伝道標語 令和5年 秋彼岸

 

秋彼岸中に掲示した伝道標語です。

 

今日で秋彼岸は終わりましたが、しばらくは掲示していると思います。

 

 

うまい話にゃ

 ウラがある

耳に痛い話こそ

 自分のためになる

 

 標語としての出来はイマイチであること

は重々承知しております。でも、大事なこと

だと思います。

 若い時は、お年寄りの忠告や説教なんて

敬遠していました。ましてや、思い出話なんて

聞かされても理解不能な場合も多いだけに、

早々に用事をでっち上げてその場を立ち去って

いたと思います。同じような経験をされた方も

多いと思います。今の若い方なら、忠告や説教

を堂々と拒絶するかもしれません。

 

 

 私自身が「年寄り」に分類される年齢に

近づいてきているせいでしょうか、もっと真剣

に忠告や思い出話を聞いておけば良かったなあ

と反省することも多いです。

 すべての忠告や思い出話がためになると限り

ませんが、ためになる話もたくさんあります。

其の時は聞く耳を持たず無関心だった話でも、

かなりの時を経て思い返すと、其の時の話が

とてもためになる話だったことに気付くことは

多いのです。とても貴重な機会であったことに

気付くことも多いのです。後になって「あの時、

もっとちゃんと聞いておけば良かったなあ。」

と航海することは多いんです。

 

 

祖父から聞いておけば良かったなあ、

と後悔していること

 

 

 私の祖父千葉愨道和尚は岩手県千厩町大光寺

25世として昭和10年から昭和48年まで住職を

勤めておりました。大光寺住職となる前の数年

間、群馬県館林市の雲龍寺の住職を勤めていた

そうです。

 私が小学校か中学校の頃、祖父は「田中正造

は偉い人だった。」「古河市兵衛は悪い奴だっ

た。」と語っていたことがありました。一応、

田中正造の名前は本を読んでしていました。

明治期の衆議院議員であり、足尾鉱山から流

れた鉱毒被害に苦しむ民衆のため、尽力され

た活動家です。被害者救済のため、明治天皇

に直訴を試みたが、目的は果たせなかった。

古河市兵衛は足尾鉱山のオーナーであり、

古河財閥の創始者です。

 なんで祖父は突然田中正造や古河市兵衛の

ことを言い始めたのか、其の当時の私は全く

理解できなかった。だいぶ後になって、田中

正造翁が逝去された際、密葬が執り行われた

のが雲龍寺であったことを知りました。祖父

の先代か先々代の御住職が勤められたのだろ

う。古河財閥と政府の癒着のため、鉱毒被害

が矮小化されたり、谷中村を鉱毒解消のため

の遊水地にしようとして廃村とさせたり、か

なり非道なことがあったようです。祖父が

雲龍寺の住職していた当時、明治からさほど

時間は経過しておらず、足尾鉱毒被害や谷中

村滅亡を目の当たりにした方々がたくさん存命

しており、多くの生の証言を聞いていたと思い

ます。

 足尾鉱毒事件は日本産業史の大きな汚点で

あり、日本公害史の原点とも言える事件です。

 

なんでちゃんと聞かなかったのかなあ。馬鹿で

すねえ。私は。と悔やんでおります。

 

 

 

 

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