疲れる日々 | 沈みかけ泥舟のメモ

沈みかけ泥舟のメモ

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今はネタバレなしの映画感想ブログ化してます。

誰かが亡くなったというニュースを耳にすると
胸が痛む片隅でうらやましいと感じる今日この頃。

独りきりの身で、特にやりたいこともなく
あらゆる意味で持たざる者として在ると
生きていることが、単に死んでいないことと同義になります。

今日という日は、昨日死んだ人が生きることを夢見た明日だ
なんて言葉をどこかで聞きましたし
一日も早く人生を終えたいと願うのは
ひどく贅沢だと言われればその通りです。

ですが、ある人にとっては恋人にふられることが
人生の終わりくらいの大問題であるように
悩みや苦しみの重さ、大きさは「その人自身」にしかわかりません。
「ふざけただけ」「からかっただけ」の行為が
相手には死を選ぶほどの苦しみだったりするわけです。

周りの人は「何でそんなことで」と思い
社会では「大した問題ではない」と言われてしまうことが
ある人にとっては生き続けることを止めたくなる問題だったりするわけです。

誰かが自殺すると遺書の有無に関わらず
遺された人は「ナゼ」という思いにとらわれますが
その人の「世界」を本当に共有することは出来ないので
当然わかりようがないわけです。

いつも隣で笑っている人が、毎日「死にたい」と思いながら
何とか日々をやり過ごしているかもしれないわけです。

どんな慰めも励ましも説教も罵声も届かない
暗い底から明るい社会を見上げるように生きることは辛いものです。

泥舟、自分の身体が画面を通して眺める他人の身体のよう。