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仏事についての疑問質問6 「喪に服す」とはどういうことか? Part2
―カンヌ映画祭グランプリ作品『殯(もがり)の森』と関連してー



  つい最近、妻が不慮の事故で亡くなりました。昨日、親戚の方の訃報が届きました。近所の方から「お宅はこのあいだ奥さんが亡くなったばかりだから、よその葬儀に出ると迷惑をかけるよ。」と言われました。これは、どういうことでしょうか?


  Part1でも答えましたように、古来から日本人は死を恐れ、死体を恐れてきました。それは、死によって死者の体がケガレ、その家も親族もケガレてしまうと考えてきたからです。死のケガレが無くなるまで一定の期間が必要であり、服喪と言ってその期間中身を慎むよう強いられてきたのです。
 今日でも、「葬儀に参列したから(死のケガレが付いたから)、正月が出来ない。」とか「親族が亡くなったから、知人の結婚式には出れない。」と真顔で言う方がかなりおられます。
それと同じような考えからご近所の方はあなたにアドバイスをされたのだと思います。多くの日本人に見られる考え方ではありますが、奥様が亡くなられたことで、「あなたとあなたの御家族が穢れた存在である。」とみなされた訳です。言った方は好意で言ったつもりでしょうが、ご遺族にとっては不愉快なアドバイスですね。

服喪の背景には、殯(もがり)という習俗があります。

『日本民俗事典』によれば、「死にあたって、喪屋を作り、中に柩を置き、食膳を供し歌舞を行うことをいう。人が死んで魂が呼び戻せなくなるのは1年後と考えられ、この期間にモガリノミヤ(殯宮)で霊魂を付着させる儀礼があったとされる。」とある。

 この時代(古墳時代から飛鳥時代ごろまで)、殯という葬送儀礼は、皇室や有力な豪族に限られていた。葬送儀礼自体も特定の身分の人に限られていました。
 殯の実体は、死者の再生を願うと共に、死者の鎮魂と死者とその家族の浄化を行うことである。そこには、死穢―死のケガレーという概念の存在が想定される。死者を追慕し、遺族が悲嘆に暮れて泣き暮らすための場を提供してきた部分もある。今日で言えば、モーニングワーク(心理学用語で喪の仕事と翻訳されています)の役割を果たすものでもあったと言えます。
殯屋は、住居とは別な場所に設置されていた。隔離された場所にである。そこには、死と死者を忌み嫌う面の方が強かったことが感じ取れる。ケガレを嫌う考えが強かったのだろう。そして、死者によってケガレが生じるという考えは、時代を越えて、現代にまで受継がれてきています。

今日、「殯」という言葉を知る人は、よほど民俗学や歴史学に関心が有る人を除いて、いないと思います。ところが、昨日、にわかにこの言葉が芸能関係のニュースの中で報道されました。


南フランスで開かれていた第60回カンヌ国際映画祭は27日夜(日本時間28日未明)、コンペティション部門の授賞式が行われ、日本映画「殯(もがり)の森」の河瀬直美監督(37)が最高賞パルムドールに次ぐグランプリに選ばれた。


『殯(もがり)の森』http://www.mogarinomori.com/
この作品は一般公開されていないので、詳しい内容はわかりません。おそらく、殯(もがり)のモーニングワーク的な側面をモチーフにしたのだろうと思います。
 
 ちょっと脱線しましたが、服喪ということに話を戻しましょう。前にも書きましたが、仏教的に「喪に服す」とは、追善また精進という行であるべきだと思います。故人の冥福を願って、何か善行を積む。供養の為に、自発的に自分なりの修行を始める。そういう意味での服喪なら、たいへん良いことだと思います。

Part1で少し触れましたが、遺族の結婚式の出席や旅行のことについて考えてみたいと思います。

葬儀後に遺族が結婚式に出席したり、旅行に出かけたりすること。これらのことを、死のケガレ云々から是か非かという判断をすべきではないと思います。ましてや、明治に太政官布告で制定した服喪規定を持ち出すべきではないと思います。
結婚式の場合で言えば、亡くなった故人と自分との関係、そして、結婚式の当事者との関係で総合的に判断するしかないでしょう。自分が亡くなったことが理由で、遺族が予定していた結婚式への出席を取りやめる。このことを亡くなった故人が望むか望まないか、喜ぶか喜ばないか、それが一つの判断基準だと思います。
また、自分自身のお気持ちの問題でもあると思います。ご家族の他界によって外に出る気になれないという場合もあると思います。華やかな場所、お祝いの場に出席する気持ちになれない場合もあると思います。そういう心境であることを伝えれば、結婚式の当事者も理解してくれると思います。つらい悲しいでいっぱいであっても、結婚式の当事者を是非とも祝ってあげたいというお気持ちなら、出席してあげればよろしいのではないかと思います。
繰り返しますが、「葬式を出した自分が出席すれば、迷惑をかける。」
「葬式を出した者は、結婚式に出てはいけない。」という考えは、やめましょう。そういう考えは捨てましょう。こういう考えが社会規範化している地域の場合は、なかなか難しい部分があるとは思いますが。

旅行に関しては、はっきり言って、故人と遺族の方の関係の問題でしょう。故人が存命なら、遺族に対して「是非、行ってらっしゃい。」と行ってくれるような旅行なら、行くべきでしょう。と言うか、こういう場合はまず悩まないでしょう。

遺族の旅行に関してお寺に相談に来るケースは、二つあります。

一つは世間の目の問題です。喪中の自分が旅行に行って良いのかどうか、それを周りの人はどうみるのか、そういう点を気にしての相談です。まあ、喪中だからと行って、会社の出張を断る人はいないでしょうし、それを理由に断ることは出来ないでしょう。そうなると、仕事以外の旅行でしょう。遺族としてやるべきことをやっているなら、世間の目を気にする必要は無いと思います。お寺側から見ても、生前中も葬儀後も故人のために精一杯尽くしておられる方には「あなたはやるべきことをしっかりなさっていると思います。まわりの目を気にしなくても、大丈夫ですよ。」と申し上げたことがあります。

もう一つは故人との関係です。故人に対して失礼ではないか、申し訳なくないか、という相談です。生前、故人の介護や看病を十分にしてあげられなかった方が、そのことについて負い目を感じて相談に来る訳です。こういう場合、お寺側としてはそのことの是非を申しかねます。Part1で申し上げた葬儀屋さんの「赤信号、みんなで渡れば大丈夫」的な考えは間違っていることを説明し、ケガレているから出かけていけないという考えは仏教にはないことを説明し、喪中ということをどう考えるべきか説明し、あとはご自分で判断してくださいと申し上げております。



上記、写真は、2007年カンヌ映画祭グランプリ受賞の河瀬直美監督



 

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