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法話8:仏様の値打ち(洞林寺護持会会報 平成19年新年号より)

 仏様の値打ち

1、お寺や仏像を見るときに
 年回法要のあとの法事の席で、檀家さんの親戚の方から良く聞かれる質問があります。
「こちらのお寺は出来てから、何年経ちますか?」「360年になります。」「へえー、随分歴史あるお寺なんですね。」「いや、それほどでも。」すると、ビールを注ぎにまわって来た方から「木下にある国分寺薬師堂は奈良時代からあるってよ。」という言葉がでてくることがあります。その話から「奈良時代からのお寺というなら、やっぱ東大寺の大仏さんだろう。」「いや、立派といえば中尊寺の金色堂だろう。国宝に指定されて、金ぴかのお堂はすごいよ。」という話に発展します。
 どれくらい歴史があるか、本堂や本尊はどれくらい大きいか、いくら金をかけた建物なのかということで、お寺の価値を決める方が多いようです。ちょっと寂しいことだと思いました。

 平成11年多賀城市に東北歴史博物館が宮城県によって建てられました。そのオープン記念の特別展が開催されましたが、そのテーマが「祈りー東北の仏たちー」というものでした。東北各地のお寺から仏像を借りてきて、何十体と展示しています。国の重要文化財に指定されている仏教美術的にも立派な仏像もありました。ところが、木の材質があまり良くなかったのか、顔が欠けていたり手が取れたりという仏像も多いのです。
 仏像と言っても如来・菩薩・明王と分類されます。分類するには、仏像彫刻の約束事があります。ところが、約束事があまり守られていない。如来なんだか菩薩なんだか、観音様なのか文殊様なのか、わからない。専門の仏像彫刻家―仏師―ではなく、専門外の木工職人が彫ったのかもしれません。「祈りー東北の仏たちー」というテーマの特別展といっても、東北の仏教文化を知る上で有意義な展示ですが、「仏教美術的にはイマイチの仏像も。」と感じました。しかし、小さい頃に読んだ或る民話のことを思い出して、そう感じた自分を反省しました。

2、民話が教えてくれること
 
 木仏と金仏

 あるところに長者さんがおった。りっぱな金の仏様を大事にしておったんだと。
村の若い衆がそれを見て、
「おらもあんな仏さまを持てたらなあ」
と思っていると、川上から棒っきれが流れてきたんだと。ひろいあげてみると、棒っきれは仏さまの姿をしてる。若者は家にもってかえって朝晩お供え物をして大事に拝んでいたんだと。
 ある夜、長者さんが物音に気が付いて目をさますと、家の前に村人が集まって何かしている。様子を見に行くと、長者さんの金仏と、若者の木仏が、とっくみあって相撲をとっているのだった。
「こりゃあ愉快だ。川流れの棒っきれ様がうちの金仏さんに勝てるはずがない。もし棒っきれ様が勝てたら、わしの家屋敷、田畑すべて、耳そろえて若者にくれてやるぞ」
 長者さんがそういうので、村の衆もおもしろがって、川流れの棒っきれ様を応援しはじめた。そのうち、棒っきれ様が長者さんの金仏をぽーんと投げ飛ばして一本あった。
長者さんは真っ赤になって、
「この役立たずの金くずめ。棒っきれなんかに負けおってからに」 と、金仏をしかりつけた。
すると、金の仏さんは
「そんなことをいっても、年に三度のおまんまじゃ力がでねえ。棒っきれ様は若者の家で毎朝毎晩まんまいただいて、力をつけているんだから、勝ってあたりまえじゃねえだか」と言うんだって。
 それを聞いて長者さんは恥ずかしくなって、若者に家屋敷と田畑をやると、どこか遠くの町へ行ってしまったんだとさ。
 
 この民話は、金とか木という材質の差で仏様の値打ちは決まるものでは無いということを教えてくれます。「仏教美術的に」という見方も大事だがそういう尺度で仏像を見たら、古いか、大きいか、高価か、という物差しでお寺を見る方とあまり変わりません。もっと大切な見方があるのです。
 朝な夕なに地域の人々が花やお供物をあげに来たり、近所の子供たちがお堂の周りで遊びそしてお参りして帰っていく。本来あるべきところにあってこそありがたい仏様なのだと思います。美術品としての価値よりも、地域の善男善女にどのようにお参りしてもらい、どのように信仰されているかが大事ではないか、と思いました。
 この民話に出て来る若者は、お経を知らなくても、「おかげさま」という言葉はきっと知っていると思います。目には見えないけれど、何か大きな偉大な力に支えられ今ここに生きている。そういう気持ちで毎日を生きている人間だと思います。きっと木仏様に「おはようございます。今日一日、よろしくお願いいたします。」「お晩でございます。今日も一日ありがとうございます。」という気持ちで毎朝毎晩お参りしご飯をお供えして来たと思います。この若者の一生懸命お供えしお参りしてきたことが、木仏様をありがたい仏様にしたのであと思います。

洞林寺の本尊様を本当に価値あるものにするよう精進しなければ、と改めて思った次第です。