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法話21  「幸せとは、何か?」 考えて見ましょう。

                    平成16年3月洞林寺婦人会例会にて

七草や雛祭りの由来を調べてみたら、かなり宗教的な意味合いのある行事であることがわかりました.

   五節句
     1月7日 ー 人日の節句 無病息災を祈る
     3月3日 ー 上巳の節句 禊をして不浄を祓う
     5月5日 ー 端午の節句 邪気を祓う
     7月7日 ー 七夕    芸事の上達を願う
     9月9日 ー 重陽の節句 延命長寿を願う

邪気や不浄なるものを取除き、健康長寿を願い、芸事の向上を願う。節句という行事にはこれらの願いが込められています。

仏教寺院で御祈祷を行なう場合でも、「家内安全」「身体健全」「交通安全」「学業成就」「五穀豊穣」「商売繁盛」という祈願を頼まれます。家族みんな健康で、平和で、学校の勉強もいい成績で、おまんまに不自由する事無く、商売も上手くいって欲しい。そういう願いです。
では、どうしたら、そういう願いは叶えられるでしょうか。その願いが叶えられるように、まず本人・当事者が努力することでしょう。でも本人の努力だけでは、願いは叶わないのかも知れません。そのことは、御祈祷の時に「諸縁吉祥ならんことをー」と祈っていることからもわかります。願いを叶えるための諸縁(いろいろな条件)がうまくいってくれますように、と祈願しているのです。つまり、当事者本人がどんな行動を取るのか(因)、そしてどんな条件(縁)の下でそれがなされるか。つまり因と縁によって結果が生じてくるのです。条件は祈りようがありますが、後は本人の行動如何なのです。

では、こうした願いが叶えられた時、私たちは幸せになれるでしょうか?これらの願いが叶わない時、私たちは不幸でしょうか?
健康な人がすべて幸せで、健康に恵まれない人がすべて不幸であるということは無いと思います。お金があることが幸福な場合もありますが、お金が人間関係を壊し不幸を招くこともあると思います。

相田みつをさんの詩の中に、「幸せとは何だろう?」
という疑問に対する答えがあると思います。

     しあわせは
     いつも 
     じぶんのこころがきめる

「しあわせってどんな時感じますか?」
楽しい時?つらい時?何か苦労を乗り越えた時?いろんな場面があると思います。

「しあわせって、どこで感じますか?」
身体で?頭で?心で?それとも魂?というよりも、自分そのもの?
同じことでも、人によって感じ方が違うように、幸せについてだって人によって受け止め方が違うと思います。
 人それぞれの「幸せの物差し」が違うんです。幸せは自分で決めること。自分自身の「幸せの物差し」がどんなものか、よくよく点検してみる必要があると思います。子供さんや孫さんを躾けたり教育したりしていく中で、どういう「物差し」を持った人間に育っていくか、気をつけなければならないと思います。

  もう一つ「幸せ」を考える上で大切なことは、人と人との関係だと思います。以前、酒井大岳老師の法話を拝聴した際、
「生きる喜びとは、人に喜びを与えること。喜びを与えて、そのことを感謝されることである。」という言葉に聞いて、たいへん感銘を受けました。

  自分の存在を受け止めてくれる人がいる。自分の行動を感謝してくれる人がいる。世の中、すべての人が良い人ばかりとはいきませんが、自分を認めてくれる人がいる。自分を必要としている人がいる。そう感じられる時、「幸せ」ということではないかあと思いました。次に紹介するする相田さんの詩がこのことをいっていると思います。


     ただいるだけで

     あなたがそこに
     ただいるだけで
     その場の空気が
     あかるくなる
  
     あなたがそこに
     ただいるだけで
     みんなのこころが
     やすらぐ
     そんな
     あなたにわたしも
     なりたい


追記
 上記、文中で私が言いたかったのは、他者の「しあわせ」を判断することは出来ないし、他者に自分の「しあわせ」の価値観を強いることは出来ない、ということです。「しあわせは じぶんのこころが きめる」という言葉は、他者に自分の価値観を押し付けようとした言葉ではありません。相田みつをさんが聞法修行を通して内省を通して、発露した言葉だと思います。悪い意味での現状肯定や体制追従を理論武装する言葉と考えてはならないと思います。
 この言葉をどう理解したら良いのか、参考になるブログがありましたので、引用させていただきます。


「幸せは自分のこころがで決める」
生活が豊かになっても、欲しい物が手に入っても、満足できない自分がいる。平和で安全で差別の無い環境にあったとしても、心の平和を得ることが出来ない。そういう場合も、あると思います。この言葉を、誰が誰に対して、どういう文脈で語るかによって、仏教の教えとなったり仏教の教えで得なくなったりするのではないかと思います。
 何かの本で読んだ言葉ですが、「仏教は第一人称」という言葉を記憶しています。「あなた」や「彼や彼女」に語ったり命令するのではない。自分自身が気づいたこととして、語るべき言葉。それが大事だという意味に理解しました。キリスト教イスラム教を「契約の宗教」「命令の宗教」と理解するならば、仏教は「悟りの宗教」「自覚の宗教」と言えると思います。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html

このブログの管理者「地の声」さんが「しあわせは じぶんの こころがきめる」という言葉の問題点を指摘したことに対して、骨山住職さんという方が「じぶんで きめ」てもいいと思います、という意見を述べたものです。

 

 

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