余談雑談  ゲガレ-死穢(しえ)と血穢(けつえ)―について

「 仏事についてのQ&A」のところで、服喪に関連して、殯(もがり)という民俗学の概念を少々説明させてもらった。たまたま、カンヌ映画祭でグランプリ(と言っても、日本式に言えば準優勝)を受賞した河瀬直美監督の作品の題が『殯(もがり)の森』であったから、ちょっとはタイムリーかなあと思って説明させてもらいました。

 民俗学に詳しい或る知りあいから、珍しくお褒めのメールをいただきました。

「もがり」の考察、よろしかったですね。
民俗学と在俗葬式仏教の知見の融和、見事です。
質問される方のレベルを考えると、もう少しコンパクトの方がよろしいかなとも存じました。

何分、私如きよりも多くの現場、多くのフィールドワークをこなしている御仁なので、なかなか一筋縄ではいかない。前半は珍しくお褒めに預かったが、結局後半は「だらだらと長い説明になったのではないか」という趣旨のお叱りをいただいた形となった。

  このお叱りは、ごもっともである。自分でも長くなってしまったなあ、と正直思った。あれも言いたい、これも説明したい、と欲張ったことが原因である。また、読み返すと、もう少しケガレについてきちんとした説明すべきであったという反省も出てくる。そこで、以前ケガレということについて若干考察した文章があるので、ここに紹介したい。




死穢(しえ)と血穢(けつえ)について



 日本人の民俗的な信仰の根底には、ケガレという信仰的概念の存在が認められます。神道という宗教自体、ケガレという概念を前提として存在してる部分が大きいと思います。我々人間が穢れた存在であるからこそ、「払いたまえ、清めたまえ」という儀礼を行うのです。
 
 そのケガレ(穢れ)の代表的なものとして、死穢(しえ)と血穢(けつえ)があります。

 死穢とは、人の死ということに伴い、その死体そのものが穢れた存在となり、その死体に接した者にケガレが憑いて穢れた存在となるという考え方です。
古くは『古事記』の「イザナミノミコトが焼死して黄泉の国に行った事に伴い、ケガレた身となった。」旨の記述が認められます。死のケガレが他に累を及ぼさないようにするため、殯屋(もがりや)に遺体を安置し喪主が一定期間そこに居住するという習慣がありました。死者の再生を願って埋葬を延期するための手段でもあり、喪主が悲嘆にくれて泣き明かす(現代風に言えば、グリーフワーク)ための場でもありました。しかし、死穢という概念の存在の方がより大きな要因であったと思われます。今日でも「お葬式に参列したら、お正月が出来ない。」と言う方が結構居ます。葬儀に参列することで死穢が自分に憑いてくると思っているからです。

 血穢とは、出産や月経に伴い女性が血を出すことによってケガレが生じるという考えです。出産のため、産屋(うぶや)もしくは産小屋(うぶごや)という施設を準備し妊婦をそこに住まわせるという習俗も、血穢という概念に由来していると思います。但し、妊婦を休ませたり産後の体調回復を図ったりというするための施設でもあったと思います。母胎の健康管理という側面も当然あったと思います。ケガレを理由とした隔離とみるか、母胎の安全のための療養とみるか、そう単純には断定できないかもしれません。それぞれの時代と地域性の中で、前者が強調されたり後者が強調されたりということがあったと思います。

 民俗的な歴史の中で、血穢という概念から女性を差別してきた事例は多いと思います。例えば、霊場と呼ばれる場所が女人禁制になっている場合がありますが、それには血穢という背景が考えられます。但し、それらすべてが悪しき風習で有るか否かについては、慎重な検討が必要であろう。昨年、内館牧子氏が出された著書 『女はなぜ土俵にあがれないのか』が参考になると思われる。
 
  もう一つ大きな問題に、血盆経があります。血盆経信仰が一部の仏教寺院を通して伝承されてきたという問題です。血盆経(けつぼんきょう)信仰は本来の仏教の教えではありません。血穢という民俗的信仰から発生した信仰です。この経典を信仰することで血穢から女性を救済するという内容のお経(当然にせもののお経です)であり、女性を差別する内容のものですが、比較的最近までこのお経をまことしやかに伝承されてきたようです。残念ながら、これは日本仏教の負の遺産であると言えるでしょう。そして、このことを大きな反省材料として、これからの日本仏教を構築していくことが必要だと思います。


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