パーセントやからや それを30パーセントで余裕が

あるから人に分け与えられるねんて と言っておりましたw 日本人の古来から

持つ勤勉さとそれに伴う心の余裕を取り戻せれば 日本はさらに豊かに恒久的な

恵みを神から与えられ それをしっかと糧に出来るのではないかと願っております

 

 

ー人生の真の目的は神を知ることです しかし一方で 人間には世俗的快楽

への誘惑というものが与えられています あなたの識別選択の能力を強化する

ためです 五感の快楽を求めるのか それとも神を求めるのかと言う選択です

快楽は 初めは魅惑的ですが もしそれを選ぶなら 遅かれ早かれ 終わることの

ない苦悩と困難にとらわれることになるでしょう

 五感の快楽の誘惑に屈した人々はすべて 健康や心の平和そして喜びの喪失

という結末を受け入れなければなりません 一方 ひとたび神を知るなら 無限の

喜びはあなたのものです 

 いずれにせよ すべての人々は 最終的にこの大いなる教訓を学ばなければ

ならないのです

 

 

ー宗教にとって真の礎となるものは 信じることではなく 直感あるいは直接的に

体験することです 直観力とは神を知るための魂のパワーです

宗教が結局のところ何なのかを知るためには ひとはどうしても神を知らなければ

ならないのです

 

 

                            パラマハンサ ヨガナンダ