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日々折々  アマゾンの読経上映会  in 仙台  (其の1)

 平成18年9月1日に当寺の本堂でドキュメンタリービデオの上映会が開催されました。ブラジル在住の映像作家岡村淳監督が資材を投げ打って9年間に渡って取材撮影編集に取組んできた大作である。
以下の文章は、この上映会の感想を『私たちの40年』というブラジル移民関係者のサイトhttp://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/index.phpに報告したものです。


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わたしたちの40年 管理人 和田好司様

先にお知らせ致しました岡村淳監督ドキュメンタリー作品『アマゾンの読経』上映会が、当寺を会場に9月1日に開催されました。3部5時間16分の作品を昼食や休憩を挟みながら上映するのですから、かなりの長時間を要します。全く人が集まらなくては寂しいから、当寺の檀家さんや宮城県海外移住家族会会員、そして当方の知る範囲でブラジルにご縁があるような方や関心のありそうな方にもいくらかは呼びかけました。
岡村監督の勧め(脅迫?)で河北新報(東北地方で一番の地方紙)の大友記者が取材に8月26日に見えました。大友記者は日本ブラジル交流協会の元研修留学生で、ポートアレグロで和田さんにとてもお世話になったとか。取材はして行ったが、上映会のことが翌日の新聞にも翌々日の新聞にも載らないので、ボツになったのかなあと思っていました。そしたら、8月30日の朝刊に思いのほか大きく載りました。 

  やはり新聞記事の影響力は大きく、上映会主催者の佐藤仁一氏には結構問い合わせがあり、新聞記事を見たという知り合いなどからも洞林寺にも電話がありました。当寺の先住と藤川師への供養の意味でも、お昼にお茶とおにぎりだけでも提供させてもらうことにしていました。当初多くとも50人ぐらいと見込んでいましたが、もっと多くなるかと思われたので、おにぎりの数を追加することにしました。

  元曹洞宗南米開教師の猪俣正孝老師、普段はサンパウロ在住ですが日本に来ていたブラジル宮城県人会副会長石田俊朗氏(当寺の前住職吉田道彦と移民船さんとす丸で一緒)、曹洞宗サンパウロ佛心寺の信者弓桁正夫氏もわざわざおいでいただきました。京極昭宮城ブラジル友好協会会長にもお越しいただきました。主催者は作品紹介のチラシとアンケート用紙を70部用意しましたが、足りなくなり、また洞林寺で用意したお茶のペットボトルも100本以上出ました。主催者の開会の挨拶、会場主として私の挨拶、そして岡村監督の解説で上映会は始まりました。昼食用のテーブルを置いたり上映機材を置いたりしていたので、あまり広い本堂ではないこともあって、100人以上の人が座るとほぼ満員という状況でした。
 
 所用や体調不良のため、第1部や第2部終了後に帰られた方もいくらかいましたが、60人前後の方々が10時半から17時半まで熱心に観賞され、大きな拍手の中上映会は無事終了しました。すべての方々から感想を聞くことは出来ませんでした。長時間の作品であることから、疲れを感じたり冗長に感じたりという方もおられたようです。しかし、「勉強になりました。」「感動した。」という声も寄せられました。うちの母の話では、海外移住家族会会員の方で、一つ一つの言葉に頷いたり目頭を熱くしたりしている方もいたそうです。ブラジル移民関係者以外の方々にとって、移民事業や移民生活等について多少なりとも理解を深めて頂く良い機会となったのではないかと思います。

 当日、本堂の須弥壇には、宮城県海外移住家族会前会長鎌田源一郎の発願による「海外移住物故者諸精霊」の位牌が安置され、上映会終了後に来場された皆様にご焼香していただきました。上映会終了後は寺の座敷でささやかな懇親会が行なわれました。岡村監督はかつて『60年目の東京物語』取材撮影の際、会津若松で取材した後に森下妙子さんと共に仙台に来て居酒屋で食べたサンマの刺身が凄く印象に残っているとのことでしたので、サンマの刺身を準備いたしました。
私の感想も述べるべきなのでしょうが、9月1日の夕方には御通夜があり9月2日には葬儀があるため、その準備などもあったため第3部を全部見ることが出来ませんでした。責任ある感想は現時点では申し上げられませんが、藤川辰雄氏が死者の泣き声呻き声を感じ取ったということは凄いことだと思いました。私自身はその域まで達することは出来ないかもしれませんが、そういうものを感じ取れるよう精進せねばと思いました。

  伊豆大島の富士見観音は今後どのように維持管理されていくのか?誰によって守っていくのか?ブラジル研修留学生による伐採清掃活動する姿にいくらか光がさしたようには思えますが、根本的な解決にはなり得ないでしょう。

  そう思うと同時にいささか身につまされる思いになりました。と言いますのは、宮城県大崎市の東鳴子温泉にある「宮城県海外移住慰霊碑」のことです。昭和50年代に宮城県海外協会と宮城県海外移住家族会の手で建立され、毎年慰霊祭が行なわれています。以前は、宮城県助成による県費留学生や海外技術研修生が毎年かなりの人数宮城県に滞在しており、そういう方々のうち南米移民の親族に当たる方々が慰霊祭に招待されていました。また、宮城県が長年実施してきた「海外移住者里帰り事業」では、南米から数十年振りに里帰りした方々を必ず鳴子の慰霊碑に案内し、お焼香していました。
  しかし、県の財源不足に伴い、県費留学生も里帰り事業も廃止となり、技術研修生もかなり削減されました。そして、移民船廃止以来30年以上が経過して、宮城県海外移住家族会の会員は激減し、慰霊祭参加者も年々減少しております。戦後の海外移住事業を行なってきた宮城県海外協会は宮城県国際交流協会となり、その業務内容から移住事業は全く無くなり、海外移住者への支援等の項目もありません。国際交流協会職員で海外移住事業時代のことを知る人はもはや誰もいないし、鳴子で行なう慰霊祭もルーテインワーク化しつつあると言えましょう。

 笠戸丸から百周年を迎えようとしている中で、ブラジル日系社会も更なる転換点を迎えようとしていることと思います。海外移住者を送り出した側の留守家族も、今後どうあるべきか?悩みは尽きないところです。最後はグチみたいになってしまって申し訳ございません。
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画像 1番上     平成18年8月30日の『河北新報』朝刊の記事
   2番目     作品を解説する岡村監督
   3番目     洞林寺本堂内の観客




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